5 傷




築ノ宮は頭を下げて店を出た。

すぐに波留の後を追う。


彼女の気配はすぐ分かった。

そして辿り着いたのは古いワンルームマンションだった。

その二階の真ん中あたりに彼女の気配がある。

彼はその部屋の扉の前まで行き呼び出しベルを押すと

すぐに部屋から近づいてくる足音がした。


だが返答はない。

スコープから見て築ノ宮と分かったのだろう。


「波留さん、私です。

モンちゃんのお好みです。持って来ました。」


ととんと彼は扉を叩いた。

その時だ、隣の扉が開いて若い男性が出て来た。


「うるせーよ。」


彼は怒っていたが

築ノ宮が彼を見てにっこりと笑うとあっけにとられた表情になった。


「申し訳ありません。

わたくしここの住人の方に用がありまして。

お騒がせしてすみません。」


邪気の無い顔で対応されると毒気が抜けたのか、

もごもごと呟きながら隣の男性は部屋に入って行った。

すると静かに波留の部屋の扉が開いた。


「波留さん。」


波留はちらりと築ノ宮を見た。

その眼が少し赤い。


「すみませんが、帰ってもらえますか。」

「いえ、そんな訳には……、」


すると隣の扉でドアを叩く大きな音がした。

築ノ宮が声を潜める。


「隣の人も迷惑がっていますからとりあえず入れて下さい。」


波留は戸惑ったような顔になったが、

仕方なく扉を大きく開けた。




彼女の部屋には物はほとんどなかった。

数枚の服が壁にかけてあり、マットレスが立てかけてあった。

小さな台所にはフライパンが一つ置いてあるだけだ。


築ノ宮は玄関で立っていた。

さすがに女性の一人暮らしの部屋に入るのは

失礼だろうと思ったからだ。

だがその時隣の部屋から大きなテレビの音が聞こえて来た。

まるで襖一つ隔てている部屋から聞こえているような音量だ。


一瞬築ノ宮があっけに取られて波留を見た。

彼女は驚いたが彼を見て少し笑ってしまった。


「こんなに聞こえるんですか?」


彼は驚いたように言った。


「そうなんです。凄い安普請で。その分かなり安いんですけど。」


隣のテレビの音はいつもより大きい。

あの彼がわざと大きな音を出しているのだろう。

ある意味嫌がらせだが、

そうしてしまう彼の心理も波留は何となく理解出来た。

彼も寂しい人なのだ。


「あの、どうぞ。」


この家の中や環境も全て築ノ宮は知ってしまった。

もう隠すものはないと波留は感じた。

それならリアルな自分を知れば

築ノ宮も呆れてもう来ないだろうと波留は思った。

彼女はテーブル代わりにしている小さな衣装ケースを出した。


「テーブルはこれです。」


築ノ宮はそこにお好み焼きを置くとそれを開いた。

割りばしが二本入っている。


「食べましょう。」


築ノ宮は何も感じていない様で

自然にその前に座ると波留に笑いかけた。

何となく波留もそこに座る。

お好み焼きはまだ温かかった。


「美味しそうですね。」


彼がにこにこと笑いながら食べ始めた。

一瞬波留は迷ったがお好みに箸をつけると

勢いよくがつがつと食べ始めた。


だが食べながら波留は泣けて来た。


行儀も何もない、子どものように食べて泣いている。

なんてみっともないのだろう。

きっとそれを見て築ノ宮も幻滅するはずだ。

だがそれでいい、それでいいと彼女は思った。


一人暮らしの何もない部屋に住んでいる貧乏な自分。

テーブルもなく小さな衣装ケースがその代わりだ。

そして物をかき込むように食べる躾がなっていない女。


彼が早くお好みを食べて帰ってくれると良いのにと

彼女は思った。

だが小さな衣装ケースの向こうにいる築ノ宮は、

何も言わずハンカチを出すと彼女の頬に触れた。


その眼は驚く程優しかった。


白いハンカチに彼女の涙と口元についていた

お好みソースの汚れも付いた。

彼女はそれを見ると箸を置いて築ノ宮を見た。


「どうして私に構うんですか!」


怒った声だ。

築ノ宮が驚く。

それと同時に壁から大きな音がした。


「うるさいですかねえ。

あちらのテレビの音の方が大きい気がするのですが。」


何事もなかったように築ノ宮が波留に顔を寄せた。


「小さな声で話しましょう。」


彼女の耳元で彼が囁く。


「あなたに会いたかったのです。」


はっと波留が彼を見た。

とても彼の顔が近い。

赤い頬の傷が彼女の目に入った。

築ノ宮はそのまま彼女の顔を綺麗に拭った。


「ハンカチが汚れて……、」

「構いませんよ。」


彼はハンカチを置くと波留の眼鏡をそっと取った。

そして眼鏡を置くと再びハンカチを手に取り

彼女の頬を拭う。


波留の目が遠慮がちに彼を見た。


彼女の瞳は薄い茶色だった。

明るい所で見れば髪の色と同じような桜色に見えるかもしれない。

肌も抜けるように白い。


そしてその瞳の奥に光が走った。

それを見ると築ノ宮は背筋がぞくぞくとした。

それは気持ちが高ぶっているからなのか、

それとも畏れか。


昔ヒナトリが手のひらに小さな物の怪を乗せて

彼に近寄って来た事があった。


自分のそばには物の怪は絶対に寄って来ない。

祓う力が築ノ宮にある事を彼らは知っているのだ。

だがヒナトリのそばには寄って来る。

顔には出さなかったが羨ましく思っていた。


しかし実際にヒナトリが物の怪を間近に連れて来た時、

手のひらに乗るほどの小さな物の怪でも、

築ノ宮は背筋がぞっとしたのだ。


だがヒナトリは築ノ宮の手に物の怪を乗せた。

物の怪は黒々とした艶やかな目で築ノ宮を見た。

小さな柔らかく温かな存在。

力を入れれば脆く崩れてしまう儚い生き物。


その瞳には光が走った。

それと同じ光を波留も持っている。

伊達眼鏡はそれを隠すためだろう。


だが築ノ宮はその光に少しばかりの気後れと美しさを感じた。


ずっと求めていた何かが彼女の中にあるのだ。


もう自分は彼女から離れられない気がした。

物の怪と共に生きると言う彼の理想が彼女の中にあるのだ。

こんな人は他にはいないだろう。

築ノ宮には唯一無二の代えがたい女性に思えた。


「ない方が良いです。」


築ノ宮が呟くと自分の口元に人差し指を付けて

三回微かに動かした。

すると隣のテレビの音が止む。


だが波留はそれどころではない。

間近に築ノ宮がいるだけで心臓が破裂しそうだった。

築ノ宮がそのまま傷がある頬を彼女の頬に付けた。


彼女の頬に彼の肌の感触が伝わる。

少しばかり彼の頬は冷たかった。

外を歩いて来たからなのかもしれない。

しばらくするとそこが温かくなる。


その温かみは柔らかくそして甘かった。


今まで感じたことが無い何かが満ちて来るものを波留は感じた。


ここしばらく感じていた苦しく辛いものが今は消えている。

間近に自分が一番求めている人がいるからだ。


彼の真意は未だに分からない。

だがもう彼女は彼を拒否できなかった。

そうなる事が彼女の本当の望みだからだ。


「私はあなたに会いたいのです。毎日でも。」


耳元で築ノ宮が囁く。

波留はそれを聞くとゆっくりと目を閉じた。

その言葉を噛みしめるように。


そのすべてに彼女は酔った。


しばらく二人はそのままだった。

離れがたい何かがあった。

だがそっと二人は頬を離した。

そして築ノ宮は波留を見ている。柔らかな優しい瞳だ。


「会いに来るのを許していただけますか?」

「……はい。」


風格ある男がなんと言う控えめな事を言うのだろうか。

波留は恥ずかし気に返事をした。


それを聞いて築ノ宮が微笑む。

そしてその頬にあった傷は消えていた。


それを聞いた築ノ宮がにっこりと笑う。


「ならば波留さんの連絡先を教えてください。」

「え、ええ、はい。」


先程までのしっとりとした気配はもうない。

彼は生き生きとした顔でスマホを取り出した。

それにつられて波留も取り出す。


「こちらですね。ありがとうございます。

私は仕事が不規則なので突然伺うかもしれませんが、

その前には必ず連絡しますね。

それとお仕事のお休みはいつですか?」

「水曜日です。モールは毎日営業ですけど。」

「水曜なら明日ですね。」


嬉しそうに築ノ宮が言う。

最初の印象ではどこかしら年齢に合わない貫禄があった。

だが今はまるで少年のようだ。

波留は急に可笑しくなりくすくすと笑い出した。


「なにかありましたか?」


築ノ宮が彼女を見る。


「いえ、そうじゃないんですけど、

築ノ宮さんを見ていると何だか楽しくなって来て……。」

「そ、そうなんですか?」


彼は照れたように頭を掻いた。


「いつもは背広なのに今日はトレーナーで、

私にカプセルトイを渡して、

なんだかすごい偉い人なのかと思ったけど、

可愛い……。」


それはふと出た言葉だ。

波留は少し赤くなる。


「可愛いですか……。」


呟くように築ノ宮が言うと波留はふふと笑って彼を見た。


「カプセルトイは私の趣味なんです。集めているんです。

小さくてカワイイでしょ?」


と言うと彼は持っていた鞄の中を彼女に見せた。

そこには沢山のカプセルが入っている。

それを見て波留は驚いた顔で彼を見た。


「なんて沢山……。」

「さっき一つ渡しましたが欲しい物があれば差し上げます。

でも被っている物だけですよ。」


子どものような物言いだ。

波留は思わず吹き出した。


「可笑しいですか?」


波留は笑い過ぎで涙が出たのか目をこすりながら言った。


「可笑しいですよ。いつもピシッとしてるのに。」

「うーん、みっともないですか?」


波留は鞄に触れている築ノ宮の手を軽く握った。


「全然良いです。」


二人の目が合う。


「あの、」


築ノ宮が言った。


「私は彬史と言います。

前に名刺をお渡ししましたよね。」

「ええ、頂きました。」


波留はそれは大事にしまってある。


「身内と親しい友人は私の事を彬史と呼びます。

そう呼んでいただけますか?」


波留の顔が熱くなる。


「彬史、さん?」

「私も波留と呼んで良いでしょうか?」


築ノ宮の顔もどことなく赤くなっている。


「あきふみ……、アキ?」

「波留さんは、はる、ハル?」

「ハルとアキ?」

「ですね。」


築ノ宮の手が彼女の頬に触れた。

そして彼が近づく。

波留は何かの予感を感じた。

自分に新しい何かが始まるのだ。

彼女は目を閉じた。

そしてその唇に彼が触れるのを感じた。


最初はそっと、そして次は確かめるようにはっきりと。


甘く柔らかな瞬間だ。

波留は体がぞくぞくとした。

そして彼が離れる。


「ハル。」


波留は目を開けて彼を見た。


「アキ。季節ね。」


築ノ宮が嬉しそうに笑うと、

また彼女の唇に触れた。







「渡辺さん、今日の予定は。」


翌日仕事が始まると由美子はいきなり築ノ宮に聞かれた。


「は、はい、午前は宮川様がこちらにいらっしゃいます。

そのままご会食も行います。

午後はノガワ社の社屋に調査に伺う予定です。」

「ノガワ社ですか、少々厄介な案件でしたね。

手配は済んでいますか?」

「はい、術師の方々もいらっしゃいます。現地で集合の予定です。」

「分かりました。それでその後は今日は何もありませんね。」


由美子は予定を見る。


「突然の案件が入れば別ですがございません。」

「そうですか。

ノガワ社の後に私は私用があるのでそこには自分の車で参ります。

あなたも用がなければそのままお帰りになっても構いませんよ。」


由美子は少しばかり驚いた。

彼が私用で直帰する事は滅多にないからだ。


そして昨日は築ノ宮は休日で、

いつもならその後はびっくりするぐらいのカプセルトイを

持って帰って来るのだ。


それは彼の唯一の趣味と言える。

一人で公共機関を使い外出して、

ショッピングモールなどで半日ぐらいカプセルトイを選んでいる。

正直驚く程の数を買う。


そしてその翌日いらないカプセルを山の様に持って来て、

差し上げますとにっこりと笑って彼女は押し付けられるのだ。

買ってみたが被っていたり気に入らなかったりしたものだろう。


それは彼の唯一のストレス解消なのだ。

何しろ彼の仕事は気を使う激務で危険な場合もある。

買う事でストレスが解消されるのなら安いかもしれない。

だから仕方がないとはいえ結構な数のカプセルを渡される。

その後彼女はそれを段ボールに入れて廊下に置くと

いつ間にか無くなっている。


それはそれで良いのだが、

築ノ宮が休むとそれ目当てに

彼の休みを確認に来る者が結構秘書室にやって来るのだ。


明日カプセルを置くと皆に言えば良いのだが、

仕事上築ノ宮の休みが大っぴらになるのはあまり宜しくない。

何しろそれにかこつけて何かが暗躍するかもしれないからだ。

昨日も聞きに何人も来た。

要するに面倒くさいのだ。


だが今日はいつもの半分もなかった。

買った物のほとんどが被らず気に入ったのだろうか。

いや多分買った数自体少なかったのだろう。


そして築ノ宮の様子だ。

どことなくそわそわしている。


由美子もこのような仕事に携わっているのは、

自身も人を探る能力があるからだ。

術師として前線に立つ事はないが魔を見抜く力を持つ。


彼女の目でも築ノ宮はいつもと様子は違う。

だがその変化は嫌な感じはしなかった。

そしていつも冷静な彼なのにそれを隠す事も出来ないのだ。

溢れ出る何かが彼から漂っている。

今まで起きた事がない物事が始まっているようだ。


築ノ宮は大人だ。

詮索するまでもない。

だが彼の地位は何かあればとんでもない事件につながる可能性がある。

いつかは調べなくてはいけないのだろうか、

と由美子は思った。

だがとりあえず今は様子を見るしかないだろう。


「分かりました。10分経ちましたら宮川様をお迎えします。」


彼女は何事も無いように返事をした。


「はい、私も玄関まで参ります。」


由美子は頭を下げて出て行った。

築ノ宮はすぐにスマホを取り出す。

それは仕事のものとは別のプライベートのスマホだ。

そこにはあの宇宙人のキーホルダーがついている。

そしてその先は波留だ。


「今日の夜お伺いします、行く前に連絡しますね、

荷物をまとめておいてください、と……。」


彼がそうスマホで打つとすぐに返信が来た。


ハル『おはようございます、荷物をまとめて?』

アキ『そうです、サプライズです。』

ハル『??』

アキ『秘密です。』


築ノ宮はにやにやしながら画面を見た。

絶対に由美子には見せられない顔だ。

自分でも顔が緩むのが止められなかった。


人を好きになるとそうなるのだろうか。


彼は女性と付き合った事はある。

だが全て有力者からの紹介だ。

いわゆるお見合いのようなものだ。

こちらとの繋がりが欲しいのだろう。


食事をして話をしてしばらく付き合って……、

だが長続きしない。

自分の仕事が不規則で危険もある。

そして紹介された女性の正体も彼には分かる。

中には人に言えないような過去を持つ人もいた。


そしてお互いにすぐに興味が無くなるのだ。


そうだろう。

築ノ宮は豊かで見た目は連れて歩くには良い。

だが融通が利かず面白味がない。そして仕事優先だ。

自分勝手だと何度言われたか。

だがそう言われてもなんともなかった。

去る者は追わずと言う感じなので縁が続かない。


だが波留は違った。


最初から気になる人だった。

拒否されるのは初めてで後を追ったのも初めてだった。

そして自分の唯一の趣味を見せたのは彼女だけだ。

彼女はそれを面白がった。

くすくすと笑う彼女を思い出す。


その彼女に築ノ宮は昨晩初めて触れたのだ。


柔らかい頬、桜色の綺麗な髪、白い肌、

それを間近に見て彼は理性が飛ぶのを感じた。

そして彼女の唇に触れた。


甘く暖かいまるで日向のような、

桜の花が咲く時期のほのかな柔らかな気配だ。

暖かい手が自分の手に触れた。


そして彼女の瞳の光だ。体がぞくぞくとした。


彼はそのまま彼女を抱き締めたかった。

だがあの場所ではだめだ、と彼は思った。


「だからサプライズです。」


彼はにやにやしたまま呟いた。

その時だ。

執務室の扉が叩かれる。


「築ノ宮様、もうすぐいらっしゃいます。」

「はい。」


彼は慌てて引き出しに宇宙人付きのストラップをしまった。

そして気を引き締めるために頬を軽く叩くと立ち上がった。

扉を開けると由美子がいた。

その時彼女が言った。


「築ノ宮様、頬の傷が治っていますね。」


彼ははっとして自分の頬に触れた。

あの傷は物の怪に付けられた闇の傷だ。

消えるまで数か月はかかると思っていたが

いつの間にか消えていた。


「そうですね。」


それに気が付かなかった自分はかなり浮かれているのかもしれない。

気を付けなければと感じたが、

今日また彼女に会えると思うと

どうしても心が浮足立つのは止められなかった。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る