3-2 赤毛の女

 晴れた日の港がこうも活気に満ちた場所だとは知らなかった。カルマにとって港は物語の中の舞台の一つで、海ですら本物を見たことはなかったからだ。

 路行く人々の賑やかな声も、物売りたちのさかんな客引きも、桟橋から聞こえてくる汽笛の音も。すべてが新鮮で、カルマの耳を心地よく刺激するものだった。


「エリーちゃん! たったいま新鮮なアジが入ったところでね。団員分どうだ?」

「いいわね。他の買い物が終わったらまた来るわ」


 陽気な調子で話しかけてきた魚屋の男に、カルマの隣を歩くエリーが快活な笑顔で対応する。

 これでいったい何度目だろう。街ですれ違う人々が、親しげな様子で彼女に声をかけてくるのは。

 カルマにはそれが意外なことのように思われた。黒血であるのに、忌避されるどころか慕われている。怪我をした女の子の母親に怯えた目を向けられたカルマとは大違いだ。

 これも彼女の明るい性格がなせる業だろうか。着用必須であるはずの黒外套マントをエリーがつけていないのも、彼女ならばだれに恐れられることもなく街を歩けるからかもしれない。


 騎士団に来て約二週間。本拠地アジトでの生活にも少しずつ慣れてきたところだった。

 最近では身体能力向上のため簡単な戦闘訓練も受けるようになり、以前のカルマでは考えられないほど活動的な日々を過ごしている。情けないことに、任務に出動できるほどの力はまだ身についていないのだが。

 そんなカルマにもエリーは優しかった。最強であるがゆえに常に多忙を極める彼女だが、任務のない日は進んで特訓の指導者を引き受けてくれたり、こうして街に連れ出してくれたりする。

 今回もそうだった。本拠地アジトの地下にある訓練場で朝から特訓していたところ、クロエに使いを頼まれたのだ。


「どう? 初めての港は」

「楽しいです。人がたくさんいて、いろんなものがあって……空気もちょっとちがう気がする」

「ふふ、そうね」


 陽の光を浴びてきらきらと輝くプラチナブロンドをさらりとなびかせ、エリーは青い瞳を細めた。海よりも広い、遠くまで続く空と同じ色だ。


「あと、セイレンが惹かれた港もこんな感じだったのかなって思いました」

「セイレン?」


 海、港と聞いてカルマが最初に思い出すのは、『泡沫のセイレン』という恋愛小説だった。

 美しい人魚の少女、セイレンが人間の青年に恋をする物語で、聴覚を失う代わりに人間の足を手に入れた彼女が初めて訪れた港町も、このシグナスの港のように賑やかな場所として描かれていた。


「セイレンは耳が聞こえないけど歌が上手で、優しくて、相手の男の人もそんな彼女を好きになって、二人は恋人同士になるんです」

「素敵ね」

「はい。でも、漁師をしていた青年が実は重度の魚愛好家で……気に入った魚の剥製を家に飾るのが趣味の人だったから、セイレンが人魚だとわかった途端に豹変しちゃって」

「ん……?」

「セイレンを人魚に戻して剥製にしようと企むんです。裏切られたセイレンは絶望して、港町を襲う怪物になってしまって」

「んん?」

「最後は泡になって消えちゃうんです。切ないお話ですよね」

「切ないというか……」


 本当に恋愛小説? と苦笑いを浮かべたエリーが、ふと何かを思い出したようにぱちりと目を瞬かせた。


「そうだ。ねえカルマ。あなた、何か好きな食べ物ある?」

「え?」


 くるりと変わった話題に驚き、カルマはエリーの顔を見上げる。愉しげな笑みを向けられ首をかしげた。好きな食べ物。


「えっと、ココア、とか……?」

「それは食べ物なの?」

「すみません、あまり思いつかなくて。……けど、昔よく飲んでたから」


 まだ優しかった頃の叔父がよく作ってくれたのだ。熱を出して寝込んだときや、黒血病の研究と称した検査を受けて、身も心も疲弊したときに。お前はいい子だな、と頭を撫でてくれる大きな手や、褒美のように差し出される甘くて温かいその飲み物が、カルマはずっと大好きだった。


「でも、どうして好きな食べ物なんですか?」

「近いうちにあなたの歓迎会を開きたくて。どうせなら主役が好きなものを用意したいじゃない? 好みを聞いといてくれってメアリーに頼まれたの」


 メアリーは団員の女性である。大らかな気質とふくよかな体形の持ち主で、仲間たちの食事の世話をしてくれる気のいい人物だ。


「それは、すごく嬉しいですけど……おれって、歓迎されていい立場なんでしょうか」

「何言ってるの。あたりまえじゃない」


 人が行き交う路の途中で立ちどまり、エリーはカルマに向き直った。そんな暗い顔しないの、と窘めるように額を指で弾かれる。


「五代名家の血を引く私やママは別だけどね。騎士団うちにいるのはみんなあなたと同じ訳ありの人ばかりなの。全員呪いの血を持ってるんだから」

「あ……」

「黒血であることを知られて元いた場所を追い出された人。生まれてすぐ親に捨てられた人……色々な事情があるわ。黒十字騎士団は、そういう人たちが行き着く最後の居場所なのよ」


 居場所、という言葉がカルマの胸に突き刺さった。

 自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。これまでそうだと思っていた叔父の隣は、張りぼてで作られた偽物だったのに。


「だから私たちは歓迎する。たとえ黒血として世界から迫害されても、ここに来れば大丈夫だって安心してもらうために。本来の家族とは意味合いが違うかもしれないけど、同じ血を持つ仲間なんだから」


 いいのだろうか。化け物の心臓を持つ自分が、騎士団を──彼女たちの隣を居場所と呼んでも。


「ナナギは……どうして騎士団にいるんですか?」


 ふと頭に浮かんだ疑問を口にした。

 彼はオペラ家と名を連ねる五大名家、〈灰色の子〉の左腕を管理するアメジスト家の血を引く人間だ。同じ純血のエリーのように家族がいる。

 それこそ、カルマが博物館で会った少女。ルダという名の妹が。

 彼女は騎士団の一員ではない。あの任務の後もすぐに姿を消してしまい、なぜカルマのことを知っていたのか、いっしょにきてとはどういう意味なのか、本人に尋ねる機会を失くしてしまった。


「ナナギは家出よ」

「家出!?」


 事もなげに返されてぎょっとした。家出。そんな話はナナギから聞いていない。


「ちなみにルダもね。あの子はナナギとちがって騎士団には入らなかったけど。──シェリーさんも行方不明だし。正直言ってドロドロのぐちゃぐちゃよ、いまのアメジスト家は。同じ五大名家として何もできないのが歯痒いくらい」

「ルダちゃんも……って、え? シェリーさんって……」


 ナナギの母親の名だ。かつて息子とともにリザーの屋敷を出入りしていたロニの協力者。ナナギと仲良くしてくれてありがとう、と儚げな笑みをカルマに向ける優しい人だった。


「やっぱり聞いてないのね。……シェリーさんは、ロニの仲間だったのよ」

「!」


 息がとまった。がつんと頭を殴られたような衝撃を受け、カルマはその場に硬直する。


「なんで……ナナギたちは、協力者のふりをして叔父さんのことを調べてたって」

「ナナギと、そう命令したナナギのお父さんはそのつもりだったでしょうね。でもシェリーさんはちがった。あの人だけは最初からロニの味方だったの。本当に騙されていたのはアメジスト家の方だったってこと」

「……そんな」

「お母さんの裏切りに気づいたナナギが騎士団に助けを求めてきたことで、私たちはロニの研究所の存在を知った。あとのことは最初にママが話したとおりよ。結局やつには逃げられて、あなたのことも助けられなかった」


 カルマは何も言えなかった。エリーの話が本当なら、ナナギの家族は自分やロニが原因でばらばらになってしまったことになる。


「シェリーさんはロニと同時に姿を消したから、いまでもやつと一緒にいるのだと思ってたけど。レザールの屋敷にはいなかったわね。その調子だとあなたも彼女については知らないみたいだし」

「……すみません。この三年間でおれが会ってたのは叔父さんと、グレートさんっていう女の人だけで」


 レザールでの騒動のとき、様子を見てくると言って部屋を出たきり結局戻ってこなかった彼女も、やはりロニの仲間だったのだろうか。


「ナナギのお父さんは徹底した黒血至上主義でね。ロニの屋敷に潜入してることを私たちに黙ってたのも、騎士団の存在が気に食わなかったからなの。自分たちの手で心臓を奪還することでオペラ家の立場を悪くしようとしたのよ。……それなのに奥さんに裏切られて、ショックからか完全に心を閉ざしてしまって」

「……」

「シェリーさんの捜索を早々に諦めた。ナナギが騎士団うちにきたのはそのあとよ。ルダが家を出たのも、自分なりの方法でシェリーさんを捜すため。あの子は特にお母さんっ子だったから」


 カルマといればロニに会える、とルダは言っていた。そしたらきっとお母さんにも、と。あれはそういう意味だったのだ。


「ナナギはもともとお父さんと折り合いが悪かったし。家を飛び出して髪まで染めて、立派な不良息子ね」

「お父さんと仲が良くないっていうのはなんとなく聞いてましたけど……」


 重くなった空気を変えようとしているのか、明るい調子でエリーが言うのに、カルマは苦笑した。

 だが本心では笑えなかった。そりの合わない父親の命令に従いながら、〈灰色の子〉の心臓を持つカルマを監視し、母親の裏切りとも向き合った──当時のナナギの心境を思うと、胸がしめつけられるように苦しくなる。


「カルマ。ナナギは──」


 うつむくカルマにエリーが何かを言いかけたとき、近くで女性の悲鳴が聞こえた。

 カルマははっと顔を上げる。見ると、船着き場に面する果実売りの屋台のそばで、一人の女と二人の男が揉めていた。


「いいじゃねえか、ちょっと遊びに付き合うくらい」

「は、放してください……」

「あんた余所もんだろ? 面白い場所に案内してやるって言ってんだけど」


 男たちはお世辞にも柄がいいとは言えない二人組で、女の方は丈の長い茶色いローブを身に纏っており、被ったフードで頭がすっぽりと隠れていた。顔は見えないが、粗暴な男たちに絡まれて困っているのはあきらかだ。


「ちょっと。やめなさいよ」


 嫌がってるじゃない、と寸分の迷いもなくエリーが割り込む。

 声をかけられた男は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに険しい顔をしてエリーを睨んだ。


「あ? お前には関係ねえだろ!」

「あるわよ。見ちゃったら放っておくことはできないでしょ」

「はあ!? 意味わかんねえよ!」

「怒鳴ればいいと思ってる? そういうの感心しないわ」

「なんだと……!?」


 一触即発。エリーの背後で様子を見ていたカルマは慌てたが、それはもう一人の男の仲間も同じだったらしい。怒りで顔を赤くする男の袖を引き、怯えたように耳打ちをする。


「おい、こいつ黒騎士だぞ。あまり刺激しない方がいいんじゃ」

「知るかよ! 黒騎士さまは正義の味方だろ? 俺らのために働くことで生きるのを許されてるような化け物どもだ! 一般人に手なんか出せるわけねえよ!」


 横暴な男の物言いに、カルマははっと息をのんだ。化け物という言葉もそうだが、それ以上にカルマの心に衝撃を与えたのは、その直前の一言だった。

 


「──なら、正義の味方じゃなければ手ぇ出していいんだな?」


 そのときだった。ぞっとするほど低い声が空気を揺らし、カルマたちの周囲に一瞬の静寂を生んだ。

 すると突然、暴言を吐いていた男の身体が宙に浮いた。


「なっ、なんだ……!?」


 男がばたばたと両足を動かす。彼は何者かに背後から首を掴まれ、大きな体を高く掲げられていた。

 驚いたことに、男を掴み上げているのは女だった。

 先程まで二人の男に迫られ、わたわたと怯える様子を見せていた、茶色いローブを着た女だ。

 呆気に取られるカルマたちの前で、女のフードがはらりとめくれた。

 そうして露わになった女の顔を見た瞬間──カルマは大きく目を見開いた。


「──グレートさん!?」


 鋭い光を宿す双眸と、強気に吊り上げられた眉。頭の後ろで無造作に束ねられた、燃えるような赤い髪の毛。

 ロニの屋敷でカルマの面倒を見てくれていた、使用人の女性だった。

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