第10話 イラストモデル

 「ただいまー」


 バイトから帰宅して家のドアを開けると、デミグラスソースの匂いが鼻をつついてきた。


 しばらくしないうちに奥の台所から萌香が顔だけ玄関の方に覗かせてくる。


 「あ、お帰りなさーい!」


 どうやら萌香は料理中で手が離せないようだった。


 俺は玄関で靴を脱いでから手を洗うために台所へ向かった。この家には洗面台なんてものはないので、手を洗うのはいつも台所である。


 台所へ向かうと、そこではエプロンを着た萌香がデミグラスハンバーグを作っていた。


 「デミグラスハンバーグか! まるで俺の好みを把握しているみたいだな」

 「大抵の人はデミグラスハンバーグが好きなものですよ。あと十分少々でできますから、ちょっと待っていてくださいね」

 「はいよ。ていうか、エプロン持参していたのか?」


 もちろん俺の家にエプロンなんてない。しかし萌香は花柄の可愛らしいエプロンを着ているのだ。


 「今日百円ショップで買ったんです。やっぱりエプロンがあると気合が入りますから」

 「間違いない。ありがとう」


 俺はなぜか礼を言っていた。


 「なにか手伝えることはあるか?」

 「そうですね、ではご飯をついでおいてもらえますか」

 「了解」


 俺は萌香がハンバーグの仕上げに入っている間に食卓の準備を進めていった。


 やがて出来上がったデミグラスハンバーグは、まるでどこかの洋食屋のそれみたいに丸っこくて、いまにも肉汁が弾けそうな具合だった。


 どうやら萌香はひき肉をこねるところから作ったらしく、デミグラスソースまでお手製ということだった。その腕前には感服せざるを得ない。


 「「いただきまーす」」


 二人して腰を下ろし、手を合わせてから満を辞してハンバーグを一口頬張る。


 すると一気に口の中に甘い肉汁が弾けた。


 「う、うまい……!」


 その神がかった美味しさに思わず声を上げてしまう。萌香はそんな俺を見て、「レシピ通りに作っただけですよ」と謙虚に振る舞っていた。


 そしてしばらくしてから、俺は今日バイト先で萌香の採用の件について社員さんに伝えたことを話した。


 社員さんいわく人手不足だからちょうどいいということだったので、早くも明後日に面接をすることになった。萌香はその話を聞いて大いに喜んでいた。


 俺たちはその後もくだらない雑談をして、時折笑い合いながら箸を進めていった。


 なんだかんだ二十分くらいで食べ終えると、俺たちは手分けして食器を洗った。二人だと台所はかなり狭いので、ほとんど肩を触れ合わせながら手を動かすという形になる。


 一通り洗い終えたところで、萌香はふと何かを思い出したようだった。


 「そうだ! ちょっとだけ圭太くんにお願いがあるんです!」

 「お願い?」

 「はい! 私をモデルにカメラで撮影をして欲しいんです!」

 「撮影? どうしたんだよ急に。そんなことしてどうする」

 「イラストを描くときの参考にしたいんです!」

 「イラスト……?」


 正直萌香が何を言っているのかよくわからなかった。


 思えば、イラストレーターを夢見ている萌香の絵をまだ一度も見たことがない。というかそもそも、萌香の言うイラストとはどういう類のものなのだろうか。とりあえず実際に描いたものを見てみたい。


 「ちなみにどんなイラストを描いているのか見せてくれよ」


 俺が言うと、萌香は悩まし気な顔をした。


 「そうですね……撮影をしてくれたら見せてあげます!」

 「わかった。なにでどう撮影すればいいんだ?」

 「私がいろんなポーズをしますから、それをこれで撮ってください」


 萌香はそう言ってカメラモードになっているスマホを手渡してきた。


 そして萌香はさっそくベッドの方へと向かい、ポージングを考え始める。


 萌香は膝丈くらいのヒラヒラなスカートを履いているので、あんまり大胆なポーズをとることはできないだろう。


 ……と思ったら、いきなり女の子座りをしてみせた。


 もちろんスカートは手で押さえられているので下着は見えないが、かえってその際どさがエロティックを醸し出していた。


 「自分からやっといてなんですが、やっぱりちょっと恥ずかしいですね……」


 萌香は顔を赤らめていた。俺の顔の温度も心なしか上昇しているように感じられる。


 「……んで、この姿を撮ればいいのか?」

 「はい、お願いします」


 ということで、とりあえず一回シャーターを切ってみた。


 撮れた写真を見てみると、当たり前だがそこには顔を赤らめながら女の子座りをする萌香の姿が写っている。


 「……なあこれ、本当に意味あるのか?」


 さすがにそうツッコまずにはいられなかった。


 「ありますよ。良いイラストを描くためには良い素材が必要なんです。一応ポーズ集とかも売っていますけど、やっぱり実際の人間の姿が一番参考になりますからね。お金もかからないですし」

 「撮っている側としては恥ずかしさが半端じゃないんだが」

 「撮られている側の私の方が恥ずかしいですよ」

 「頼んできたのはそっちだがな」

 「そ、それはそうですけど……。ほら、つべこべ言わずに撮ってくださいっ」

 「ったく……」


 俺は半ば呆れながらも、女の子座りの萌香を前にもう何回かシャッターを切った。


 「じゃあ次はっと……」


 萌香は女の子座りだった体勢を崩し、次のポーズを模索し始めた。


 そんな萌香を凝視し続けることはできそうになかったので、俺はなんとなく目線を逸らしてポーズが決まるのを待っていた。


 「では、次はこれで……」


 萌香の言葉を聞いてから再びベッドの方へ目を向けると、そこには四つん這いになった萌香がいた。


 下着はぎりぎり見えていないが、それはほとんど誤差に近い。


 「一体どういうイラストを描こうとしているんだよ……!」

 「いいから早く撮ってください! 恥ずかしいんですから!」

 「だからそっちからけしかけたんだろうが!」

 「いいから!」

 「なんなんだよ……!」


 俺はさっきよりも幾分か上昇した顔の熱を感じながら、また何回かシャッターを切った。


 「……これでいいか」

 「はい、ありがとうございます。……あ、ちょっと待ってください」


 萌香はそう言うと、手のひらで支えていた四つん這いから、肘で支える四つん這いへと移行していった。


 そうなるとおのずと萌香はより前傾姿勢になるわけで、相対的にこちら側に向けられている尻の部分が強調されて……。


 「ちょ……! おい!」

 「と、撮ってください!」

 「撮ってくださいじゃねぇよ!」


 今ここでシャッターを切るわけにはどうしてもいかない。


 なんせ今シャッターを切ったら、ピンク色の下着が完全に映り込んでしまう。


 「なんでですか! 早くしてください!」


 萌香はより一層顔を赤らめて催促してくるが、俺は目線を逸らすことで精一杯だった。


 「無理だ! 撮れない!」

 「なんでですか!」


 なんでですかと聞かれて、一瞬どう答えればいいのか迷ったが、ここまで来たら事実を告げてしまうのが手っ取り早い。


 「下着がばっちり映り込むんだよ!」

 「……え?」


 俺が目の前で起きている事実をそのまま告げると、萌香はあまりに情けないすっとぼけたような声を出した。


 それから数秒間の沈黙が流れた。


 俺はしばらく目を逸らしていたので萌香がどんな表情をしていたのかはわからなかったが、その数秒間萌香が悶絶していたことはなんとなく想像することができた。


 「自業自得だからな」


 これで変に俺が責められるのは嫌だったので、そう付け加えておいた。


 「不覚でした……」

 「スカート履いてるんだから、普通はそのくらい予想がつくだろ」

 「家だとつい……」


 どうやら萌香はここをまるで実家か何かだと勘違いしているらしい。……まあそう思ってくれる分には嬉しいのだが、だとしても無防備過ぎる。


 「ちょっとはそういうところも気をつけろよ。曲がりなりにも男と同棲しているんだからな。これで俺が発情して襲い掛かるようなことでもしたらどうするんだよ」

 「圭太くんはそんなことしません」


 萌香はキッパリと言った。


 「たしかにする気はないけどさぁ……。そういう問題じゃないだろこれは。モラルの問題だ」

 「はい……。気をつけます……」


 萌香はなんだかんだで反省しているようだった。


 今までなんとなくやり過ごしてきたが、冷静に考えれば年頃の男女がワンルームで寝食を共にするわけだ。これから先はもうちょっと二人での暮らしについて考えなければならないのかもしれない。今回の一件でそう気づかされた。

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