2-9 兄妹

『──この樹は……この樹だけが、私の友達だったのよ!』


 怪盗アールの協力者だった館長の娘が、物語の終盤に発する台詞だ。

 博物館の大樹は元から生えていたものであり、伐採されることが決まったその樹を守るため娘がアールを利用した、というのが事件の真相だったのである。

 自分への関心が薄い両親のもとで育てられた娘にとって、その場所にありながらも存在を否定される大樹は同情の対象であり、孤独な彼女の心を癒やす唯一の友達だった。

 そう。娘はその樹をだと言ったのだ。

 偶然だろうか。建物の中に生えた大きな樹。ともだち、という頭に響いた少女の言葉。

 あれは〈灰色の子〉の声だった。レザールのときと同じように、彼女はカルマをどこかへ導こうとしているのだ。

 だから進むことにした。根で作られた階段を上がり、いくつもの展示室が連なる長い廊下をひたすら奥へ。


(勝手に動くのはよくないんだろうけど……)


 自分だけに聞こえた少女の声を無視することはできなかった。ナナギたちに迷惑をかけるとわかっていても、行かなくてはならないと思ったのだ。

 これが自分の意志なのか、灰色の少女の思惑なのかはわからない。

 

 灰色の樹の侵食は二階にまで及んでいた。壁や天井、床から突き出た太い枝根が、ぐにゃぐにゃと触手のように蠢いている。


「ひっ……」


 足元の枝を踏んでしまい、びくりと肩を震わせた。

 刺激に反応した枝が、ばきりと奇怪な音を鳴らして伸び上がる。

 カルマは思わず後ずさった。意図したわけではなかったが、すぐ近くの展示室に逃げ込むような状況になる。


「わっ」


 そして転んだ。部屋の入り口付近を這っていた別の枝に、足を引っかけたのだ。

 いてて、と腰を打ちつけた痛みに呻くカルマだったが、息をつく暇はなかった。

 褪せた床に伸びる黒い影。背後に人の気配がしたからだ。

 はっとして振り返る。薄暗い部屋の中、目に映ったのは兵士の形をした鉄製の鎧だった。

 所蔵品の一つなのだろう。部屋に蔓延る灰色人グレースケールに破壊されたのか、元々そうなのか。所々欠けてはいるが、随分と立派な鎧だ。


「なんだ……」


 ほっと胸を撫で下ろして立ち上がり、鎧の前に近づいた。光沢のある装甲に、軽い気持ちで手を伸ばす。

 その瞬間、カルマの横を激しい風がすり抜けた。


「……え?」


 鎧の兵士が振り下ろした剣の先が、カルマのすぐ左側の床に突き刺さっていた。

 あまりの出来事にカルマの思考は停止する。この鎧はただの展示物だ。中に人は入っていないはず。それなのに。


「!」


 がしゃん、と動き出す鎧。その肩口から覗く細長い縄の塊に気がついたとき、カルマは事態を把握した。

 蔓だった。内側で絡み合う幾本もの灰色の蔓が、兵士の鎧を操っているのだ。

 カルマはそっと鎧から離れ、左側の壁まで後退した。廊下に飛び出すことはかなわなかった。先程踏みつけた枝が幾本にも枝分かれして生長し、鉄条網のように出口を塞いでいたからだ。

 床から剣を抜いた鎧が、その正面をカルマに向ける。まるで本当に生きているかのような動作だった。

 ゆっくりと近づいてくる鎧を前に、カルマはぐっと息をのんだ。大きく振り上げられた剣の風圧で、前髪がふっと浮く。

 やられる。そう固く瞼を閉じたときだった。

 ザシュ、と金属を貫くような音がして、鎧がぴたりと動きをとめた。


「え……」


 目を開けたカルマは驚愕した。鎧の頭部。その左側に何かが突き刺さっていたのだ。

 大きさは、ちょうど人間の拳ぐらいか。鋭く尖った小石のようにも、研ぎ澄まされた矢尻のようにも見えるその物体は、純度の高い闇を固めた黒曜石のような色をしていた。

 がくりと傾いた鎧が、倒れることを拒むように右足を前に踏み出す。だが、間髪入れずに飛んできた次の攻撃がその抵抗の意味を奪った。

 絶え間のない散弾だった。横殴りの雨のような無数の刃が、がんがんとけたたましい音を立てて鎧の側面を撃ち抜いていく。

 カルマの目の前で鎧は倒れた。やがて完全に動かなくなった鉄の塊から、大量の灰が煙のように浮き上がる。中から鎧を操っていた蔓状の灰色人グレースケールが消滅したのだ。

 カルマが驚いたのは、その全身に突き刺さっていた黒い刃がとぷんと溶けて、真っ黒な液体になったことだった。

 血だ、とカルマは思った。鎧を倒した黒い刃の正体は、凝固した黒血の塊だったのだ。

 がさりと枝を踏みしめる音がした。塞がれているはずの部屋の入り口から聞こえた音だった。

 この状況でカルマを助けにきてくれる人。黒い血を操る魔術。該当するのは一人しかいない。


「ナナ──」


 人の気配を感じた廊下側に視線を移し、その名を呼ぼうとしたカルマは息をとめた。

 ナナギではなかった。無造作に突き破られた枝の格子の前に立つのは、カルマが頭に思い浮かべた金髪の少年ではなかったのだ。


「君は……」


 少女だった。白のブラウスに黒いワンピースを着た小柄な少女が、カルマのいる部屋と廊下の境に佇んでいた。

 肩まで伸ばした真っ直ぐな黒髪の半分を、後頭部で結わえている。その細い右手の人差し指から、ぽたぽたと黒い血が滴っていた。


「──カルマ」


 唖然とするカルマに少女は言った。鈴の音が鳴るような澄んだ声だった。

 信じられない。なぜ彼女は自分の名を知っているのだろう。


「やっと会えた」


 闇色の髪の毛とワンピースをふわりと揺らし、少女がカルマに近づいてきた。

 自分の前でぴたりと足をとめた少女が、ずい、と顔を寄せてくるのに狼狽する。相手の背が低いため、下から覗き込まれるようなかたちになった。

 きめ細やかな白い肌に、長い睫毛。可憐な顔立ちの少女だった。──どこかで、見たことがあるような気がする。


「私のこと覚えてないの」

「え!? えっと……」


 真顔で尋ねられて言い淀む。カルマの目をじっと見つめる少女の様子は真剣で、冗談を言っているとは思えない。


「……そう。わかった」

「……?」

「きっと私のせい。忘れてるの。……だから、ごめんなさい」


 黒い睫毛をはたりと伏せ、少女がうつむく。

 その下に覗く瞳の色に気がついたとき、カルマははっとした。


(紺色だ……)


 黒のようで黒ではない。深い夜空を映した水面のようなその色を、カルマは知っている。


「カルマ、私といっしょにきて」


 少女が顔を上げ、真っ直ぐな視線をカルマに向けた。


「騎士団はだめ。あの人たちは正義の味方だもの」


 え、と戸惑うカルマの眼前で、夜色の瞳に光が灯った。


「あなたが心臓を制御できてるうちはいい。でもそうじゃなくなったら? 騎士団は世界を選ぶ。みんなを守る英雄として、きっとあなたを犠牲にする」


 機械的な口調で放たれたその言葉に、カルマの心臓は大きく跳ねた。

 息のない人形のような無表情のまま、抑揚のない声で黒髪の少女は続ける。


「私はちがう。世界よりもあなたを選ぶ。だからきて。こんな外套マント、捨てちゃえばいいよ」


 少女の細い指先が頬に触れ、カルマはぴくりと肩を揺らした。

 冷たい。鼻先がつきそうなほど顔が近づく。夜の闇を内包した双眸に、のみ込まれてしまいそうだ。


「償いたいの。カルマ。私はあなたに──」

「何をしている」


 地を這うような低い声が、少女の言葉を遮った。廊下の方から響いた声だった。

 すっと目を細め、少女が静かに口を閉ざす。その視線が向いた先には少年がいた。

 ナナギだった。金色の髪をさらりと揺らし、黒外套マントをなびかせるカルマの友人が、今度こそ本当に現れたのだ。


「ルダ。なぜお前がここにいる」

「……お兄ちゃん」


 少女の口からこぼれた一言に、カルマは大きく目を見開いた。


「いますぐ彼から離れろ」

「どうして。私はただ謝りたいだけ」

「彼はまだ何も知らない」

「知らない? お兄ちゃんが言わないだけでしょ。──ずるいね。罪まで独り占めするつもりなんだ」


 険悪な空気が流れる。両者ともに声の調子は平坦で、表情にも変化はないが、穏やかな状況でないことだけはたしかだった。


「カルマといればロニに会える。そしたらきっとお母さんにも」

「彼を囮にするのは僕が許さない」

「ちがう。守るんだよ」


 ルダと呼ばれた少女がカルマを一瞥する。

 丁寧に梳かれた黒髪と、凪いだ夜のような紺色の瞳。すとんと抜け落ちた表情の中に息づく、揺らぐことのない強い意志。


(この子が……)


 妹がいる、とかつてナナギは言っていた。いつか会わせてほしいと頼んだこともある。

 彼女がそうなのだ。ルダ。ナナギと同じ、アメジスト家の黒い血を引く純血の子供。


「カルマの居場所は騎士団じゃない。私の隣だよ」

「ルダ」


 咎めるように妹の名を呼ぶナナギ。眼鏡の下の瞳に剣呑な光を宿した彼が、一歩前に踏み出たときだった。

 ぱりん、と耳を裂くような高音が鳴り響いた。空間がぶるりと震え、カルマの前を細長い影がよぎる。

 硝子の破片が雨となって部屋中に降り注ぐ中、カルマは吃驚した。


「な……」


 少女の姿が消えていたのだ。

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