2-6 教団
五歳くらいの女の子だった。転んでしまったのだろう。地面にぺたりと座り込み、小さな肩をひくひくと震わせている。周囲の大人は我関せずという態度を貫くか、心配そうに立ちどまって様子を見ているだけだった。
「大丈夫……!?」
往来で痛々しいまでの泣き声を上げる子供に、カルマは駆け寄った。腰をかがめ、うつむく顔を覗き込む。擦りむけた膝小僧から血が出ていた。
女の子がしゃくり上げながらカルマを見た。大きな目にいっぱいの涙が溜まっていた。
「えっと……」
どう対処するべきかわからず、あせったカルマがあたふたと手を動かしたとき。
横から割り込んできた人の影が、女の子の姿を覆い隠した。
「ご、ごめんなさい、うちの子が……!」
現れたのは女性だった。彼女は慌てて女の子を腕の中に抱き込むと、地面にしゃがんだ体勢のまま、さっとカルマから距離を取った。
ママ、と女の子が呟いた。そんな娘を強く抱きしめ、女性はカルマに視線を向ける。
遠慮がちに。されど警戒心は露わにして。悪い大人から子供を守るような彼女の態度に、カルマは狼狽えた。自分は何かおかしなことをしただろうか。
「……あの、黒騎士さま。もう大丈夫ですので……」
カルマを見る母親の目は怯えていた。黒騎士さま、と震える声。そこでカルマはすべてを察した。
カルマが黒血だからだ。黒騎士の証である黒い
自分たちが外出をする際には団服の着用が必須なのだとクロエが言っていた。任務であっても、そうでなくとも、騎士団の一員であることを常に周囲に示す必要があるのだと。
その理由がわかった気がした。要は警告色なのだ。黒騎士たちがこの
自分は呪いの血の持ち主である。危険だから不用意に近づかない方がいい。暗にそう伝えているのだ。
正直なところ、自分が黒血であるという認識がこれまでのカルマにはあまりなかった。
昔は赤だったということもあるが、そもそも人と接する機会がほとんど皆無に等しかったのだ。
だが、騎士団に属する者にとってはこれが普通のことなのだろう。
あの店の主人は本も客も選ばない、というナナギの発言を思い出す。あれは裏を返せば、本や客を選ぶ店が存在するということだ。
正当な差別。かつてナナギからそんな言葉を聞いたことがある。
当時は心に引っかかりを覚えたものだが、いまならわかる。カルマはこの母親を責められない。彼女は娘を黒血に近づけたくないだけなのだ。
「……ごめんなさい」
疼く胸を手で押さえ、親子から一歩離れる。母親の腕の中できょとんと首をかしげた子供がカルマを見ていた。彼女に申し訳ないと思った。
「──可哀想に。血が出てるじゃないか」
近くで知らない人間の声がした。高くも、低くもない、可哀想という言葉には些かそぐわない、軽快な声だった。
はっとして顔を上げる。横を見ると、すぐ隣に人がいた。若い細身の男だった。肩と肩が触れ合いそうなほどの距離。相手の方がカルマより背は高い。
呆気に取られるカルマにかまわず、その人物が親子に近づく。
彼は自身の服のポケットから右手で何かを取り出すと、母親の腕に抱かれる女の子のちょうど真上に、その左手をそっとかざした。
え、と声を上げる母親。男が右手に持っていたのはナイフだった。
かざした左手の指にナイフを当て、男は微笑む。次の瞬間、彼はその刃で自らの指を躊躇なく切り裂いた。
女の子の擦り切れた膝に、男の指から流れた血が滴り落ちる。カルマは大きく目を見開いた。
その血の色は、赤ではなかった。
純白だった。
いっさいの混じりけのない、透き通るような白。男が自分の手を切る瞬間を目撃していなければ、それが血液であるとは夢にも思わなかっただろう。
わっと驚いた声を上げ、女の子が立ち上がった。
「治ってる!」
唖然とする母親の前で、ぴょんぴょんと飛び跳ねる元気な娘。
その発言に嘘はなかった。先程彼女が転んだ際にできた膝小僧の傷が、きれいさっぱり消えていたのだ。残るのは、微かについた血の跡だけ。怪我をした痕はどこにもない。
「し、白血さま……! ありがとうございます……!」
娘の隣で恐縮した様子を見せる母親に、男がふっと笑みを返した。いかにも人のよさそうな、さわやかな笑顔だった。
「礼は必要ありません。僕が勝手にやったことですから」
「でも、お金は……」
「お布施ですか? いりませんよ。言ったでしょ、僕の勝手だって」
不安げに眉を下げる母親から顔を逸らし、男がカルマに視線を移した。
目が合い、にこりと微笑まれる。困惑しながら、カルマはあらためてその人物の顔を見た。
整った顔立ちの青年だった。子供ではないが、大人と呼ぶには若過ぎる風貌だ。エリーたちと同じくらいか、その少し上か。いずれにせよカルマよりは年上だろう。
わずかに癖のある藍色の髪。カルマを映して光る瞳は、蜂蜜を溶かした紅茶のようなやわらかな琥珀色をしていた。
彼は全身を白い服に包んでいた。丈の短い外套も、くるぶしまでを覆う立襟のコートも。その手から流れた血と同じように、真っ白だった。
本の挿絵で見たことがある。青年が身に纏っているのは、神官服だ。
「どうしたの。そんな化け物を見るような顔して」
「へ!? え、えっと」
声をかけられて動揺した。
「ま、化け物ってのはお互い様か。ひどいよね。君はあの子を助けようとしたのにさ」
「……え?」
「しかたない。そういう世の中だ。黒は嫌われ白は好かれる。面倒だけど受け入れるしかないよ」
先刻までの優しげな雰囲気から一転、飄々と掴みどころのない態度を見せ始めた青年にカルマは戸惑う。
「ザリくん!」
そのときだった。カルマたちの方に向かって通りを駆けてくる者がいた。
周囲の空気がわずかにどよめく。そのざわめきを通過して寄ってきたのは、青年と同じ白い神官服に身を包んだ一人の少女と、一人の男性だった。
はあと息を切らした少女が、困ったような表情を青年に向ける。
「勝手に抜け出しちゃだめですよ。ゴリオ大司教に叱られてしまいます」
「ごめんごめん。けど、転んだ子供を見かけたからさ。放っておくのも可哀想だろ?」
「ザリ、お前また無断で血をやったのか」
「まあ」
「そ、それこそ大司教が聞いたら卒倒しますよ……!」
へらりと笑う青年を、現れた二人の神官が窘める。
その様子を呆然と見守るカルマの肩に、後ろから手を置く者がいた。
「行こうカルマくん。僕らはここにいてはいけない」
ナナギだった。
彼はくるりと踵を返すと、通りから外れた路地の方へ真っ直ぐに進んで行く。
カルマはその背中を慌てて追った。
辿り着いた細道にはひと気がなく、建物の影に隠されたその場所は、昼間だというのに寒気がするほど薄暗かった。まるで陽の当たる世界から、自分たちの存在だけが隔離されてしまったかのようだ。
「──白血さま!」
賛美の念に満ちた声が遠くに聞こえた。カルマたちが離れた通りの方から響いてくる声だった。
その意味を明確にするように、前を歩くナナギが言う。
「彼らは白十字教団。白血の崇拝のためにつくられた宗教団体の神官たちだ」
カルマは思った。やはりそうだったのかと。
先程目にした光景が頭を巡る。純白の神官服。純白の血。子供の怪我を一瞬のうちに完治させていた。
あの青年は、白血だったのだ。触れた者のあらゆる傷病を癒やす、奇跡の血の持ち主。黒血と同様、その存在自体が稀有なものとされている。
そんな彼らが自ら神官を務め運営する組織。それが白十字教団だった。
「〈灰色の子〉の母親であるブランによって四百年前に設立された教団だ。聖地クラクスの白十字大聖堂で、封印された頭の守護を担当している」
「頭の……」
「とはいえ、騎士団と教団の間に直接的なつながりはない。不干渉、不接触。それが僕らの暗黙のルールなんだ。──白と黒が同じ場所に存在するのは不吉だからね」
カルマははっと目をみはった。ナナギがあの場から離れたのは、そのためだったのか。
「それに、あの神官はどこか怪しい。だから念のため──」
路地の途中で足をとめたナナギが、振り返ってカルマを見たときだった。
はらりと。一枚の黒い羽根が、二人の間に落ちてきた。
「え、なに」
風を切るような激しい音が上空から鳴り響いた。耳を塞ぎたくなるほどの甲高い声が続けて聞こえ、カルマは驚きに目を見開く。
視線を上に向けると、一羽のカラスがそこにいた。
雲一つない青空を背景に、全身を黒い絵の具で塗り潰したような鳥が、大きな翼をはためかせて滞空していたのだ。
「ルルー団長の使い魔だ。緊急の任務が発生した際、ああやって団員を呼びにくる」
「使い魔!? かっこいい……!」
『黒騎士物語』にも登場していた。小説の中では人間の言葉を話す動物として書かれていたが、あのカラスもそうなのだろうか。
「基本的には喋らない。余程の事態であれば話は別だが」
カルマの心を読んだかのようにナナギが言い、その眼鏡を無表情に指で押さえる。
「
カラスの鳴き声が響く路地裏を風が吹き抜け、向かい合う二人の
青い空から雨のように降り注ぐ黒い羽根が、ばさりと舞い上がった。
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