4.手の中の水

 透明な壁の向こうで、彼が見ている。前髪のカーテンの向こう側、顔を上げた彼の目は真っ黒で、何もない。ただひたすらに黒いばかりで、助けてとも、あっちへ行けとも、何も告げない。

 そうして突然、ぐしゃりと潰れる。

 それでも、黒い目だけは絢世を見ていた。ただただ真っ黒で、何もない、あの黒い目だ。

 手を伸ばす、開く、ぱしゃりと落ちる。コップ一杯にも満たない水が零れて落ちて、コンクリートに染みを作った。

 透明な手が耳をふさいだ。ああ、何も聞こえない。何の音も、聞こえない。

 透明な手が目隠しをした。ああ、何も見えない。何も、見てはいない。

 鬱屈うっくつとした監獄の中、彼はきっとけ口だった。けれどそれは彼の望んだようなものではなく、ただそこにいただけで決められてしまったものだった。それをただ絢世あやせは、透明な壁の向こうの景色とした。

 そのひとにぎりの水を、差しだすようなこともなく。


 線香のにおいが、鼻についた。ふっと世界には音が戻り、滔々とうとうと流れる水にも似た読経が右から左へと通り過ぎていく。

 焼香は、順番に。白い花を一本、彼の棺に。

 彼のまぶたは閉ざされて、ぐしゃりと潰れたようには見えない姿だった。どんなふうになっていたのか、もう思い出せないけれど。

 棺の中へと、花を入れる。さすがにこの花の名前が、百合ということくらいは知っている。

 彼のまぶたは、開かなかった。あの黒い目は、どこにもなかった。

 ぱたりと落ちて、砕けて、はぜる。誰かのすすり泣くような声が聞こえた。女性のものだとは分かっても、明確に誰かなど分かるはずもない。

 ぱたぱたと、落ちて、砕けて、はぜた。

 人間とて体内の七割は水なのだから、それがあふれ出て落ちたとしても、何も不思議なことはない。

 ぐいと袖口で目を拭う。

 彼のまぶたは開かない。あの何もない黒い目は、もうどこにも。

 透明な壁はまだそこにあって、握りしめたその手はもう届かない。透明な手で耳を塞いで、透明な手で目隠しをして、けれどひとにぎりの水だけはそのまま残される。

 この罪に何と名付けよう。

 決して裁かれることのないこの罪に、何と名前を付ければ良いのだろう。にぎった手の中に水はあったのに、その価値を勝手に自分で決めた。コップ一杯にも満たないその水に価値がないと、そう決めつけた。

 この罪に、名前はない。

 透明な壁と、透明な手、にぎりしめた手の中。溢れ出た水など、体内の七割を占めるものから考えれば微々たるものだ。

 にぎりしめた手の中に、もう水は残っていなかった。その水を与える相手はおらず、本当にもう無価値なものになってしまった。

 持っていたくせに。

 にぎりしめていたくせに。

 外へ出れば、空はもう青くない。勝手に散らばっていた青色は、広がり続けて散乱し続ける青色は、どこかへ消えた。


 彼を殺したのが、誰かと問うならば。

 コップ一杯に満たない水にも、きっと価値はあったのに。

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ひとにぎりの水 千崎 翔鶴 @tsuruumedo

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