4-2 涙
幼い子供たちが、道の真ん中で地面に絵を描いて遊んでいた。
くすくすと響く笑い声。やわらかな陽射しの下、寄り添い合うようにして重なるいくつかの影。
陽の当たらない建物の陰から、カルマはじっとその様子を見つめていた。楽しそうだなと思った。自分もまぜてほしいと。
誘われるように子供たちに近づいた。あなたは人間と関わっちゃだめ、という母親の言いつけも忘れて。
すると彼らはひどく怯えた顔をした。幽霊でも見たかのような反応だった。
どうしたの、と尋ねる。いちばん年上らしい一人の少年が、他の子供たちを自分の背中に隠して叫ぶ。
化け物め、こっちにくるな、と。
──どうして?
カルマの口から出た言葉だが、それはカルマの声ではない。か細い少女の声だった。
子供たちはいっそう恐怖を抱いたように後ずさり、カルマから距離を取る。
胸が引き裂かれるように苦しかった。
この苦しみはだれのものだろう、と考えたところで、カルマはそれが、自分であって自分ではない少女の感情であることに気がつく。
これはカルマが彼女だった頃の記憶なのだろう。正確には、カルマの心臓がまだ彼女のものだった頃の記憶。
──お願い、待って
自分から逃げていく子供たちに手を伸ばす。届かない。ぎゅっと強く手を握った。
グズリと。手のひらに爪が食い込む。鈍い痛みが走り、ぽたぽたと血がこぼれる。
赤でも、白でも、黒でもない。灰色の血。
この血のせいで嫌われる。化け物だと罵られる。
自身の頬を生ぬるいものがつたうのを、カルマは感じた。
ああ。この液体は──涙は、透明なのに。
血と涙は同じ成分でできている。そんな記述を何かの本で見たことがあるが、本当だろうか。
もしそうなら、すべて透明になってしまえばいい。色なんてものが存在するから、自分たちは拒絶されるのだ。
そう思ったとき、本のページがめくれるように場面が変わった。
影と日向の境目にカルマは立っていた。下を見ると、壊れかけた人形のような塊が足元に転がっている。先程の子供たちの中の一人だった。
力なく地面に横たわる少年の頬には、どろりとした灰色の液体がべったりと付着していた。
次の瞬間。ぼこりと、少年の顔が膨れ上がる。
徐々に水分を失い乾いていく皮膚。ぐにゃりと曲がる短い手足。灰色になった体が痙攣し、人間のものとは思えない激しい啼き声が、辺りの空気をぶるりと揺らす。
カルマの──少女の口から悲鳴がこぼれた。
ああ、またやってしまった。この血で人を怪物に変えてしまった。
それだけは絶対にだめだと、両親から言われていたのに。
「──……っ!」
はっと目を覚ます。激しい動悸。呼吸は乱れ、全身が汗でびっしょりと濡れていた。
胸を押さえながら身体を起こすと、この数週間ですっかり見慣れた白い壁が目に入った。騎士団の
ここ数日、何度も同じ夢をみる。
カルマ自身が〈灰色の子〉になる夢だ。灰色の血を流し、名も知らぬ他人を意思なき怪物の姿に変える夢。〈灰色の子〉の記憶を追体験しているのではないかと思う。
(……あそこまで鮮明な夢、前まではみなかったのに)
人から生まれた
一体ではない。あのときカルマたちの目の前で朽ち果てた個体の登場を皮切りに、この三日間で既に四体の元人間の
人間を怪物の姿に変える。
封印される前の〈灰色の子〉が犯した罪だ。少女が流す灰色の血に触れた人間は、意思をなくした異形の存在と成り果てる。
だが、肉体をばらばらにされた少女にそんな真似ができるわけがない。人間を
その主犯はおそらく。
「カルマ! おはよ~」
部屋を出ると、溌剌とした声の主に呼びとめられた。
手を振りながら元気にカルマのもとに駆けてくるのは、クロエだった。
「おはようございます。……クロエさん。大丈夫ですか? その怪我……」
心配を滲ませた声でカルマは言う。
「あー、これ? 昨日相手にした
曇りのない笑顔を見せるクロエだったが、カルマの気分は重たかった。
彼女たちのふつうの中に自分はいない。安全な屋敷の中に匿われ、守られるだけの日々を過ごしている。
ここ数日の騎士団は、カルマ以外の全員が常に任務に追われている状況だった。
三日前に起こった事件の直後から、
人間を
「……あの、何かおれに手伝えることはありませんか?」
カルマを狙ってシグナスの港に現れたグレート。真意こそ定かではないが、明確な敵意を持ってカルマへの接触を図った白十字教団のザリ・クオーツ。
またいつ彼らに襲われるかわからない以上、いまのカルマがそう簡単に
だからといって、自分だけ何もしないのは心苦しい。
「おれは……まだちゃんと
「叔父さんのせいだからって? 気にしないでよ。カルマは何も悪くないんだから」
「……」
「でもたしかに、ずっと屋敷に籠ってるのも身体に悪いもんね。おつかいとか、頼んでもいい?」
予備の薬が切れかけちゃって、とクロエが笑って肩をすくめる。
いいんですか、とカルマは目を瞬かせた。
「心配だけど、いつもお世話になってる薬屋はすぐそこだから。人の通りも多いし。ちょっとまって、いまメモを……」
「カルマくん」
声の主はナナギだった。
昨日の夜から隣町の
「おかえり」
「ただいま帰りました。……彼と何の話を?」
「備品の買い出しをお願いしようと思って」
「彼を外に出すのは危険だと前にも言ったはずですが」
クロエを見つめる紺色の瞳が静かに光る。
自分が責められているような気がして、カルマはぐっと声を詰まらせた。
「クロエさんは悪くないよ。おれが何かさせてくれって頼んだんだ」
「なにも外出する必要はないだろう」
「でも買い出しくらいなら。そんなに遠くに行くわけじゃないし」
「僕が代わりに行こう」
「だ、だめだよ! ナナギはいま帰ってきたばかりじゃないか」
「今日はもう任務がない」
「だったら余計に休まないと。ナナギ、最近ずっと屋敷にいないだろ……」
戦闘能力の高い団員がより多くの任務に駆り出されるのは致し方ないことかもしれないが、彼やエリーの忙しさは異常だと思う。
「僕は平気だ。心配なのは君の方だよ」
「ナナギたちが大変な思いをしてるのに……おれだけ何もしないなんて、悪いよ」
いや、根本的にカルマのせいなのだ。カルマが〈灰色の子〉の器となり得てしまったから。この身体に、彼を狂わせる灰色の心臓を宿してしまったから。
だから少しでも役に立ちたい、と震える声でカルマは言った。
「君の目的はロニをとめることだったはずだ」
眼鏡を指で押さえたナナギが、無表情にカルマを諭す言葉を吐く。
「目的と手段は分けるべきだよ。いまの君は
「……」
「それがもっともロニの目的を阻止できる可能性が高い方法であるにもかかわらず。……わかるかな。
わかる。痛いほどに理解している。すべて彼の言うとおりだ。それでも。
「……本当に?」
呟くような声で尋ねた。眼鏡の下で、紺色の瞳が瞬く。
「目的と手段は分けるべきって、本当にそう思ってるの。……ちがうよね。だってナナギは、だれよりも手段を──過程を、大事にする人だったじゃないか」
金髪の少年が目を見開く。カルマはうつむき、ぐっと唇を噛みしめた。
「……おれが、いなくなればいいのかな」
思わず口から本音がこぼれた。器に注ぎきれなかった水が、ぽたりと滴り落ちるようだった。
「この体がなければ、叔父さんは〈灰色の子〉を復活させることができなくなる。怪しい研究もやめてくれるかもしれない。そうすればみんなも──」
「ふざけるな」
明確な怒気を孕んだ低い声。
苛立ちすら感じさせるその一言に、カルマの肩がびくりと震えた。
はっとして顔を上げると、ナナギにしては珍しい尖った視線が、自分を刺していることに気がついた。
「二度とそんなことを口にするな。この状況で混乱しているのかもしれないが、君らしくもない」
「!」
「少し冷静になった方がいい。思考を放棄した自虐から生まれるものは何もないよ」
「……おれらしいって、なに?」
わずかに声を低くしながら、カルマはナナギに反論する。
「おれは、いったい何者なの」
「カルマくん」
「おれのせいで母さんと父さんが死んだ。罪のない人が
「ちがう、カルマくん」
「だからいなくなった方がいいって。そう考えてしまうのは、思考を放棄することなの」
「そうじゃない。カルマくん、僕は──」
そこでナナギがふと言葉を切り、口を噤んだ。紺色の瞳に惑いが浮かぶ。
「ナナギ……」
その反応を見てずきりと胸を痛めたカルマは、自身の服を強く掴んだ。黒い
「……ごめん」
小さな声で謝罪をすると、ナナギがはっと息をのんだ。
「買い出しに行ってきます。すぐ帰ってくるので」
「ちょっ……カルマ!」
無言のまま立ち尽くすナナギの横を抜け、あせったように自分を呼ぶクロエの声を背に、カルマは屋敷を飛び出した。
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