3-4 人魚

 カルマの両親は医師だったという。患者の命を救うことを何よりもの生きがいとする優しい人たちだったとロニは言っていた。

 だが、そんな二人はカルマのせいで命を落とした。灰色人グレースケールになって、村人全員を巻き添えにして死んでしまった。

 黒血に冒されるよりずっとむごい。彼らは息子に殺された上、多くの人々を自分たちの手で傷つけてしまったのだ。


「は! 追いかけっことはおもしれえ。そうだよなあ。お前が屋敷に引きこもってた頃は、ろくに遊んでやれなかったもんなあ……!」


 深い沼底の中で溺れるようなカルマの思考を、背後から迫りくるグレートの声がかき乱す。

 エリーのそばを離れたのは失策だったかもしれない。けれど、こうするしかないと思ったのだ。

 自分さえいなければ、エリーは何に囚われることもなく化け物が蔓延る船に向かい、黒騎士としての職務をまっとうすることができる。何体の灰色人グレースケールが出現したのか定かではないが、彼女ならばそう時間はかからないだろう。

 彼女が戻るまで捕まらなければいい。

 だからカルマは必死に走った。これ以上、だれにも迷惑をかけたくなかった。

 ──いや、ちがう。迷惑ならすでにかけている。

 父と母。守るべき心臓を奪われた騎士団。ロニの計略に巻き込まれた町や村の人々。グレートに殺された先程の男性。


 ──シェリーさんは、ロニの仲間だったのよ


 家族を壊されたナナギ。

 迷惑どころの話ではない。すべてはロニに原因があると言われればそれまでだが、〈灰色の子〉の心臓を持つカルマの存在が彼の目的の基盤にあることは事実なのだ。


「……!」


 耳横で風を切るような音がした。

 眼前をはらりと舞った茶色い髪の毛。それが自分のものであることに気づく間もなく、新たな衝撃がカルマの足元に直撃する。

 グレートの攻撃だった。鋭い光の斬撃のようなものを、彼女が後ろから飛ばしてきているのだ。

 転倒しかけたカルマだったが、どうにか地面を踏み直して逃走の姿勢を保った。

 ぐっと唇を噛みしめ、全身を流れる血に神経を集中させる。

 次の瞬間、カルマの背後でぱりんと硝子が割れるような音が響いた。

 激しい風圧が外套マントを揺らし、透明な破片が、陽光を反射する霧のような輝きを放って砕け散った。


「……障壁術ハトラか! なんだお前、魔術なんて使えたのかよ!」


 興奮したようにグレートが叫ぶ。カルマが張った障壁が、彼女の放った斬撃を防いだからだ。

 後天性とはいえ、体内に黒血が流れるカルマは微量ながらも魔力を有する。心臓に封じ込められた〈灰色の子〉のものではない、カルマ自身に宿る魔力だ。

 そんなカルマに防御の魔術──障壁術ハトラを教えてくれたのはリスティだった。彼女が生成するものほどの精度と強度はなく、たった一度の攻撃で割れてしまうような脆い壁ではあったが。


(……このままじゃすぐに捕まる……!)


 グレートは本気でカルマを追ってきていない。文字通り遊ばれている。周囲の人間を巻き込むことを恐れ、ひとけのない場所を目指して走るカルマを嘲笑っているのだろう。

 その間も、カルマがいる場所から見て東側の海、桟橋の方から大きな爆発音が聞こえてきていた。冷たい潮風に乗って流れてくる人々の悲鳴。エリーが戦っているのだとカルマは思った。


「今度はかくれんぼか。やっぱ引きこもりのカルマ坊っちゃんに足を使う遊びは向いてなかったか?」


 カルマが向かったのは港の西側。複数の倉庫が建ち並ぶ、盛り場から比較的離れた区画だった。

 細い路地を駆け抜け、建物の陰に身を隠すように右折する。

 その先をさらに右へ。海に面した巨大な倉庫をぐるりと回って最初の路地の端まで戻ると、グレートの姿が見えなくなった。

 まさにかくれんぼだ。見つかったら終わりの命懸けの遊び。死角が多いので姿を隠しやすくはあるが、建物間の道幅が狭い分、追い込まれたら逃げ場がない。

 ドン、と建物の壁が殴られたような音が響いた。グレートだろうか。

 カルマは息をとめ、できるかぎり足音を立てないようにして、鍵の開いていた近くの倉庫の中に入った。

 船の積み荷であろう大量の木箱や麻袋、鉄骨や木材などが雑然と積み重ねられた、埃っぽく薄暗い倉庫だった。

 あの積み荷に身を潜めることができるかもしれない。

 そう考えたとき、足元が痺れるほどの震動と、鼓膜が破れるかと思われるような轟音が一度に訪れ、倉庫内の空気を揺らした。

 激しく舞う埃と外套マントに視界を奪われそうになりながら、その衝撃を生み出したものの正体に気づいたカルマは息をのんだ。

 天井に穴が開き、外から差し込む光が当たるその真下で、巨大な一つの塊が蠢いていた。

 甲虫のような形をした化け物だった。全長は人間の大人の二倍ほどあり、硬い殻に覆われた表面は生気のない灰色をしている。

 左右にある淀んだ目玉。かさかさと跳ねる二本の触覚。


「そん、な」


 突如としてカルマの前に現れたその化け物──灰色人グレースケールの細長い足に踏みつけられる影が目に入ったとき、今度こそ全身から血の気が引いた。

 人だった。額に白いタオルを巻いた漁師らしき格好の男が、灰色の化け物の下敷きになっていた。


(……どう、すれば)


 頭から大量の血を流し、うつ伏せの状態で倒れる男を見てカルマは硬直した。

 どうしてここに。船から連れてこられたのか。呻き声が聞こえるので、まだ息はしているはずだが。死んではいない。

 早く助けなくては。

 頭ではわかっている。わかっているのに、身体が言うことを聞いてくれない。


「船に仕込んだとは言ったけどよ。とは言ってねえぜ?」


 穴の開いた天井からグレートの声がした。

 最初に着ていたローブを脱ぎ捨てたらしい彼女は、胸部を赤い布で覆い、肩とへそ、脚のほとんどを曝け出すきわどい格好で、すたんと灰色人グレースケールの背後に降り立った。


「さあどうする正義の味方。このままだとおしまいだぜ。お前も、そこで潰されてる哀れな男もな」


 燃えるような赤色の髪の毛を四方に散らし、愉快そうに女は笑う。

 その笑みを目にした瞬間、カルマの心に強い怒りが湧き上がった。


「……どうして」

「あ?」

「どうして、笑えるんですか」


 灰色人グレースケールは人を傷つける化け物だ。だが、それはきっと本能であって意思ではない。彼女のように、苦しむ相手を前にして笑みを見せることはしないだろう。


「グレートさんは、おれたち黒血も化け物だって言ったけど……」


 ぐ、と拳を握りしめ、喉を震わせてカルマは叫んだ。


「化け物でいい! だれかを傷つけるくらいなら、化け物だって嫌われて、離れてもらった方がずっといい……!」


 正当な差別。

 生まれてきてはいけない人間。

 ナナギとしたかつての会話が脳裏をよぎる。やはり彼は正しいとカルマは思った。

 そうだろう。だって自分は。


 ──消えてしまいたいの


 ドクン、と心臓が激しく鳴った。はっと息をのむ。自分のものであって自分のものではない、頭の中に直接響いたからか細い声に目を見開く。

 気づけば、カルマの周りには何もなかった。灰色人グレースケールはいない。血を流して倒れる男や、グレートの姿もない。果てのない暗闇の中。

 ああ、そうかここは。

 そうカルマが思ったとき、目の前にひとりの少女が現れた。


 ──わたしが生まれてこなければ、だれも傷つかなかったのに

 ──お母さんも、お父さんも。みんなわたしが不幸にしたの


 灰色の髪の少女だった。

 闇の中にぽつりと佇む彼女は、うつむいていて、長い前髪に隠された顔はよく見えない。

 見えないが、どのような表情をしているかはわかった。

 きっと泣きそうな顔をしているのだろう。眉を垂らして、唇を歪めて。灰色の瞳にいっぱいの涙を溜めているはずだ。

 いまのカルマと同じように。


 ──だから消えたかった。ずっと、わたしはわたしがいらなかった


 カルマは頷いた。同じだからだ。自分と彼女は同じだから、その気持ちを痛いほど理解できる。

 死にたいのではなく、消えたいのだ。

 最初からなかったことにしてしまいたい。両親の死も。叔父の裏切りも。自分の存在ごと消えてしまえば楽になれるのに、とカルマは思う。

 セイレンもそうだったのだろうか。愛する男に裏切られ、その怒りから怪物と化した憐れな人魚。

 彼女は最後、泡になって消えてしまった。

 読者であるカルマにとっては哀しい結末に他ならなかったが、セイレンにとってはどうだったのだろう。

 消えてしまいたいと思ったのだ。

 大切なものを失くした怪物として生きるのではなく、泡となって故郷の海に還ることを彼女は望んだ。


 ──わたしは……


 少女がゆっくりと顔を上げた。

 長い睫毛に縁取られた瞳がカルマを映し、深い灰色の瞳孔がゆらりと揺蕩う。

 ドクン、と心臓の音がした。どちらのものかわからない、鈍い痛みを伴う音だった。


「──……!」


 視界が暗転する。外套マントを揺らす冷たい風と、血と埃の混ざった匂いがカルマの意識を現実に引き戻す。

 次の瞬間、呼吸がとまった。信じられない光景が目の前に広がっていたからだ。


「これは……」


 一瞬、海の中にいるのかと思った。

 実際に海に入ったことは一度もないが、もし潜ったらこういう景色を見ることになったのではないかと。昏く澄んだ深い海底。地上から差し込む光が、白く輝く帯となって辺りの空気を照らしている。

 その錯覚を生み出しているのは──泡だった。

 晴天の青へと溶けゆく銀色の泡。カルマの前にいた灰色人グレースケールが大量の泡となって溶け始め、甲虫のような元の形を喪失していたのだ。


「……なんだあ? お前がやったのか、それ」


 グレートが呆気に取られたような声をこぼす。

 きらきらと舞い上がる無数の泡を視界に映しながら、カルマは以前エリーに言われたことを思い出していた。

 灰色人グレースケールを自由に操ることのできる力。博物館のを無力化したカルマを見て、彼女が出した結論だった。

 灰色人グレースケールは〈灰色の子〉の魔力を基に誕生する化け物だ。そしてその根源である心臓は、他でもないカルマの中にある。

 干渉できるのかもしれない、とエリーは言った。創造主である少女の心臓を媒介にして、灰色人グレースケールの魂に触れることができるのだと。

 レザールの灰色人グレースケールが爆発したのも、灰色の樹に銀色の花を咲かせることができたのも。すべてはカルマと〈灰色の子〉のつながり故の現象ではないかと。


「……はは! 自分の玩具おもちゃは自分で壊すってか? 随分と残酷な真似すんじゃねえか!」


 眼前の脅威は消えたが、男が瀕死の状態であることに変わりはなかった。

 上擦った声で笑うグレートと向き合いながら、カルマは必死に思考を回した。

 どうしよう。どうすればいい? この人を救うためには。守るためには。

 〈灰色の子他人〉の力を理由することしか戦えない自分に、これ以上いったい何ができるというのか。


「……!?」


 そのときだった。がたん、と天井の板が割れる音がして、新たな影がカルマの前に降ってきた。


「ちょうどいい。さっきのやつ、もう一回見せてくれよ」


 二体目の灰色人グレースケールだった。

 先程のものより小さいが、カルマよりも大きいことにちがいはない。二足歩行の人型で、不自然なほどに細長い両手の先には、錆びたナイフのような歪な爪が数本ずつ突き刺さっていた。

 まだいたのか。

 忘れようとしていたはずの恐怖が蘇り、為す術もなくがくりと膝をついたときだった。


水球アルノ


 カルマの耳に届いた静かな声。ドン、と鈍い音が響いて、灰色人グレースケールのからだが大きく傾いた。

 見ると、その肩にぽっかりと大きな穴が空いていた。まるで背後から砲弾を撃たれたかのような。


「え……?」


 ぐしゃりと化け物の全身が崩れ、乾いた灰が砂埃のように辺りを舞う。

 あっさりと動かなくなった灰色人グレースケールの屍骸の前で、カルマは吃驚した。


「ひどいお姉さんだ。そんないたいけな少年を一方的にいじめるなんて」


 完全に消滅した化け物──その後方の扉の前から聞こえた声。

 カルマははっと目を見開く。グレートも同様だった。唐突な第三者の登場に困惑しているか、その顔から先程までの笑みは消えている。

 笑っているのは、たったいま現れた青年の方だった。

 そう。青年だ。ふわりとした藍色の髪の毛に、薄暗がりでも静かに瞬く琥珀色の瞳。

 緊張感とは無縁のさわやかな笑みを浮かべ、外から差し込む光を背にして彼は倉庫の入り口に立っていた。


「その人も可哀想に。死にかけてるね」


 丈の長い服の裾をふわりと揺らし、青年がカルマの方に近づいてくる。

 呆然とするカルマを一瞥し、彼は意識のない漁師の男に歩み寄った。


「治してあげる。──けど、礼はいらないよ」


 返事のない男に呼びかけ、青年はふっと微笑む。

 ぽたりと。一滴の白い光が滴り落ちた。

 うつ伏せになって倒れる男の背中に。それは彼の手から流れた血だった。


(この人は……)


 場の空気にそぐわない軽やかな声。その細い全身を包む真っ白な神官服。

 眩しいほどの光をまとう純白の血。

 その光をカルマは知っていた。シグナスの街で一度だけ会ったことがある。


「おいおい。なんで白血さまがこんなとこにいんだよ」


 しかも治しちまうのか、と呆けた声でグレートが言う。

 彼女の言葉のとおり、漁師の男はすでに一命を取り留めたようだった。頭の傷はきれいに消え、いまにも途切れそうだった呼吸が、穏やかな寝息に変わっている。


「よかった……」


 カルマはほっと胸を撫で下ろした。安堵からか全身の力が抜け、抑えていたはずの緊張が、涙となって両目にぶわりと込み上げてくる。


「大丈夫?」


 両足をぺたりと床につけ座り込んだカルマに、青年が手を差し伸べた。


「また化け物を見るみたいな顔してる」

「へ……」

「まあいっか。助けられてよかったよ」


 琥珀色の瞳を細め、青年は唖然とするカルマの手を取った。


「僕はザリ・クオーツ。白十字教団の神官だ。──よろしくね、カルマ・フローライトくん」


 引っ張られるようにして立ち上がる。

 自分よりも高い位置にある青年の顔を、カルマはぱちりと瞬きをしながら見つめ返した。

 なぜ彼は自分の名を知っているのだろう。

 そうカルマが疑問を覚えたとき、グレートが怪訝そうな声を発した。


「ザリ? ザリって、まさかお前」

「こらーっ! ザリー!」


 カルマから手を放し、青年が倉庫の入り口に視線を向ける。

 ばたばたと息を切らしながら走ってきたのは、青年と同じ白い神官服に身を包んだ小柄な老人だった。


「ゴリオ大司教」

「ザリ、お前……! あんな騒ぎの中にわしを一人取り残して、いったいどういうつもりだ……!?」

「大司教なら化け物の一匹や二匹、簡単に相手にできるだろうと」

「できるか! 化け物退治は黒血の連中に任せておけばいいのだ! ……って、なんだそのガキは!? いるじゃないか黒騎士が!」


 老人の怒鳴り声が倉庫に響く。その勢いにカルマはぽかんと口を開け、グレートはあからさまに眉をひそめた。

 ごめんね、とカルマを見た青年が申し訳なさそうに肩をすくめた。


「しかもお前……また無断で治療をしたな!? 教団への寄付歴も確認せずに! それだけはいかんと何度言ったら……!」

「この状況で言います? 緊急事態なのに」

「そんなことわしらには関係ない!」


 白血による治療には、教団への多額の献金が必要となる。カルマでも知っていることだ。

 うるさいなあ、と老人の叱責を面倒そうに受け流すこの青年は、それを無償で提供したのか。

 カルマの目の前で、一度ならず二度までも。傷つき倒れた人間を癒すために、自分の血を差し出した。


「カルマ!」


 上空から声がして、長い金髪をなびかせる少女が、カルマの真横に飛び降りてきた。エリーだった。


「はあ? まさかあの数のバケモンをもう全部倒してきたのか?」


 グレートの顔に驚愕の色が浮かぶ。

 エリーは冷静な態度でカルマの前に立つと、よくがんばったわね、と空色の瞳を細めながら振り返った。


「……ちっ。ぞろぞろと集まってきやがって、めんどくせえ。──だが、最強さまに加えて白血が二人か。こりゃさすがに退散しねえと分が悪いな」


 がしがしと頭を掻いたグレートがため息を吐き、空いた片手で倉庫の壁に穴を開ける魔術を放つ。

 待ちなさい、と足を踏み出したエリーを無視して、グレートはその場から姿を消した。

 自分で開けた穴を通って。一瞬のできごとだった。


「な、なんなんだ、いったい……」


 悔しそうに唇を噛むエリーと、その成り行きを黙って見ていることしかできなかったカルマ。

 そんな二人の後ろで静かに佇むザリの隣で、白髪の老人がぽかんとした表情を浮かべていた。

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