2-10 花
「外だ」
冷静な声でナナギが言う。彼の視線の先、部屋の奥にある窓が粉々に割れていた。床中に硝子の欠片が散乱し、吹き込む風が裂けたカーテンをばさばさと揺らしている。外側から突き破られたことは明白だった。
窓辺に駆け寄り、壊れた枠から身を乗り出すようにして外を見たカルマは息をのんだ。
「……!」
信じられなかった。この半日間でいくつもの衝撃を受けてきたカルマだが、ありえない出来事というのは、こうも頻繁に更新されるものなのか。
地面にではなく、博物館の外壁に。建物が崩れないのが不思議なほど存在感のある大樹だった。
壁を貫くように生えた逞しい根と、四方に伸びる無数の枝。館内に蔓延る灰色の樹と同じだが、太い幹があるところだけがこれまでとちがっていた。
「エリー先輩が言っていた大きな魔力の発生源だろう。この樹が
後ろでナナギが見解を述べるが、それどころではないとカルマは思った。
幹の中心にルダが捕らわれていたのだ。かさかさと蠢く大量の枝が全身に絡みつき、動けなくなっているようだった。
先程カルマの前を通過したのは、あの枝だったのだろう。外から侵入した樹の一部が少女の体を拘束し、一瞬のうちに連れ去ったのだ。
「助けなきゃ……!」
「カルマくん!?」
窓枠に足をかけ、飛び降りる。友人の声を背に硬い幹の上に着地すると、手を伸ばせば届きそうな距離にルダがいた。自分の目の前に現れたカルマを見て、驚いたような表情を浮かべている。
灰色の枝はカルマの身体にも絡みついた。
ルダと引き離されそうになって、カルマは必死に腕を伸ばした。
「ルダちゃん!」
知ったばかりの名を叫ぶと、少女の目がすっと大きく見開かれた。
伸ばし返される小さな手に、カルマはふと既視感のようなものを覚える。なぜだろう。そんな状況ではないはずなのに。
自分はこの手を、この瞳を。知っている気がするのだ。
「カルマ」
「まって、いま」
そっちに行くから、と少女に伝える。行ったところで何ができるのかはわからないが、いまはただ、彼女の手を取りたいと思う。
そんな想いが届いたのか。少しずつ近づいた二人の指先が、ほんのわずかに触れ合った、その刹那。
ドクン、と。カルマの心臓が波打った。
「……!」
途端に辺りが霧のようなものに包まれる。薪に火をくべたときに生まれる煙のような、灰色の霧だった。
はっとカルマの呼吸がとまる。眼前にいたはずのルダの姿がどこにもない。
ルダだけではなかった。歪な化け植物も、その根が張る建物も。自分以外のすべてが消えた空間にカルマはいた。
(ここは……)
音のない、まっさらな世界だった。周囲との境界が曖昧で、自分がいま立っているのか、浮いているのかさえわからない。
けれど次の瞬間、カルマは大きく目をみはった。何もないと思っていた場所に、先客がいたからだ。
「君は──」
カルマの位置からは背中しか見えないが、それはたしかに少女だった。
肩より少し長い灰色の髪に、小柄な身に纏う純白のワンピース。くるりと背を丸め、両腕で膝を抱えて座り込んでいる。
カルマは悟った。先客ではない。この場における客人は自分の方なのだと。
ここは彼女の──〈灰色の子〉の世界なのだ。
「……何を見てるの?」
後ろから少女に近づき、カルマは尋ねた。
返事はなかったが、その背中越しに見えたものから、自ずと答えを知ることになる。
花だった。裸足のまま揃えられた少女の足元に、一輪の花が咲いていた。
彼女の髪の毛と同じ灰色の花。美しいが、どこか寂しい。生きた植物であるはずなのに、乾いた花びらが無機質な紙のように見えるのは気のせいだろうか。
──ともだちだよ
カルマの方を見ないまま、少女がぽつりと声を落とした。
──わたしのともだち。お母さんとお父さんが、人間とは遊んじゃダメって言うから。この子といっしょにいることにしたの
独り言のようでいて、そうではない。自分に語っているのだと気がつき、カルマは静かに口を閉ざす。
──水をあげて、おひさまの光をいっぱい浴びせた。きれいでしょう。他の人たちはみんなわたしから離れていくけど、この子はわたしを怖がらない
──……おかしいと思う?
花がともだちなんて、と少女は言った。
切なげな響きが宿るその言葉に、カルマははっと目を見開いた。鈍い痛みが胸に走る。叫びたくなるような激情と、泣きたくなるような諦念に、心の奥がかき回されるような気持ちになる。
これが彼女の感情なのか。文字通り心臓を共有しているから、少女の痛みが手に取るようにわかるのかもしれない。
「おかしくないよ」
だからカルマはそう答えた。同じだからだ。ナナギと出会うまで、自分の友達は本だけだったから。紙に書かれた文字に触れ、言葉に命を見出すことで、ずっと心が救われていた。
彼女がカルマを呼んだのは、寂しかったからだろうか。
ふつうの女の子じゃないか、とカルマは思う。
「友達だよ」
「君が、その花にたくさんの時間をかけたなら」
過程がある。注いだ水に。浴びせた光に。彼女だけの愛情がある。
ならば、友達だろう。人を化け物に変えるよりずっといいとカルマは思うが、それを彼女に伝えていいかはわからない。
──やっぱり
細い肩がわずかに動いた。さらりと揺れた灰色の髪の間から、ゆっくりと振り向いた少女の横顔が露わになる。
──あなたは、わたしと同じだね
灰色の少女が微笑み、その背後から白い光が迸った。
空間をまるごと包むような光の勢いに目が眩み、カルマは顔を腕で覆う。
「──カルマ?」
気がつくと、目の前に黒髪の少女がいた。
ルダだった。カルマの顔を無表情に見つめているが、その瞳にはわずかな驚きの色が滲んでいる。
現実に戻ってきたのだ。先程までカルマがいたのは、この心臓がみせた夢の世界だったのか。それとも。
「ルダちゃん、怪我はない?」
「私は平気。……それより」
どういうこと、と少女が呟く。意味がわからず首をかしげたカルマだったが、自分が置かれた状況を把握したとき、はっと息をのむことしかできなかった。
花が咲いていたのだ。建物の外壁に生えた大樹の枝に、幾百、幾千もの灰色の花がついていた。
風に乗り、吹雪のように辺りを舞う無数の花びら。陽の光を浴びてきらきらと輝くその花は、精巧に作られたガラス細工のように美しく、灰色というよりは銀色のように見える。
カルマはただ唖然とした。いったい何が起こったのだろう。
「カルマ! ……って、ルダ!? なんで!?」
「エリー先輩!」
黒い
反応しようとしたカルマだったが、枝による拘束が解け、足場となっていた幹が徐々にその体積を失ったことで、ぐらりと身体が傾いてしまう。
まずい、とあせる間もなく、ルダとともに落下した。──すかさず上方から伸びてきた紐状の黒血が二人の腰にぐるりと巻きつき、命綱の役目を果たしたことで、大事には至らなかったが。
「カルマくん、怪我は」
命綱を生んだ張本人が、二階の窓から飛び降りてきてカルマに言った。
「妹の心配もしなさいよ」
続けて合流したエリーが、ため息を吐きながら後輩に苦言を呈し、カルマの横で静かに佇む黒髪の少女を見る。
エリーさん、とルダが小さくその名を呼んだ。どうやら二人は知り合いらしい。ナナギの妹なので、当然といえば当然なのだが。
「久しぶり。リスティさんも」
「ルダちゃん。元気だった?」
「うん」
「ルダ、あなたどうしてこんなところに」
「カルマに会いにきたの」
「なるほど」
「なるほどではないでしょう」
緊張感のない会話だった。否、緊張する必要がなくなったのだ。
博物館を占拠していた
「ところで──カルマ。あなたがこれをやったの?」
真っ直ぐなプラチナブロンドをさらりと流し、顔を上に向けたエリーが尋ねた。
その視線の先には、灰色の花を咲かせた大樹があった。少しずつ風化はしているが、その灰すらも光を帯びて輝いているように見えるのだから不思議な話だ。
「わ、わかりません。気づいたらこうなってて。でも……」
「でも?」
「〈灰色の子〉のおかげだと思います。──この花は、彼女の友達みたいだから」
エリーがきょとんと首をかしげた。何を言っているのかと自分でも思うが、事実なのだ。
天を舞う灰色の花。美しくも寂しいところが、幻影の中で見た少女の友達によく似ている。
「……この博物館に現れたのが樹の形をした
「『怪盗アールの事件簿』をかい。偶然だろう。〈灰色の子〉は封印されている。いくら君の中に心臓があるといっても、外部への干渉は不可能なはずだ」
「案外そうじゃないかもしれないわよ」
エリーが横から口を挟んだ。顎に手を当て何かを考えるような仕草をした彼女に、その場にいる全員が注目する。
「レザールの町が襲われたとき、カルマの前で
え、とカルマは声をこぼした。言われたことの意味がわからなかった。
「カルマ。あなたは、
空色の瞳を光らせる少女の言葉に、カルマの心臓が激しく跳ねた。
ドクン、ドクンと、自分のものではないような歪な音がする。当然だ。実際に自分のものではないのだから。
──あなたは、わたしと同じだね
灰色の花びらを空に流す風の中から、灰色の少女の声が聞こえた気がした。
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