3-6 いい人

「避けない方がいいよ。長引くとつらいだけだから」


 二発目が放たれる。弾丸のような勢いで真っ直ぐに向かってきた水球を、ほとんど反射的にカルマはかわした。

 間髪入れずに飛んできた三発目。とっさに外套マントを翻して防御を試みたが意味はなかった。足元に直撃し、そのまま転倒してしまう。


「う……」


 地面に両手をつきながら顔を上げる。ゆっくりと近づいてくるザリの周囲で、新たに生成されたらしい複数の水の球が浮遊していた。

 たぷんと揺らめくその表面が、狩られる前の兎のような顔をしたカルマの姿を映し、陽光を反射して静かに輝く。


「少しは警戒しなよ。こんなひとけのない場所で二人きりって、何かされるかもって思わなかったわけ」

「……」


 思うわけがない。彼は自分を助けてくれたいい人で、奇跡の血を司る白十字教団の神官なのだから。


「それ自体が作戦だったって言ったらどうする? まさかこんな簡単に引っかかってくれるとはね。よかったよ。君が世間知らずのお人好しでさ」


 琥珀色の瞳が冷たく光る。そんなザリの顔を、地面に膝をつきながらカルマは見上げた。


「君のことは知ってる。本が好きなんだろ。化け物の心臓を体に入れられて、ずっと閉じ込められて生きてきた。世の中を知る手段が読書しかなかったんだね。可哀想に」

「……」

「だから僕みたいな悪役に騙されるんだよ。薄っぺらな紙の中にあるきれいな世界しか知らない。いい人だなんて誤った評価を恥ずかしげもなく口にできるのもそのせいだ」


 本当に馬鹿みたい、とカルマの心を突き刺すようにザリは言う。

 だからだろうか。カルマの口からこぼれ出たのは、無意識の反論だった。


「ザリは、いい人だよ」


 青年が眉をひそめる。その心を映すかのように、彼の周りに浮かぶ透明な水球がゆらりと瞬いた。


「君がどうしてこんなことをするのかわからない。怖いとも思う。──けど、おれがさっきザリに助けられたことは本当だから」

「……」

「視点次第で変わるんだよね。なら、おれにとってのザリはやっぱり救世主で、悪役にはならないよ」


 この状況で出す結論ではないかもしれないが、それはカルマの本心だった。


「……つまらないな。見逃してほしいならもっとましなこと言えばいいのに」

「面白いこと言ったら見逃してくれるの?」

「は?」

「会話をする余地があるってことだよね。──なんでおれのこと知ってるの? 嫌いな人って、だれのこと?」

「お前……」

「ごめん。ザリにとっての面白いことが何かわからなくて。だからその、詳しく教えてほしいんだ」

「びっくりするほどうざいな」


 うんざりと顔をしかめ、ザリが深いため息を吐く。

 そして、空に向けてすっとその片手をかざした。


「張りぼての情緒でものを語るなよ」


 氷を溶かしたような視線をカルマに向け、先刻までの軽薄な口調とはまたちがう、熱のない乾いた声で彼は唱える。


「──水の槍テ・ヴェレ


 カルマははっと目をみはった。天に向けられたザリの手のひらの真上に、槍のような形状をした巨大な水の塊が出現していた。

 人ひとり貫くことなど容易であろう、大きく透明な水の槍。

 水だから平気、ということはない。先程の水球アルノと同じだ。食らえばひと溜まりもない攻撃力を有していることは一目でわかった。


「私怨に巻き込んで悪いけど。──ここで消えてくれ」


 ザリが真顔で手を下ろすと、カルマに向いた波打つ穂先が勢いよく墜下を始めた。

 その攻撃を防ぐため、カルマはとっさに障壁術ハトラを展開した。

 無駄な足掻きであることはわかっていた。自分の魔力で生んだ脆い壁では、圧倒的な彼の魔術を受けとめることはできないと。

 ──が、そのなけなしの抵抗は、思いもよらぬ別のかたちで報われることになった。


「……!?」


 障壁の表面に槍の先が触れた瞬間、ばちりと激しい電流があたりに散った。

 同時に、二つの魔術が眩い光を放って消えた。

 跡形もなく消滅したのだ。光の壁と水の槍がそれぞれを相殺したようにカルマには見えた。


か……!」


 ちっと舌打ちをしたザリが後方に跳び退き、すかさず新たな水球を生み出す。

 何が起こったか理解できずに固まっていたカルマだったが、変わらず狙われている事実に気がつき、地面に触れる手と両足に力を入れた。

 そのときだった。


「──白十字教団のザリ・クオーツ」


 凪いだ夜の静けさを映したような抑揚のない声が、張り詰めた空気を揺らした。

 ザリの動きがぴたりととまる。彼の手にある水球がぱちんと弾け、宙で輝く光のようにきらきらと飛沫が散った。

 その後ろで揺れる黒い外套マントと、さらりとなびく金色の髪。


「君の目的がわからない。なぜ彼を狙うのか。ロニの仲間なのか。教団が関与しているのか。君の個人的な事情なのか」


 機械じみた質問の羅列。ザリの喉がごくりと動く。

 彼の首筋に背後から当てられているのは、銀色に輝く長剣の、鋭くきらめく刃だった。


「教えてくれないか。じゃないと僕は、君を正しく処理できない」


 こめかみに汗を流す青年の後ろで冷徹に言い放つのは、騎士団の外套マントをはらりと風になびかせる、眼鏡をかけた少年だった。


「ナナギ……!?」


 その少年の名をカルマは呼んだ。彼は今朝から他の任務に赴いており、帰還するのは夕方頃になると聞いていたのだが。


「……こわ。なに、君こんなおっかない騎士さまがついてたわけ?」


 ザリがすっと両手を上げる。

 降参、と緊張感のない様子で彼は笑った。


「君たしか五大名家のお坊っちゃんだろ。なんで僕のこと知ってるの」

「彼に近づく人間のことはすべて調べるようにしているだけだよ。だが、君については名前以上のことがわからなかった。教団の秘匿主義は一筋縄ではいかないようだ」

「うわ……」


 心底げんなりしたようにザリが呟く。

 いつまでも殺気を緩めようとしないナナギに、カルマが声をかけようとしたときだった。


 ──上空から、灰色の塊が降ってきた。


 どすん、とカルマの前に降り立ったそれは、ゆらりとなびく歪な影を地面に落とした。

 大きく膨れた丸い頭部に、関節が捻じ曲がった細長い手足。

 人型の灰色人グレースケールだ。恐ろしさに慣れたわけではないが、すでに何度もその姿とは対峙している。

 けれど、おかしかった。同じ灰色の化け物であるはずなのに、たったいま現れた灰色人グレースケールは、これまでカルマが見てきたものとはあきらかに別物だった。


 ──ちがう!


 カルマの中で〈灰色の子〉が絶叫した。

 こんなことは初めてだった。心臓がばくばくと音を立て、熱湯のように煮えたぎる血液が、濁流のように全身をかけ巡る。

 くるりと回った灰色の瞳が、座り込むカルマの姿を真っ直ぐにとらえたとき。

 化け物が咆哮した。癇癪を起こした子供が上げるような、甲高い鳴き声を上げたのだ。

 空間がびりびりと震動する中、カルマは両手で耳を塞いだ。

 塞いでも聞こえてくる化け物の号哭と、灰色の少女の悲痛な叫び。

 ちがう、わたしじゃない、と少女は泣きじゃくっていた。心臓を共有するカルマに、その絶望を訴えるように。


「カルマくん!」


 抜き身の剣を片手に持った金髪の少年が、カルマと化け物の間に割って入った。

 自分を庇うようにして立つ黒い背中をゆっくりと見上げたカルマは、はくりと喉を鳴らし、肺を満たす空気を得ようと半ば無理やり呼吸を行う。

 ナナギ、とその名を口にしようとしたときだった。

 ぐしゃりと砂山が崩れるような音を立て、化け物のからだが傾倒した。ひとしきり叫んだことですべての力を使い果たした、とでも言わんばかりの最期だった。


「な……」


 カルマは大きく目をみはった。信じられない。悪夢をみているような気分だった。

 地面に残された灰色の屍体は、やはり人間のかたちをしていた。木炭の表面のように乾いた全身の皮膚に、四方に曲がった細い手足。

 息はしていない。死んでいることはあきらかで、だが、ことが普通ではなかった。


「……この人、は……」


 人だった。まちがいなく。カルマたちの目の前で灰まみれの姿になって倒れているのは、人のかたちをした化け物ではなく、まごうことなき人間で。

 カルマの知っている男だった。グレートの血に呪われて死んだ男と共にいた、どちらかといえば気の弱そうだったあの男。


「──人から生まれた灰色人グレースケール、か」


 すべてをわかっているかのように、平坦な声でザリが呟く。

 硬直した身体を動かせずにいるカルマの中で、灰色の少女は依然として泣き続けていた。

 液体の入った透明な小瓶をうっとりと見つめる、ロニの顔が頭をよぎる。

 その瞬間にカルマは悟った。ああ、そうか。


 叔父さん。

 あなたはついに、本当の化け物を生み出してしまったのか。

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