Karte.9 拍動

「ただいま。」

「おかえり。」


母親のいつもの笑顔。

そんな時、蓮極エデンの言葉が脳裏を過ぎる。


『人間には誰しも心に棲みつく悪魔がいる』


まさか、こんな母親にも悪魔は潜んでいるとでも言うのだろうか。


「どうしたの?顔に何か付いてるかしら?」


「うぅん。なんでもない!今日のご飯何?」


「今日はハンバーグよ。」


「そっか。お風呂先に入っちゃうね。」


「あの子…何か隠し事かしら?」


母親の洞察力は当たっている。

いつもと違うというのはなんとなくで悟られてしまう。

そんな中、景はエデンの言葉を受け入れられなかった。

そんなはずはない。

母親には悪魔なんているはずがない。

そう言い聞かせた。


そして家というモノが急に怖くなる。

エデンに出逢ってしまった恐怖だけではない。

これが景の離人症性障害の症状の一つでもある。

いつも見ている間取りにすら疑念を抱いてしまう。

この扉は押し戸か引き戸か…

この扉はいつも右にあったっけ?

壁の色ってこんな色だったか?

ゲシュタルト崩壊のようなことが自然と毎日頭を張り巡らせる。 



自分の部屋に戻り、何度も確認した。


匣と薬を…。


家に帰って眠る直前になって我に返った。


「なんか、ヤバいことに手を出してしまったかもしれない。」


景はあの時エデンとの対話をどこか俯瞰して見ていたのかもしれない。

帰ってきた時、主観に戻り現実を受け入れる。

それが離人症性障害の思考と行動パターンなのだ。


「でも、きっと蓮極エデンという男が自分に雰囲気が似ていたのは何かある。それなのに、この心臓から連鎖して全身にまでに呼応する拍動はなんだろう…」


何かを得たとき同時に何かを失う感覚。


景には契約と同時に別の何かを破毀したような、そんな気がしていた。


いつも正反対の事象は同時にやってくる。


正確にはニアリーイコールではあるが、0.1秒、0.01秒、0.0000…1秒と細分化した先は限りなく0に近い数値になっていく。

そうして物事が切り替わっていく瞬間は、確かに同時と相違ない。


「とりあえず、今日はもう寝よう。」


何も変わらない日常と同じく、そのうち慣れるだろうとそう言い聞かせ、景は眠りにつくことにした。


そんな夜、景は珍しく夢を見た。


いつも記憶に無いのだが、久々に記憶に残る夢だった。


空白の何も無い白い景色で、突然背中を突き破って色のない翼が生えた。


そして、どこに向かうかも知らずに飛び立った。


このままどこまで飛んでいくのだろうか。


そんなことを考えていると、辺りは突然暗闇に包まれた。


そのままいくら羽ばたいても変わらぬ黒を、優雅に飛んでいる。


次の瞬間、急に翼は砂のように風がさらっていき、天を眺めるように仰向け状態になったまま急降下していった。


落ち行く感覚が、恐怖感と高揚感を同時に掻き立てるように神経回路に差し響き、遺伝子の螺旋を滑り落ちるように回りながら降下していく。


まるで宇宙のような果てしない時空へ、どこまで落ちていくのかと…。


そんなことを考えていると急に自分の身体に叩きつけられるような感覚を抱き、ビクンッとなって目が覚めた。


「夢…?妙な夢を見た。心地よかったのか不快だったのか…釈然としない不可解な夢だった。」


とりあえず、今日も朝はやってきた。


規則的にやってくる朝…。

でも景にとって同じ朝でも毎日なにか違う。


また長い事、思案に耽る。

感傷に浸っているヒマはない。


そんなことを考えては、毎日自分の身体を戻さなければ朝起き上がることは出来ないのだった。

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