4-8 光

 カルマの血が黒くなったと知ったとき、ナナギが覚えたのは罪悪感ではなく歓喜だった。

 最低な人間だと思った。ただひとりの友人を呪われた血で穢しておきながら、そこにほのかな優越感を抱き、満たされる独占欲を感じるなど。

 父親と同じだ。血のつながりこそがすべてだという盲信で母を苦しめたあの男と、自分はなにも変わらない。

 彼を閉じ込める鳥籠の主が許せなかった。彼の中に他人の心臓が埋め込まれている事実に嫉妬した。

 三年前のあの日。彼を救う手段として自らの血を使うことを選んだのは、そんな不純な動機からではなかったのか。


 母親の裏切りに気づいたとき、ナナギはすべての事情を騎士団に話すことを決意した。協力を仰ぐべきだと思った。心臓の守護はオペラ家の管轄だ。アメジスト家が無断で手を出すこと自体がまちがっている。母のことがなかったとしても、いずれは報告していただろう。その時期が訪れたのだと考えた。

 けれど甘かった。母の真意に気づいた息子の動きに母が気づいた。騎士団が立てた突入作戦は決行前にロニに知られ、かつて彼が拠点としていたリザーの町は灰色人グレースケールの蔓延る戦場となった。

 混沌の中、ナナギは必死にカルマをさがした。

 いつもの寝室に彼の姿はなかった。すでにロニに連れて行かれたのかもしれない。それだけは絶対に許さない、自分は彼を自由にするためにここに来たのだと、屋敷の中を駆け回った。

 ようやく発見した彼は、二階の奥にある物置となっていた部屋にいた。

 不自然に扉の開いたその場所に足を踏み入れた瞬間、目に飛び込んできた光景に絶句した。

 明かりのない薄暗い部屋の壁際で、黒髪の少女が涙を流して呆然と座り込んでいた。いるはずのない妹だった。

 カルマはその前でぐったりと横たわっていた。

 生気をなくした人形のように白い顔と、閉じられた瞼。いまにも途切れそうな呼吸。彼の身体を中心として、床に大量の鮮血が広がっていた。

 二人を覆う巨大な影があった。両手に鋭い爪を持つ人型の灰色人グレースケールだった。

 化け物の濁った目玉がゆらりと自分に向けられたとき、ナナギは事態を把握した。


 母や兄の行動を訝しんだルダが、混乱に乗じて密かに自分たちについてきたこと。

 屋敷の中で迷ってしまった彼女が、灰色人グレースケールに襲われたこと。

 それを偶然見つけたカルマが、彼女を庇って怪我をしたこと。


 即座に操血魔術を発動し、友人を傷つけた化け物の体を真っ二つに切り裂いた。お兄ちゃん、とか細い声を発した妹を押し退け、床に倒れたまま動かないカルマを上から覗き込んだ瞬間の、すとんと内臓が抜け落ちるような感覚は一生忘れることができないだろう。

 カルマは瀕死の状態だった。灰色人グレースケールの爪で腹を貫かれていた。出血は止まらず、顔面は蒼白。息をしていることが不思議なほどの重傷だった。

 血とともに流れていくカルマの命を目の前にして、ナナギは生まれて初めての絶望を味わった。唇が震え、息が詰まった。隣で怯える妹の存在が頭から消える程度には、冷静さを失っていた。

 

 ──平気だよ。おれは黒血に呪われないから

 

 かつて聞いた彼の言葉が脳裏をよぎった。瞬間、ナナギは無意識のうちに自分の指を噛み切っていた。

 真っ赤に染まったカルマの腹部に、純黒の血を一滴垂らした。魔力を練り、細い糸の形状にした己の血を、傷口から彼の体内に注入した。

 輸血と縫合。魔力による細胞の活性化。自身の血を操ることで、カルマの身体を内側から治療しようと試みたのだ。

 結果的に、カルマの傷は塞がった。奇跡としか言いようのない現象だった。

 ロニが現れたのはその直後のことだ。一命を取り留めたカルマをナナギから奪い、憎しみに満ちた眼を光らせて彼は言った。


 ──お前がこの子を穢したのか


 ナナギはロニを睨みつけた。穢したのはお前だろう。その無垢な体に化け物の心臓を入れて、自分のために利用して。

 ナナギは騎士団の一員になることを決めたのは、あのあと結局ロニを逃してしまったからだ。

 彼が呼んだ灰色人グレースケールに行く手を阻まれ、妹を守りながら戦うことで精一杯だったナナギは、カルマを助けられなかった。

 今回もそう。また逃がした。大量の灰色人グレースケールを放つという同じ手に引っかかったのだ。これで二度目──いや、三度目か。つくづく憎たらしい男だと思う。


(──変わらないな、僕は)


 ザン、と前方に迫る二体の敵を同時に斬り伏せた。背後から襲いくる気配に、地面に広がる血溜まりから生まれた黒血の刃で対応する。どさりと崩れた化け物の灰塵を避けるように横に飛び、伸ばした血で離れた場所にいる巨大な個体を攻撃した。


 あの事件から三年後。再会したカルマの血は黒くなっていた。自分の血を取り込んだことが原因だとすぐにわかった。白も、黒も効かない、灰色の心臓さえ受け入れる彼の体質が影響したのだろう。

 ナナギはカルマに真実を話せなかった。自分が黒血になった経緯を知った彼に嫌われたくない、という月並みな理由ならまだよかったが。

 わかっていた。彼が自分を嫌うことはないと。

 むしろ感謝されるだろう。ありがとう、おれを助けてくれて、と。銀色の瞳をきらりと瞬かせ、灰茶色の髪の毛をふわりと揺らして、彼は笑うのだ。

 それがわかっていたから言えなかった。善意だけではなかったから。友人の命を救えてよかったという純粋な安堵の他に、彼の中を満たすのが自分の血であることに喜びを覚える醜い心を自覚していたから。

 感謝されたくなかった。彼を穢した自分を肯定してしまうことが怖かった。

 どこまでも愚かで、身勝手な人間だ。彼の友人でいる資格もない。ないはずなのに、その立場を失うのはいやだと心から叫ぶ自分がいる。

 だからせめて、とナナギは思う。この街は守ろう。少しでもカルマの憂いを晴らすために。

 数時間前に触れたカルマの手の温度を思い出しながら、一体、また一体と敵を斬る。

 外套マントを翻し、後方に跳んだ。壊れた噴水の上に乗る爬虫類のような形をした化け物を、血の刃で一瞬のうちに沈める。

 そのときだった。ドン、と激しく地面が揺れ、ガラガラと瓦礫が落ちる音が響いた。

 音のした方に視線を移すと、建物の前に新たな灰色人グレースケールが出現していた。

 二足歩行。人型。警戒するような大きさではない、と思った瞬間。


「──ガガァアア、アアァァァ!」


 その灰色人グレースケールが絶叫した。空間を震わせるほどの咆哮。黒い外套マントがばさりと揺れ、噴水の表面が波紋を描く。

 ナナギは悟った。これはただの灰色人グレースケールではないと。

 最近になって出現し始めた、人間を基にして生まれた悲劇の怪物だ。


(できれば相手にしたくなかったが……)


 きっとカルマは悲しむだろう。元の人間を想い心を痛める。そして、その人間に手をかけたナナギのことも気遣うのだ。

 友の憂いを想像したナナギの血が、ゆらりとなびいて刃の形を失いかけたときだった。


「──ナナギ!」


 声が聞こえた。ナナギが対峙する灰色人グレースケールの真上から。

 同時に、漆黒の外套マントをはためかせて降ってきた人の影。

 建物の上から飛び降りてきたらしいその影は、真下にいた化け物の頭に勢いよく着地したあと、ばっと顔を上げてナナギを見た。


「カルマくん……!?」


 ナナギは瞠目した。なぜ、彼がここに。


「まってナナギ、いま……わっ!」

「カルマくん!」


 激しく身を捩った怪物に振り落とされそうになったカルマが、慌てたように声を上げた。

 あせったナナギがとっさに操血術を発動し、血の刃を伸び上がらせた瞬間。カルマと、彼が必死にしがみつく怪物の全身が、眩い光に包まれた。


「なんだ……」


 サラサラと、溶けるように崩れていく人から生まれた灰色人グレースケールの体。きらきらと浮かび上がる光の粒。

 ナナギは大きく目を見開いた。何が起きているのかわからなかった。

 次の瞬間、どさりという音を響かせ、光の中からカルマが姿を現した。いてて、とカルマが頭を押さえる。その前方に人間の男が倒れていた。


「……これは」


 地面に座り込むカルマに近づき、ナナギは呟く。

 二十代くらいの若い男性だった。肌の一部が灰色に濁り、ひゅうひゅうと苦しそうな呼吸をしてはいるが、生きていた。

 先程の怪物の姿はどこにもない。つまりこの男は。


「戻せるみたいなんだ、人間の姿に」


 嘘みたいな話だけど、と困ったような顔でカルマが微笑む。

 ナナギは言葉を失った。よろめきながら立ち上がったカルマの前で、想像以上に動揺している自分がいることを悟られぬよう、握った拳に力を込める。


「……どうしてきた」


 悩んだ末、ナナギはそう尋ねた。

 きてほしくなかった。すべてが終わるまで眠っていてほしかった。

 そんなナナギの気持ちを察したのか、申し訳なさそうに眉を下げてカルマは言った。


「思い出したんだ」


 息をのんだ。茶色い前髪をはらりと揺らし、穏やかな表情を向けてくるカルマを信じらない気持ちで見つめる。


「ありがとう」


 そう言ってカルマは笑った。


「あの日、おれを助けてくれて。生かしてくれて……ありがとう」

「……カルマくん」

「すぐにでもナナギに会って、伝えたかった。だからおれはここにきたんだ」


 昔と同じ屈託のない表情で。眩しいほど真っ直ぐな銀色の瞳に、夜空を照らす星屑のような輝きを散らして。

 だからナナギは観念した。


「──変わらないな」


 君も、と呟いて目を閉じる。

 闇夜にも似た瞼の裏で、時が経とうと、色が変わろうとも消えることのないナナギの星が瞬いていた。

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