2-8 純血

「カルマくん、後ろ!」


 エリーの戦いにすっかり気を取られていたカルマの意識を呼び戻したのは、リスティの声だった。

 しゅるり、と足首に何かが巻き付く感触がした。下を見る。蔓だった。細く長い灰色の蔓が、カルマの右足を拘束していた。

 悲鳴を上げる暇もなかった。ぐらんと視界が大きく傾き、内臓が飛び出るような衝撃と強烈な浮遊感が、カルマの身体を一度に襲う。

 宙に投げ出されたのだ。足首に絡みついた化け物の蔓によって、瞬く間に天井付近にまで連れていかれた。逆さ吊りにされた人形が、足に括り付けられた紐を勢いよく振り上げられたような状態だった。


「ひ──」


 頭を激しく揺さぶられ、目の前が真っ白になる。

 喉元から込み上げてくる吐き気。背中で外套マントが暴れていた。振り乱される手と足が、自分のものではないようだった。

 危険を察知したのは本能だ。文字通り空中で孤立したカルマの周りを、奇怪に蠢くいくつもの灰色の影が囲んでいた。エリーを襲った木の枝だろう。

 その先端が自分に向く気配を感じた。儘ならない思考の中、四方から飛んでくる枝に全身を貫かれる己の姿を想像したとき。

 漆黒が、視界を覆った。

 風を切り裂く鋭い音が響き、カルマを狙った灰色の枝が一瞬のうちにばらばらになる。刃だった。下から出現した幾本もの剥き身の刃が、天高く伸び上がる影のようにカルマをすり抜け、周囲の枝を一斉に攻撃したのだ。

 その刃の起点となる場所にはナナギがいた。肩に羽織った黒外套マントを大きくなびかせ、真下からカルマを見上げる少年の足元に、底の深い穴にも似た黒い血溜まりができている。それが刃の発生源だった。


「わっ」


 ふっと身体が軽くなった。黒刃による斬撃で蔓が切られ、足首の拘束が解かれたからだ。

 落ちる、とカルマは思った。衝撃に備えて固く目を瞑る。全身にかかる重力と空気の抵抗に翻弄され、息ができない。

 だが、覚悟していた惨事には至らなかった。代わりに与えられたのは、肩と膝裏に当たる、やわらかくも逞しい感触だった。


「大丈夫?」


 おそるおそる瞼を開けると、息がとまるほど美しい少女の顔が目の前にあった。エリーだった。急降下するはずだったカルマの身体を、横からすかさず飛んできた彼女の両腕が受けとめたのだ。


「昨日も思ったけど、あなた軽すぎよ。これからたくさん食べなくちゃね」


 自分を抱えたまま軽々と着地したエリーが一切の悪気なくそう言うのに、カルマは頬を熱くした。

 命の危機に瀕した恐怖と、少女たちの手を煩わせてしまったことによるいたたまれなさ。密かに気にしていることを指摘された羞恥が相まって、ただでさえやまない動悸が、よりいっそう激しさを増す。


「あ、ありがとうございます。その……ごめんなさい。おれ、足手まといで」


 建物一つをまるごと占拠するような化け物を相手にする中、戦う力を持たないカルマの存在は、彼女たちにとってお荷物以外の何ものでもないはずだ。


「今回の君の目的は任務の見学だろう。戦いにきたわけじゃない。その過程で不測の事態に陥ることを足手まといと表現するのは不適切だと僕は思う」


 うつむくカルマにナナギは言った。相変わらず淡々とした口調だったが、それが彼の気遣いであることはすぐにわかった。


「そうそう。見たでしょ? さっきのナナギの技。操血魔術っていうのよ。自分の血を自由に操るすごーい力なんだから」

「関係ありますかそれ」

「大ありよ。何があってもナナギが守ってくれるから大丈夫ってこと」

「エリー先輩もです」

「あらいいの? 私がまたカルマをお姫様抱っこしちゃっても」

「……」


 冗談よ、と愉しげに笑うエリーを、ナナギが無言で睨みつける。正確には、睨みつけているように見えた。実際の彼は無表情だ。眼鏡の下で静かに瞳が瞬くだけで、眉どころか睫毛一本動いていない。


「ね、頼りになるでしょ」


 そっと近づいてきたリスティが、カルマの耳元で囁いた。


「エリーちゃんたちが同じ任務に出ることって本当はあまりないんだよ。騎士団うちは常に人手不足だから、大きな戦力は基本的に分散させておくの」

「大きな戦力」

「二人とも純血だかね。今回や昨日みたいに特殊な任務のときは別だけど」

「純血……」


 黒血と黒血の間に生まれる子供のことだ。

 呪いの血を両親から引いている彼らは、元から身体能力が高い黒血の中でも、ひときわ優れた力を有しているという。

 本来、黒血や白血の誕生は偶発的な突然変異によるものがほとんどである。

 黒血であれば忌み子となり、捨てられるか殺される。

 白血であれば神の子となり、教団で大切に扱われる。

 さらに黒血は、その特性上まぐわう相手を死なせてしまう可能性が高い。同じ黒血か、呪いの力が効かない白血であれば話は別だが、後者は禁じられている。自分のように世界から否定される存在を増やしたくない、と天涯孤独を貫く黒血も多い。繁殖する意思が術が極端に少ないのだ。

 だから純血は珍しい。ナナギがそうであることはカルマも知っていたが、いまになってその理由に合点がいった。

 〈灰色の子〉の封印を守護し続けるため、五代名家の人間はその血を絶えず残さなければならない。アメジスト家に生まれたナナギが純血であるのは、当然のことなのだ。


「二人ほど強くはないけど、私もできるかぎりカルマくんのこと守るからね。これでも魔術は得意なんだよ。障壁術ハトラとか、補助系の術ばかりで頼りないかもだけど」

「そんなこと……!」


 頼りないのは自分の方だ。ナナギたちは否定してくれるが、カルマが彼らの足を引っ張っているのはまぎれもない事実なのだから。

 己の弱さをあらためて突き付けられたような気分になり、カルマは再びうつむいた。

 そのときだった。


 ──……だち、でしょう


 え、と思わず声をこぼした。戸惑いながら顔を上げると、きょとんと首をかしげるリスティと目が合う。

 どうしたの、と尋ねられて瞬きをした。彼女には聞こえなかったのだろうか。

 頭の中に直接語りかけてくるような、儚くか細い少女の声が。


 ──うれしくないの?

 ──ともだちに会えたのに


 ドクン、と耳の奥まで心臓の音が鳴り響いた。ぞくりとした感覚が背筋を襲い、足元が覚束なくなる。


「カルマくん」


 気がつくと、目の前にナナギがいた。


「……ねえ、ナナギ」


 覚えてる? と震える声でカルマは言った。


「『怪盗アールの事件簿』の、四巻の話」

「……館内の樹がという話かな。館長がそれを隠していて、アールの協力者だったその娘が樹を出現させた犯人だったという結末だ」


 さらりと答えたところを見るに、やはり彼もあの本の内容を思い出していたのだろう。博物館に樹が生える、という状況から連想したものは同じだったのだ。


「それがどうかしたのかい」

「うん。実はいま……」

「!」


 ナナギがわずかに目を見開いた。その珍しい反応にはっとしたのも束の間、カルマの足元でぼこりと奇怪な音が響いた。

 刹那、灰色の影が二人を引き裂く。


「な……」


 風圧で後方によろめき床に尻もちをついたカルマと、そんなカルマに手を伸ばすナナギ。互いの姿が見えなくなるのは一瞬だった。

 カルマたちの目の前に現れたのは、壁だった。博物館の入り口を塞いだのと同じ灰色の壁が、仕切りとなってホールを左右に分断していた。

 ナナギも、エリーもリスティも向こう側にいる。孤立してしまったのだ。


「どうしよう……」


 複雑に絡み合う枝と蔓で形成された壁は頑丈で、手持ちの短剣ではどうやっても切れそうにない。

 途方に暮れたカルマが、天井まで続く高い壁をおずおずと見上げたときだった。


「!」


 背後から物音がした。ずず、と何かが床を這うような重い音。反射的に振り向いたカルマは息をのんだ。

 二階へと続く階段の折れた部分と、床下から生えた数本の太い樹の根が繋がっていた。灰色の根が足場の代わりを果たしていたのだ。エリーほどの跳躍力がなくても、これなら上に進むことができる。


 ──こっちだよ


 いつかのときと同じように、そう誘われているようだった。

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