3-3 罪
「よおカルマ坊っちゃん。久しぶりだな」
飢えた獣のような獰猛な笑みを浮かべて女は言った。
信じられなかった。屋敷で顔を合わせていたときの彼女とは、口調も雰囲気も違いすぎる。カルマの知るグレートは、日頃から物静かで、こちらがいくら話しかけてもにこりともしない女性だったはずだ。
「なんだ、間抜けなツラさらして。……ああ、そういや
「おいっ、放せ……!」
グレートに持ち上げられた男が、宙で足をばたつかせながらくぐもった声で叫んだ。
隣にいたもう一人の男が、仲間を助けようと横からグレートに突撃する。
彼女はそれを空いた片手で振り払った。虫でも払うかのような軽い動作だった。
「うるせえな」
面倒そうに吐き捨てたグレートが、ローブの裏から刃物のようなものを取り出す。
すると彼女は、その刃物で自身の左手を切りつけた。男の首を掴んでいる方の手だった。
「え……」
裂けた皮膚から勢いよく吹き出した血の色に、カルマは目を疑った。
黒かったのだ。闇を煮詰めて絵の具にしたような黒い血が、彼女の左手からぽたぽたと滴っていた。
「う……ああぁぁ!」
男が絶叫した。彼の頬や肩、首筋にべったりと付着した黒血が、どす黒い痣となってその全身に拡がり始めたからだ。
「これで満足か? 遊んでほしかったんだろ」
口許をにやりと歪め、グレートは男を地面に放り投げた。
崩れるように倒れた男の身体は、ぴくぴくと痙攣していた。その全身には黒い斑点が浮かんでおり、血の気の失せた唇の隙間からは、赤黒く濁った液体がこぽこぽと溢れ出ている。
(なん、で……)
周囲にいた人々が悲鳴を上げ、その場から一斉に退去する中、カルマはただ絶句していた。血を吐いたままぴくりともしなくなった男を見つめ、ただ呆然と立ちすくむことしかできない。
いったい何が起こったのだろう。
グレートは黒血だった。そして男がその血を浴びた。それはわかる。
けれど、なぜ? 黒血は人を死に至らしめる。つまり彼は死んだのだ。他でもないグレートが殺した。
呪ったのか。自分の血で、彼女は人を。
「何を……しているの!」
言葉を失ったカルマの隣で、エリーが声を張り上げた。
「邪魔者を消しただけだ。つーか、お前らだって同じだろ? 毎度のこと
「な……」
「お前らにとっての排除対象が
やれやれと肩をすくめてグレートが言う。
その物騒な内容に似合わない恐ろしいほど軽薄な口調に、カルマはぞっとした。彼女は人を殺すことを何とも思っていないのだろうか。
「ふざけないで。そんなことが許されるはずないでしょう」
「さすがは正義の味方。だがよく考えてみろよ。化け物だっつって世間から嫌われてんのはあたしらも同じだろ? むしろ
「!」
「ああ、でもわかんねえか。
エリーがはっと目を見開く。
その反応にふっと満足げな笑みを返し、グレートはカルマを見た。
「つーわけで、カルマ。あたしといっしょに来い。お前の大好きな叔父さんがお待ちかねだ」
獲物を定めた獣のような瞳を光らせ、硬直するカルマに女は言った。
エリーがさっとカルマの前に歩み出た。自分を庇う少女の動きに、カルマははっと我に返る。
「……いや、です」
乾いた唇をどうにか開き、震える声でカルマは答えた。
「……叔父さんは、おれを〈灰色の子〉にしようとしてるんですよね。それはあの人もあなたのように、
「そりゃあな。そもそも最初にこの計画を考えたのはロニの野郎だ。あたしはそれに乗っかっただけ。イカれてんだろ? 実の甥っ子に化け物の心臓を埋め込もうなんてふざけた真似、ふつうの人間が思いつくかよ」
残酷な女の言葉が、カルマの心に容赦なく突き刺さる。
わかっていたことだ。黒血になったカルマの面倒を見ていたのはグレートで、そのグレートを雇っていたのは叔父なのだから。
彼女はやはりロニの仲間だった。そしてカルマを連れ戻しにきたのだ。計画の鍵となる〈灰色の子〉の器として利用するために。
「……叔父さんのところには、行きません。おれは、世界を灰色にしたいだなんて思わない。人殺しの道具には、なりたくないっ……」
昂る感情を抑えるように強く拳を握りしめ、拒絶の意を露わにする。
するとグレートはきょとんと目をしばたたき、やがてはっと嘲るような声を発した。
「よく言うぜ。お前もこっち側の人間のくせに」
ちょっと
「ああ、ロニから聞いてないんだったな。てめえも人殺しだって話だよ。──知らないなら教えてやろうか」
にやりと下卑た笑みを浮かべ、愉快そうに女は続けた。
「お前の両親はお前のせいで命を落とした。十二年前、三歳だったお前の身体に〈灰色の子〉の心臓を移すときにな」
「……!」
ひゅ、と喉の奥が引き攣るような音がした。衝撃で言葉が出ないとはこのことだった。
全身から血の気が引いていく感じがする。心臓がどくどくと早鐘を打ち、手足の指先がまるで凍ってしまったように冷たい。
父と母は──自分のせいで命を落とした?
「親だけじゃねえ。当時お前らが暮らしてた村の連中全員だ。一時的に解放された〈灰色の子〉の心臓の魔力にあてられて、一人残らず
「……」
グレートの問いかけにエリーは黙った。カルマの前で微かに揺れた背中から、彼女にしては珍しいわずかな動揺が滲み出ている。
真実なのだ、とカルマは思った。両親の死についても、自分はロニに嘘を吐かれていたのだと。
騎士団に救われたあの日、カルマは無知な己を呪った。だから知りたいと願った。叔父の目的を。自分という人間の存在意義を。
けれど、本当に知るべきだったのだろうか。こんなに苦しいのに。痛くて、かなしくて、いまにも心がどうにかなってしまいそうなのに。
鳥籠の中から出されたカルマが得たのは、自分は存在してはいけない人間なのではないか、という絶望に満ちた答えだった。
「──大丈夫よ、カルマ」
うつむくカルマに背を向けたまま、力強い声でエリーが言った。
「あなたは何も悪くない。人殺しなんかじゃないわ。だから細かい話はあと。いまは彼女を捕まえることに専念しましょう。ロニの居場所を聞き出さないと」
「ま、そうなるよな。──実のところ、ルルーの娘かシェリーの息子がお守り役だったらすぐに撤退しろって言われてるんだけどよ。……さすがにそれじゃあつまんないよな」
ふっとグレートが息を吐くと同時に、港のどこかで大きな爆発音が鳴り響いた。
桟橋の方からか。女性や子供の甲高い叫び声や、男たちの野太い怒号、ばきばきと建物の柱が崩れるような音が聞こえてくる。
「船のいくつかに
「……!」
グレートの言葉が意味することはあきらかだった。
港に
それも彼女の口振りからして、いま船を襲っているのは〈灰色の子〉の魔力によって自然発生したものではなく、ロニたちが人工的に生み出したまがいものの化け物なのだろう。
本物ほど脅威はない。だが数が多い分、急いで対処しなければどれほどの被害が生まれるかわからない。
「どうした正義の味方。さっさと倒しにいかねえと死人が出るぜ?」
「……っ」
「ああ、わかってると思うがそこの
ぐっと唇を噛み締め、エリーがグレートを睨みつける。
最強と名高いエリーの実力であれば、グレートからカルマを守りつつ、船に現れた
けれど、効率は悪い。己の存在が足手まといとなり、救えるはずの人間の命を万が一にでも取りこぼすようなことがあれば──カルマはきっと、一生自分を許せなくなる。
「行ってください、エリー先輩」
だからカルマはそう言った。次第に大きくなる港の喧騒にかき消されてしまわぬよう、はっきりとした声で。
「エリー先輩が戦っている間、おれはグレートさんから逃げ続けます。絶対に捕まりません。だから……行ってください」
「!? 何を言ってるの」
驚いた顔で振り向いたエリーにかまわず、
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