1-5 真実
『黒騎士物語』という本がある。恐ろしい怪物から人々を守る黒血の騎士、カンパニュラを主役とした全十三巻からなる長編小説だ。
心の支えだった。たとえ屋敷から出られずとも、その物語を読んでいる間は、自由でいられるような気がした。
だから夢かと思ったのだ。黒騎士の象徴である黒い
現実にカンパニュラはいない。たったいまカルマを救ったのは、憧れた物語に登場する黒血の剣士などではなかった。
「ナナギ……」
もう一度その名を呼ぶ。
黒縁の眼鏡をかけた、金髪の少年だった。夜空を映したような紺色の瞳。大人びた雰囲気。髪の色は変わっているが、まちがいない。あのナナギだ。
三年前に出会い、半年ほどの期間を共に過ごした同い年のカルマの友達。
彼はカルマを一瞥すると、何も言わず右手の剣を鞘に収めた。
「先輩。伏せろと言う前に扉を蹴るのはやめてください。危うく彼に当たるところでした」
「細か……くはないわね。次から気をつけるわ」
「やつの他に研究員はいないようです。裏口から逃げたとしても、リスティさんの障壁に捕まるはずですが」
「シェリーさんは?」
「見当たりません」
「……そう」
淡々と答える少年を前に、エリーが神妙な面持ちで口を閉ざす。
状況がのみ込めず、カルマは黒い
物語の中でカンパニュラが所属する騎士団に、モデルとなった実際の組織が存在することは知っていた。いつか本物に会ってみたいな、とナナギと話したこともある。
そのナナギが、黒騎士の姿でカルマの前に立っている。
わからないことだらけだった。突然現れた騎士たちの目的も、彼らがする会話の意味も。
ロニが見せた不気味な笑み。灰色の血。熱を持ったまま疼き続ける心臓の痛み。あらゆる出来事に対する焦燥と困惑が、カルマの脳内をぐるりと巡る。
「カルマ、あなたはさがってて」
薄暗い部屋のあちこちで、異形が蠢いた。
灰色の皮膚。灰色の目玉。人間の形をしたものと、獣の形をしたもの。両者の姿をかけ合わせたようなものもいる。
数を確かめる余裕はなかった。少女たちの登場で一度は抑え込まれたはずの恐怖が、再びカルマの全身を支配した。
「大丈夫。あの一体以外ぜんぶ亜種よ。すぐ終わるわ」
言うなり、エリーは床を蹴り、長い髪をなびかせて前方に突進した。
カルマははっとした。崩れた奥の壁際。自身に被さる扉をどかして立ち上がった
少女はそんな化け物の真横まで一瞬のうちに移動すると、ぶわりと
炸裂する蹴り。吹き飛ぶ巨体。
カルマから見て左側の壁に再び叩きつけられた
今度こそ、化け物は消滅した。先程ナナギが斬り倒したときと同じように、灰となったのだ。エリーの蹴りによって潰れた箇所から、さらさらと濁った砂のようなものが舞い始めたのである。
「あとは余裕でしょ、ナナギ」
「はい」
眼鏡の少年がカルマの前に立つ。静かな足音。さらりと揺れる真っ直ぐな金髪。
困惑するカルマを背にしたまま、彼は自身の左手を胸元に掲げた。
「ナナギ……?」
親指の爪を使い、少年は自らの人差し指のはらを掻き切った。指を鳴らすような仕草だった。
一滴の血が床に落ちる。
闇夜の色が溶け込んだような純黒の血。死を司る呪いの血だ。
カルマは目をみはった。彼の血を目視するのはこれで二度目だった。
一度目は、初対面のとき。触れてはいけない、と傷口を押さえて自分から距離を取る少年に、カルマは笑って告げたのだ。
──平気だよ。おれは黒血に呪われないから
カルマがナナギと知り合ったのは、彼が黒血だったからだ。
ナナギはロニの研究の協力者だった。正確には、彼の母親が。貴重な黒血の持ち主としてロニに声をかけられたのだという。
母の付き添いで屋敷を訪れたナナギとカルマは出会い、仲良くなった。
(本当に……ナナギなんだ)
三年前、彼と言葉を交わさないまま以前の町を出ることになった。ロニがそう決めたからだ。理由は教えてもらえなかった。ただなんとなく、自分が黒血になったことと関係があるのだろうと推測していた。
逢いたかった。ずっと話がしたかった。この三年間、カルマの心に穴が空いていたのは、叔父に拒絶されたことだけが原因ではない。初めてできた唯一の友達と離れてしまったからだ。
「──血よ」
床に垂れた黒い血の面積が、瞬く間に拡大した。
円形の血溜まりがナナギを囲う。影のようにも見える漆黒の血が、小石を落とした水面のように波紋を描く。
黒い
瞬間、闇がすべてを切り裂いた。
中心にナナギが立つ円状の血。その表面から生まれた長身の刃だった。
鋭く、しなやかに。少年の足元からとめどなく伸び上がる漆黒の刃が、空気を巻き込み敵を裂く。
「すごい……──わっ」
腰にわずかな衝撃が走り、ふわりと身体が浮く感覚に襲われた。
ぶらんと投げ出される手足。褪せた床の色が視界に入り、その端で艶のあるプラチナブロンドが揺れている。
エリーに小脇に抱えられていたのだ。
そんなことがあるのだろうか。彼女はたしかにカルマより背が高いが、屈強な体格というわけではない。どちらかといえば細身の方だ。
黒血は人より身体能力が高い、という話を思い出した。その事実を差し引いても、こうも軽々と持ち上げられるのは情けない気もするが。
「ロニが逃げた! 追いかけるわよ」
はっとした。エリーたちの戦闘に圧倒され、叔父が姿を消したことにも気がつかなかった。
「ここは消しておきましょう」
たんと階段の上に着地したエリーが、カルマを下ろして脱出してきた地下室を振り返った。
扉の外れた入り口から一体の
「──
凛然とした少女の声がこだまする。カッと部屋の中が光った直後、大きな爆発音とともに、天地が逆転するような震動が建物を襲った。
激しい揺れに体勢を崩したカルマが、階段から足を踏み外しそうになったとき。
「ナナギ……」
いつの間にか隣にいたナナギが、腕を掴んで支えてくれた。
「あ、ありがとう」
「……いや」
笑いかけるも、ふいと目を逸らされる。
カルマはぱちりと瞬きをした。珍しいと思った。表情こそ変わらないが、どんなときでも相手の目を真っ直ぐに見て話す人。それがカルマのナナギに対する印象だったからだ。
「建物ごと燃やしておく?」
「一応バルザック伯爵の屋敷なので。やめた方がいいと思います」
「それもそうだ。……というわけで、カルマ」
ぱっと首を回したエリーがカルマを見る。部屋をまるごと爆破した後とは思えない、一点の曇りもない笑顔にカルマは虚をつかれた。
彼女が使ったのは、魔術だろう。
黒血と白血が特別なのは、その血に宿る本来の効果に加え、魔力と呼ばれる不可視のエネルギーを自在に操る能力を生まれつき有しているからだ。
その魔力によって人智を超えた現象を引き起こすのが魔術である。
「ここを出ましょう。ロニを追いかけなくちゃ」
「あ、その……」
「忙しなくてごめんなさい。けどこれだけは信じて。私たちはあなたの味方よ。心臓を守護する黒十字騎士団として、あなたのことを保護しにきたの」
「しん、ぞう」
忘れかけた鼓動の音が耳をつく。どくどくと熱を持つ胸の内とは対照的に、肚の底が冷えていく感覚がする。
「カルマ。あなたの中には──」
ドクン、と。頭の奥で歪な音が鳴り響いた。
胸を押さえる。くしゃりとしわの寄った服の下で、恐ろしい何かが暴れている。
自分のものではない、得体の知れない歪な塊が。
「〈灰色の子〉の心臓があるの」
いつかみた夢の少女が、暗闇の中からカルマを嘲笑っているような気がした。
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