第16話 喧嘩

 これ以上は本当にまずい。

 操竜士のタグを見せびらかしてここまで来た手前、竜の機嫌を取れないと操竜士の名にまで傷をつけてしまう。


(もう! ベルッ!)


 私は周囲に見えないように、これにまでにないほど強くベルを睨みつけた。


「グルゥ……!」


 竜の瞳は怒りを孕んでいるようにも見えたが、私はそれをあえて無視して睨み続ける。

 根負けしたのか、数十秒のにらみ合いを経て、ベルはやっと私の服を手放した。


「……行くよ」


 もみ合ったせいかずり落ちたフライトジャケット。

 私の顔はすでに大衆にさらされていた。

 フードも戻さずに、大股で足を前に進める。

 ベルもさすがに黙って私について来た。

 私とベルが通れる大きさに人々が道を開ける。

 肌に突き刺さる周囲の視線。

 私は歯を食いしばって熱くなった顔をひたすら地面に向け続けた。

 広場の石畳がライトの光をぬらぬらと反射する。

 私は心の中でその石の列が少しでも早く途切れ、一秒でも早く通りに出られることを願い続けた。

 ちょうどその時、私の耳が、誰かの放った言葉を拾い上げる。


「使い物にならない竜なんて、処分したほうがいいんじゃないか?」


 止まる足。

 瞬発的に振り返った先には、逆光で姿が見えない人の波。


(なんですって……?)


 その時自分がどんな顔をしていたか、定かではない。

 ただ、私の視線を向けられた人は「ヒッ」と短く声を上げ、首をぶんぶんと横に振っていた。

 両脇にいた人も、私は違う、とでも言いたげに私から目を逸らす。


「おい誰だ、今の。操竜士の嬢ちゃんに失礼だろ!」

「なんてこと言うんだ!」


 どよめきが広がった。

 私は踵を返し、ひたすら無言で歩き続け、広場から抜け出す。

 背後では罵声や叫び声の応酬が繰り広げられ、やがて乱闘騒ぎにまで発展していた。

 街灯に照らされた道を歩く間、私は激情に明滅する視界の中で浅い呼吸を繰り返す。

 腹の奥に真っ赤に燃えた石炭を放り込まれたようだった。

 気が付くと、粉雪が視界にちらついていた。

 風が強く吹き、冷え切った私の頬を叩く。

 大通りを避け、裏道を縫うように進んでいくと、もう周囲に私を見ている人影はななくなった。

 竜舎へと続く無人の道に、私とベルの靴音だけが響く。

 普段であればこんな夜道を歩いていると、少しは心細くもなっただろう。

 でもその時の私は、体の内側からあふれ出る不快な熱を抑えつけるので必死で、恐怖の欠片すら感じることはなかった。

 目的地にたどり着いたことにすら、竜舎の螺旋階段を前にするまで気付けなかったほどだ。

 番号の振られた壁面のレバーを下ろすと、ワイヤーが伸び、竜かごが地面に到達する。

 のろのろとした動きでやっと開いたかごのハッチに、私はベルを促した。


「ほら、ベル。お休みの時間だよ。入って」


 普段に比べるとだいぶ抑揚のない言い方だったかもしれない。それでも、努めて優しく語り掛けたつもりだった。

 私なりに精いっぱいベルに気を使ったつもりだった。

 だが、ベルはその場から一歩も動こうとしない。

 もう一度、繰り返す。


「あはは……。どうしちゃったの? ねえベル、お願い。かごに戻って」


 結果は同じだった。ベルは闇の中から、瞬きひとつせず私をじっと見つめ続ける。

 その瞳からは、感情を読み取ることすらできない。


(なに? なんでそんな目をするの?)


 私は唇を強く噛み締め、苛立ちを押さえようと必死だった。

 分かっている。ベルに罪はない。

 すべては自分が招いた過ちだ。

 そもそも私が鍵さえ閉めていれば、こんなことにはならなかった。

「どうして今の私の気持ちを分かってくれないの」と言う言葉が喉元までせり上がってくる。

 ベルが生まれたときから、わたしたちはずっと一緒に過ごしてきた。

 たとえ言葉が通じなくても、ベルは私のことをわかってくれていた。

 私が落ち込んだときは寄り添ってくれたし、疲れ切ったときはひょうきんな動きで笑わせてくれたりもした。

 誰よりも、信頼のおける存在だった。

 ベルは他の竜とは違う。特別なんだと思っていた。

 ――だから。

 ベルが私の言うことを聞いてくれないなんて、絶対に、絶っ対に嫌だったのだ。

 

「ねぇどうして? どうして急に私の言うことを聞きたくなくなってしまったの? 前に鍵をかけ忘れちゃった時も、私が連れ出すまでいつもかごの中で待っててくれたのに、どうして。どうして今日は勝手に飛び出しちゃったの……?」


 ベルは答えない。

 まるで私を試しているかのように、じっとこちらを穴が開くほど見つめてくる。

 私は生まれて初めて、ベルの瞳に恐怖を覚えた。覚えてしまった。

 眼の前の光景と硬直する体に、心が追いつかず悲鳴を上げる。

 愛竜にそんな感情を抱くなんて、あってはならない。

 私はいまだかつて経験したことがない不安に戸惑う。


「そうか、そうだったね。ベルも久しぶりにちゃんとしたご飯食べたかったよね。ごめんね、鉄塔を登らせてあげられなくて。でも、もうちょっと待ってほしかったな。ちゃんと、私がまた登れるようにしてあげるから、ね……?」


 最大限、譲歩したつもりの一言。

 ベルの機嫌を取ったつもりだった。

 それが、今私にできる本当の精いっぱい。


(大丈夫、大丈夫。いつもみたいに、自分を抑えて、穏やかに、おどけて、できる限り柔和に接する。人も、竜も変わらない。そうすれば、大抵のことがうまくいく。そう、私がちゃんといつもと同じように、我慢さえすれば――)



「ガァァァァァァァァァアアアッ‼」



 返ってきたのは、怒気を孕んだ、威嚇の咆哮だった。

 瞬間、頭が真っ白になる。

 例えるなら、お気に入りのぬいぐるみの中から突然飛び出して来た刃物。

 ぞっとした。

 同時に腹の内で燻っていた石炭はまるで爆発するかの如く怒りと共に火柱を上げる。

 その火炎は胸を突き上げ、喉を焼く。

 頭に浮かぶのは、今まで繰り返してきた、たくさんの当たり障りない言葉たち。

 とっさにそれをなぞろうと、口を動かした。

 だが飛び出して来たのは、まるで正反対の一言だった。


「ベルが、悪いんだよ」


 ひとつ。


「ベルが、いけないの!」


 ふたつ。


「ベルが、ベルがッ!」


 みっつ、よっつ。


 頭に浮かぶ優しい言葉が、順番に炎に撒かれてくすんだ灰へと変わっていく。


 もう、止められなかった。


「なんでそんなに聞き分けが悪いの⁉ ベルがそうやって駄々こねるような子供だからいけないんだよ! だから……だから鉄塔に登らせてもらえないんだよッ! ねぇ私の気持ち、考えたことある⁉ 毎日、毎日毎日毎日毎日ッ! 私の時間をどれだけベルの散歩に当ててると思ってるの⁉ あなたのためと思って、雨の日も雪の日も、私が風邪を引いたって休んだことはなかった! でも、ベルはそれに応えてくれたの⁉ なにか、私のためにしてくれたことってあるの⁉」


 感情のままにあふれ出す言葉。

 少し驚いたかのように目を広げたベルを見て、胸がズキリと痛む。

 それでも堰を切った感情の濁流を押しとどめることができない。


「一度もないよね⁉ なのになんでこんな困らせることばかりするの‼ ベルにはわからないかもしれないけど、今回の騒ぎが原因で、もう二度と鉄塔に登れないようになってしまうかもしれないんだよ⁉ そんなことも分からないくせに――」


 まだ言葉を続けようとした私の横を、ベルは静かに横切った。

 はっとして振り返ると、もうそのしっぽの先は、竜かごの中へと入っていくところだった。

 ベルはかごの中央で音もなく体を横たえる。

 一度もこちらを振り返らずに。


「分かったなら……いいの……」


 私はレバーを操作し、ハッチを閉める。

 そのまま、かごは上へ上へと帰っていった。

 いつの間にか私の中で燃え盛っていた炎は嘘のように消え去っていて、赤く燃える石炭があったはずの場所には、どろどろとしたタールの塊がこびりついている。

 もうそれは吐き出すことも、取り去ることもできないものだと直感した。

 こぼしてしまった水が元に戻らないように、放った言葉も取り消すことはできない。

 感情に任せて口走った言葉がベルにどう伝わったのかすら、もうわからない。

 青白くなるほど力を込めて握りしめていた拳をほどくと、手から始まった脱力感が腕を伝い、肩を超えて全身へと広がる。


 横殴りの雪が、冷え切った頬を叩いた。

 左足の濡れて凍りついたパジャマの裾。下にある皮膚の感覚は、とうにない。


「私、なにやってんだろ……」

 誰に伝えるでもなくつぶやくと、両手をフライトジャケットのポケットに突っ込み、竜舎に背を向けた。

 暖を取るために手を入れたはずだったが、中には雪が入り込んでいて、中途半端に溶けたみぞれが手をさらに凍えさせる。

 でももう、そんなことはどうでもよかった。

 ただ踏みしめる雪の音だけが、やけに耳障りだった。

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