2-3 資格
「──ナナギ!」
広く長い廊下を走り、カルマは少年を呼びとめた。
黒い
彼は言葉を大切にする。沈黙を攻撃の手段にすることはない。
「……カルマくん」
紺色の目がカルマをとらえた。夜空の色を内包した凪いだ瞳も、知性を感じさせる黒縁の眼鏡も。まちがいなくカルマが知るナナギのものだった。
中性的な顔立ちや、大人びた雰囲気もかつてのまま。身長はカルマよりわずかに高いが、それもたいした差ではない。目線の高さが変わらぬところも、三年前と同じだった。
ただ一つちがうのは、髪の色だ。闇夜のような深い黒が、月明かりのような淡い金に。
最初に彼が現れたとき、カンパニュラと見紛えたのもそのためだった。カルマの好きな物語の主人公は、美しい金髪と碧眼の持ち主という設定なのだ。
「えっと……似合うね、その髪」
本心だった。最初は驚いたが、こうして見ると彼によく馴染んだ色だとカルマは思う。
「あの頃の黒もよかったけど、おれは好きだな。カンパニュラみたいで」
手を伸ばし、少年の頭に触れる。右耳のあたりを梳くと、さらりとした金髪が指をくすぐった。
ぴく、とナナギの肩がわずかに跳ねた。その瞳に、彼にしては珍しい戸惑いの色が浮かんだことに気がつき、カルマは慌てて手を引っ込める。
「ごめん」
「……いや」
目を逸らされてしまった。
地下室のときと同じだ。再会してからというもの、彼はあまりカルマの顔を見ようとしない。
会えてよかった。助けてくれてありがとう。ナナギに怪我はない? 困らせてごめん。
伝えたいことがたくさんある。話したいことも。
三年前は、それがカルマの愉しみだった。ナナギが部屋を訪ねてくるたび、自分が読んだ本の話や、彼が知る世界のことを、時の流れを忘れるほどに語り合った。
けれど、いまはちがう。彼との間に壁のようなものを感じている自分がいる。
透明な、薄い壁だ。はっきりとしたものではない。手を伸ばせば壊せそうなのに、離れていた三年の時が、カルマにそれを躊躇させる。
ナナギは、なぜ自分の目を見てくれないのだろう。化け物の心臓を持っているから? 会わない間に友達だと思えなくなった?
そうではない、と思う。仮にそうであったとしても、彼ならきっとその理由を包み隠さずカルマに話してくれるはずだ。
「ナナギ、おれ……」
「僕には君と話す資格がない」
カルマの言葉を遮るようにナナギが言った。突き放すような冷たい声だった。
「三年前。僕の母はロニの研究の協力者としてあの屋敷を訪問していた。僕はその付き添いで、療養中の君と出会い仲良くなった。君はそう認識しているだろう」
「え? う、うん」
黒血の研究に理解を示す人間は少ない。だから本物の黒血を協力者として迎えられたのは幸運だ、とロニは言っていた。
だが、ロニの本当の目的は別にあった。黒血病の治療法を見つけることなど、ただの建前にすぎなかった。カルマと同様、ナナギたち親子も彼に騙されていたということだ。
「そうではないんだ。僕らは最初からすべてを知っていた。利用されるふりをして、ロニの懐に潜り込んだんだ。騎士団から心臓を盗み出し、
大きく目をみはり、カルマはナナギの顔を凝視した。初めて聞く話だった。
「カルマくん。僕は君の中に〈灰色の子〉の心臓があることを知っていたんだ」
息をのむ。長い睫毛に縁取られた紺色の瞳が、真っ直ぐにカルマを映した。今度は目を逸らされなかった。
「父の命令だった。ロニのもとに子供がいるという情報を得て、同年代の僕がその監視を命じられた。偶然じゃない。僕は君にわざと近づいたんだ」
「なんで、ナナギのお父さんが……」
「五大名家の当主だから」
「!」
「アメジスト家。〈灰色の子〉の左腕の封印を担う純血の家系だ。……僕はずっと君を騙していた」
カルマは瞬きをくり返した。彼の言葉を理解するのに、数秒の時間を要した。
「──ナナギ・ヴァン・アメジスト。それが僕の本名だよ」
煌びやかな照明が並ぶ長い廊下で、向かい合うカルマたちの間に静寂が訪れる。
しばらくして、先に口を開いたのはカルマの方だった。自分でも驚くほど、困惑した声が響いた。
「それだとなんで……資格がない、になるの?」
ナナギがはっと目を見開く。夜を映す深い瞳孔が、小さな波を描いて揺れた。
「家とか、監視とか、関係ない。出会うまでの過程が嘘でも、出会ってからの過程は嘘じゃないだろ」
「……」
「おれは、ナナギと友達になれてよかったと思ってるよ」
隠し事をされていたことはたしかに寂しい。だが、ナナギにはナナギの事情があった。何も知らずのうのうと過ごしていたカルマに、そんな彼を否定する資格はない。
カルマはただ信じている。演技などではなかった。ナナギと過ごしたあの日々に嘘はないと。
「カルマくん。僕は──」
「あーっ! やっとみつけた!」
そのとき、廊下の奥から聞こえた快活な声がナナギの言葉をかき消した。
見ると、騎士団の制服を着たショートカットの女性が、大きく手を振りながらぱたぱたと廊下を駆けてくるところだった。
女性は笑顔でカルマに近づくと、振っていた右手を勢いよく前に突き出した。
「君がカルマだね! 私はクロエ。これからよろしく!」
「あ……は、はい。よろしくお願いしま──わっ」
握手のために返したはずの右手を強く引かれ、カルマの身体はぐらりと前方に傾いた。
驚いて顔を上げると、目の前にはきらりと光るクロエの瞳が。ふふ、と愉しげに響いた声に、カルマははてと首をかしげる。
「うちの団員になるんでしょ? なら団服を用意しなくちゃ!」
「へ?」
「採寸しにいこ! ……ん? うーん。でもその感じだと、ナナギと同じサイズでもいけそうだね」
「えっと……」
「ああ、もしかして今日はもう疲れてる? そうだよね、大変だったもんね。話は聞いてるよ。大丈夫。私たちはみんな君の味方だから」
「あの」
「部屋の準備もしてあるから。今夜はもう寝る? あれ。そういえば夕飯は? 食べた?」
くるくると表情を変え、自分の手を握ったままひたすら話し続ける女性に、カルマは当惑した。視線を動かし、目だけでナナギに助けを求める。
金髪の少年は、静かに首を横に振った。諦めろ、ということらしかった。
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