2-4 交流

 カルマにとってのナナギは、喩えるなら本のような存在だった。


 博識で、聡明。豊かな感性と広い視野。一つの価値観に囚われない柔軟な思考を持ちながら、本人の性質が揺らぐことはない。

 厳格な学術書や、真実を記した叙事詩や、鮮やかな夢を描いたおとぎ話がそうであるように、彼はカルマにさまざまな世界を教えてくれる。目に見えないものを、言葉というかたちにして与えてくれる人だった。

 ナナギの話し方には抑揚がない。表情も変わらない。白いページに黒いペンで綴られた文字の羅列のように、彼はいつも機械的な口調で話す。

 周囲には歓迎されない性質だと本人は言うが、カルマは少しも気にならない。むしろ好ましいとすら思う。

 表情はなくとも感情はある。無機質な紙に書かれた色のない文字の中に、彼だけの心があることを知っている。

 その表現方法が言葉に寄り過ぎているせいで、誤解されることもあるのかもしれないが。幼い頃から文字ばかりの本に触れて生きてきたカルマには、あまり関係のない話だった。

 それに──本当に時々、ほんのわずかにだけ、笑ってくれることもあるのだ。

 カルマはそれを挿絵のようなものだと思っている。なくても困らないが、あると少しだけ得をしたような気持ちになる、本の挿絵に似ていると。

 けれど、カルマはしばらくその顔を見ていない。もう二度と見られないのかもしれない。

 研ぎ澄まされた細いペン先のような声で、彼はカルマに言ったのだ。資格がないと。


「カルマー! おはよー!」


 ドンドン、と扉を叩く音で目が覚めた。

 ゆっくりと身体を起こす。知らない部屋の天井と、慣れない布団の肌触り。自分がいったいどこにいるのか、思考を整理するのに時間がかかった。

 黒十字騎士団の本拠地アジト。シグナスという街の一角に建つ、大きな屋敷の一室だ。

 今日からここが君の部屋だよ、とこの場所に案内されたのは昨晩のことだった。隣はナナギの部屋だから、と教えてくれたのはクロエという明朗な団員の女性だ。

 たったいま部屋の外からカルマを呼んだのも、そのクロエだろう。


「カルマ〜 起きてる?」

「お、起きてます……!」


 急いでベッドから飛び降り、扉を開ける。昨夜と変わらぬ明るい笑顔に迎えられ、カルマはようやく自分のいる場所がたしかな現実の中にあることを認識した。


「よく眠れた?」

「は、はい。その……夢を、みました」


 灰色の少女と対面する夢でも、叔父に拒絶される夢でもない。ナナギと出会ったときの夢だ。リザーの屋敷で療養生活を送っていたカルマの部屋を、彼が初めて訪ねてきたときの記憶。


 あの日、カルマは棚の上に置かれた本を取ろうと、部屋で一人奮闘していた。どうしても読み返したい本だったのだが、高い位置に積み重ねられているせいで、なかなか手が届かずにいた。

 そこにナナギが現れたのだ。

 扉の前に立つ見知らぬ少年の存在に気づいた瞬間、台の上でつま先立ちをしていたカルマは、その体勢のままぽかんと口を開いて固まった。

 真っ直ぐな黒髪と、黒縁眼鏡の下から覗く紺色の瞳。利発そうな顔立ち。純白のシャツと深紅のベストを身に纏い、紫水晶が光るループタイを胸につけた、いかにも育ちのよさそうな少年だった。

 夢をみているのかと思った。ジョンみたいだ、とも。

 ロニ以外の人間が自分の部屋を訪ねてくることはめったにない。しかもそれが、カルマと同じ年頃の子供だなんて。ちなみにジョンは、『黒騎士物語』に登場するカンパニュラの親友の名前である。


 驚きのあまり、カルマはそのまま台から落ちた。ぐるりと反転した視界の端に、はっとして駆けてくる少年の姿が映ったことを覚えている。カルマの身体を受けとめようとしてくれたのだ。

 崩れ落ちた大量の本の上に、二人そろって倒れ込んだ。いてて、と呻きながら顔を上げると、無表情に自分を見つめるきれいな少年の顔が目の前にあった。

 本の角で切り裂いたのだろう。少年の手の甲から血が出ていることに気がつき、カルマははっと息をのんだ。ごめん、とその手に触れようとした。

 すると少年はカルマから距離を取った。見るとその手から流れる血は、彼の髪の毛と同じ、真っ黒な闇の色をしていた。

 触れてはいけない、死んでしまうから、とナナギは言った。

 その言葉にきょとんと目を見開いたあと、カルマは少年に近づいた。そして、血に濡れた彼の手を自らの手に包み込み、微笑んだのだ。

 平気だよ。おれは黒血に呪われないから、と。


「──なるほどねえ。うん、私は嬉しいよ。あのナナギに友達がいたなんて」


 あのナナギとは? と内心疑問を抱いたカルマだったが、口には出さなかった。鼻歌を歌いながらてきぱきとカルマの身を整えていたクロエが、できた、と達成感に満ちた声を発したからだ。


「着心地はどう?」


 笑顔で問うクロエの前で、完成した自分の姿を確認する。

 襟の付いた象牙色のジャケットに、黒のズボン。腰に取り付けられた黒いベルトには、鞘の中に納められた短剣が差し挟まれている。護身用だよ、と戸惑うカルマにクロエは言った。

 騎士団の象徴である黒い外套マントは、全身を包み込むような丈の長さと、背中側に取り付けられた大きな頭巾フードが特徴だ。

 戦闘時に流れた血を一般の人間に見せない、という意図が込められているらしい。他者を殺す呪いの血を覆い隠すための制服なのだ。


「おれが、この外套マントを」


 憧れの騎士たちと同じ格好を自分がしている。その事実を純粋に喜ばしく思う一方で、本当に許されるのかという疑念が頭をよぎることは否めない。

 カルマは彼らとはちがう。偽物の黒血。封印が必要な心臓の持ち主。クロエたちはよくしてくれるが、はたしてその厚意を素直に受けとめていいものか。


「うんうん、いいじゃない。似合ってるわ」


 肩にずしりと重みを感じ、耳元で軽やかな声が響いた。

 頬をくすぐるプラチナブロンド。カルマの肩に手を回し、青い瞳を瞬かせるエリーだった。


「エリーさん」

「エリー先輩でいいわよ。後輩になるんだから」

「へ? え、えっと……エリー、先輩?」

「素直!」


 なんてかわいいの、と右手で髪をかき回されて困惑した。叔父以外の人間に頭を撫でられるのは初めてだった。


「ナナギくんのときは反応がつまらないって怒ってたもんね、エリーちゃん」

「わかりましたってただ一言で、初々しさのかけらもないんだもの。それに比べて見て。カルマのこの赤らんだ顔」

「うん、かわいい」


 エリーの隣でにこりと微笑んだのは、栗色の髪を二つに束ねた物腰の柔らかな少女だった。


「リスティだよ。エリーちゃんと同じ十六歳です。よろしくね、カルマくん」


 昨夜、エリーたちとともにレザールにきていた団員だ。

 周囲に花でも舞っているかのような朗らかな雰囲気を漂わせる少女に、カルマは『魔導師レミ』に登場する道具屋の娘を思い出した。エリーを華麗な薔薇とするなら、彼女は可憐な百合のようだ。


「おはよう二人とも。どうしたの?」

「カルマと朝ごはんを食べようと思って。本拠地アジトの案内もまだでしょ? 食堂に行くついでにいろいろ見て回りましょ」


 カルマの肩から手を離したエリーが、腰まで伸ばしたブロンドをさらりと背中に流して言う。

 私もいく! と溌剌と手を挙げたクロエに、カルマはぱちりと瞬きをした。


「街にも出てみない? これからあなたの生活拠点になる場所だもの。どんな所か知っておいた方がいいでしょ」

「街……!」


 エリーの提案に、カルマの胸はどきりと高鳴った。

 行きたい、と思った。自分の知らない新たな世界を見てみたいと。


 ── ロニに捕まる危険を冒してまで外に出るか、この屋敷で安全に過ごすか


 だが、脳裏によぎったナナギの言葉がカルマにそれを躊躇させた。


「カルマ?」

「その……おれはあまり外に出ない方がいいんじゃって」

「もしかしてナナギに言われたこと気にしてるの? いいのよ、あの子は過保護なだけ」


 カルマの憂鬱を吹き飛ばすような明るい声で、エリーが言い切る。するとクロエがけらけらと笑い出した。


「ははは! 過保護だって! すっごくナナギに似合わない単語!」

「失礼だよ、クロエさん」

「いいじゃない。あの子にもちゃんと人間らしいところがあったってことでしょ」

「あの、みなさん……」

「大丈夫。私たちとカルマがデートするって言ったら絶対についてくるわ。だってナナギは──」

「僕がなんですか」


 エリーがぴたりと言葉を切った。やば、とクロエが気まずそうに目を逸らし、リスティが困ったような笑みを浮かべる。

 カルマたち四人の背後に、無表情のナナギが立っていた。

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