2-5 シグナス
結局、街の案内はナナギにしてもらうことになった。
彼はカルマが屋敷の外に出ることに難色を示すものだと思っていたが、自らが監視役を務めるならば許容の範囲ということだろう。
最初は共に行くと言い張っていたエリーたちだが、黒騎士が五人もそろって歩いていては街の住民が怖がるのではないかというナナギの指摘により、現在は留守番をしている。
複雑な気分だった。ナナギと街を歩けることは嬉しい。だが、この状況を彼はどう思っているのか。
──いつかふたりで世界中を見て回ろう
そんな約束をしたことがある。
マルコという冒険者によって書かれた『燈方見聞録』を読んでいたカルマが、おれもこんな旅がしたいな、と呟いたことがきっかけだった。
君が元気になったら、とナナギは言った。カルマはその言葉に目を輝かせ、身を乗り出してこくこくと頷いた。約束だよ、と。
すると彼はどこか眩しいものを見るように瞼を伏せ、ああ、と静かに口許を緩めたのだ。
いまはどうだろう。〈灰色の子〉の心臓が抱くにはあまりに愚かすぎる望みだと、そう考えているのではないだろうか。
だから浮かれてはいけない、と思う。
シグナスは騎士団の活動拠点。『黒騎士物語』の舞台のモデルとなった街でもある。いわばカルマにとって聖地同然の場所なのだが、自分がここにきた経緯を考えれば、そう単純に喜べる話ではないこともわかっている。
遠くまで晴れ渡る空。燦々と降り注ぐ陽の光。さまざまな店や家が建ち並ぶ風景や、行き交う人々の賑やかな声がどれほど新鮮で心躍るものであったとしても、はしゃいではいけない。
カルマは自分に言い聞かせる。己の立場を見誤るな。自由を謳歌する権利などお前にはない。この身には、世界に災厄をもたらす恐ろしい少女の心臓が宿っているのだから──
「わ〜!」
街の西側。ネーヴ通りの中にあるガラス細工の店の前で、カルマは感嘆の声をこぼした。
きらきらと、ショーケースの中で輝く美しい小物の数々に目を奪われた。さすがはシグナス。世界各地から多くの職人が集まるだけのことはある。
首都プリオシンに隣接するシグナスは、さかんな交易と商売で知られるガラシア随一の大都市だ。こういった店が各所に存在しているのも、この街が第二の首都と呼ばれる所以だろう。
「ねえナナギ、ここって」
「ああ。作中でカンパニュラがマリヴロンへの贈り物を買った店だろう」
「やっぱり!」
隣に立つナナギが冷静に答えるのに、カルマはぱっと笑顔を見せた。
「あそこのお店は?」
「花屋だ。その裏手には
「それも小説と同じだ」
「団員に想いを寄せる主人の娘は存在しないけれどね。あそこは夫婦二人で店を経営しているから」
「! あっちに見えるのってもしかして」
「西区中央広場。聖人ネレイスの像が有名だ」
「二巻でジョンが壊した噴水があるとこ?」
「ああ」
「すごい! 壊れてない!」
「だろうね」
見にいこう、と片手で掴んだナナギの
結局はしゃいでいるではないか。
「ナナギ、ごめん。おれ……」
「あの角」
肩を落とすカルマの前で、ナナギが静かに口を開いた。凪いだ夜のような熱のない視線が、通りの角に向けられていた。
「あそこを右に曲がって真っ直ぐ進むと、突き当たりに古い外観の本屋がある。今日はあいにく定休日だけれど、あの店の主人は本も客も選ばない。『黒騎士物語』も全巻揃えてられているから、今度また買いにくるといい」
ゆっくりと目を見開く。本屋、という単語に胸が跳ねると同時に、当然のように為されたナナギの提案に不意をつかれた気分になった。
今度、とはいつのことだろう。彼はカルマが不用意に出歩くことに反対の立場ではなかったのか。
「迷ったんだ」
逡巡するカルマに少年は言う。
「君は本が好きだろう。君をレザールの屋敷から連れ出すなら、君が大事にしていた本もいっしょに持ってくるべきだと思った。けどそれは状況的に難しかった」
「え……」
「最初は、君の部屋の本棚にあらかじめ何冊か揃えておこうと考えたんだ。せめて『黒騎士物語』だけでもあれば、君は安心するんじゃないかと」
「……ナナギ」
「ただ、君はいつか自分の足で自分の読む本をさがしに行きたいと言っていた。その最初の権利を間接的にでも僕が奪ってしまうかたちにならないか、不安になった」
淡々と胸中を明かす少年の顔を、カルマは見つめた。
三年前、あの小さな部屋で彼と過ごした日々のことを思い出したのだ。
ベッドの背にもたれるカルマ。その横の椅子に腰掛け、カルマの言葉に頷くナナギ。
返事を紡ぐその声に色はなくとも、彼は嘘の気持ちを口にしない。第一印象から無口に見られることが多いと本人は言うが、饒舌な人間とはまさに彼のことを指すのだとカルマは思う。
「それに、僕は君にはできるだけ
閉じ込めたいわけじゃない。
最後にそう付け加え、ナナギが視線を下に落とす。
そんな少年を前にして、カルマはふっと息を吐き出した。真剣な告白をしてくれた彼には悪いが、浮かれた顔をしている自覚があった。
「──やっぱり、変わらないな」
カルマが言うと、ナナギがゆっくりと顔を上げた。
「おれは、ナナギのそういうところが好きだよ」
すべてを言葉にしてくれるところ。飾りのない意見を述べながら、相手の気持ちをないがしろにしないところ。全部あの頃と同じだった。
立場や状況がどう変わろうと、やはりナナギはナナギなのだ。心優しく、誠実な、たったひとりのカルマの友達。
「こうしてまたナナギと会えて、本当によかった」
「……」
「それと、昨日は助けにきてくれてありがとう。言うのが遅くなってごめん」
「……カルマくん、僕は」
「きゃあっ!」
街行く人々のざわめきの中、ひときわ高い声が響いた。会話をやめ、二人で同時にその声がした方を振り返る。
花屋の向かい側。カルマたちの斜め後方で、一人の子供が大声を上げて泣いていた。
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