第5話 思わせぶり、それとも?(※一部改稿済)

 チャイムが鳴って、コミュニケーション英語の時間になった。


 遊び感覚でやっていた中学までとは違い、高校に入ってからは本格的、実践的な英会話表現が多い。それゆえにペアを組む相手というのが最も大事になるのだが、律にとって頼みの綱であった拓海は、やはり明里と組むようだった。


 それはそれで仕方がない。友人の恋路を応援しようと思いつつ、さて自分はどうしようかと考えた。そうこうしているうちにペアワークの時間になってしまい、仕方なく、律は空いている人を探した。


 すると、ちょうど一人だけ空いているのがわかった。

 が、相手が相手だけにどうしても躊躇われた。


(小杜さんか……)


 一瞬教師に相手をしてもらおうかとも考えたが、彼女をあえて省いているようにも感じられ、それはそれで後味の悪さのようなものを感じてしまう。

 だから、なんだか気乗りしないが、


「……小杜さん、よかったらペアを組まない?」


 と、断られる覚悟で、窓の外を眺めている妃華に恐る恐る話しかけてみた。


 妃華は律のほうに顔を向けた。

 すると、不思議そうに、涼し気な目で律の目を見つめてきた。

 長い睫毛の下の瞳は、間近で見ると宝石のような輝きがあった。


 話しかけておきながら、律は頬を赤くした。思わず彼女の瞳に見入ってしまった気恥ずかしさである。


「……私と?」

「うん。ダメかな?」


 若干の気まずい時間が流れたあと、妃華は静かにコクンと頷いた。


「……いいよ、べつに」


 気だるそうな言い方だったが、なんとかペアを組んでくれることになった。律はほっとしながら、妃華の正面の席に座った。


 ただ、彼女を真正面に捉えるのが気まずくて、律は右の横顔を見せるように、椅子に横向きで座っておいた。


「それじゃあ最初は俺から——」

「今朝」

「え? ……ケサ?」


 ——今、なんと言ったのだろうか?

 律が戸惑っていると、再び妃華が口を開く。


「今朝、滝沢くんがチャリに乗ってるの、見た」

「……あ、そう?」

「チャリ通だったの?」

「まあね……」

「家、遠くない?」

「家から四十分くらいだから、べつに……」


 だからなんなのか? この会話になんの意味があるのか?

 律は少し考えてみたが、妃華が口にした先にあるものが読めない。ただまあ、向こうもこちらに気づいていたことはわかった。


「俺も小杜さんを見たよ」

「……そのこと、誰にも話してない?」


 急に妃華の表情が強張ったので、律は焦った。


「え? ああ、えっと……拓海には朝見かけたってことは話したかな……?」

「それ以外のことは?」

「え? いや、べつに……駅の反対方向へ行ったってことくらい……」

「……そう」


 妃華はもとの無表情になり、手元の教科書をゆっくりと持ち上げた。

 ——なにか、人に話したらまずいことでもあるのだろうか?

 律が次の言葉を待っていたら、


「……読まないの?」


 と、急に訊ねられた。律は一瞬「え?」と戸惑って、今が授業中だということをようやく思い出した。


「ああ、うん……」


 律も教科書に目を落とした。


(なんだ、今の……)


 普段の朱音以上によくわからない会話の流れだった。話すトーンは一定なのに、話題が切り替わるのが早いと言うべきなのか……とりあえず、律の苦手なタイプの話し方ではあった。

 なんだか腑に落ちないまま、律は教科書を読み始めたのだが——


「……そこ、『l』と『r』の発音が違う」

「あ、ごめん……えっと、じゃあもう一回——」


 指摘されて、律は慌てて言い直す。


「——今のはどうかな?」

「さっきよりはいい」

「そっか、ありがとう。なら続けるね?」

「………………」


 本当に、よくわからない人だ。遅刻したり、サボったり、良くない噂もあったりで、それなのに『l』と『r』の発音を気にするのか。掴みどころのない人だが、多少なりとも真面目なところもあるらしい。


 交代すると、律はすぐに驚かされた。妃華は英語を話せるらしい。世辞ではなく、まるでネイティブのような見事な発音で、流暢に……それもイギリス英語の発音だった。『can』の発音を「キャン」ではなく「カン」、『fast』の発音を「ファスト」ではなく「ファースト」と発音する感じで、意外と聴きやすかった。


 律は唖然としながらも、妃華の涼しげな目元を盗み見た。蝶が羽を畳むように、長く揃った睫毛がときおり伏せる。やはり彼女の目は遠目で見ているよりも大きく、そして綺麗な瞳をしていた。


 おまけに、きめ細かい白い肌はシミひとつ見当たらず、細い首筋に黒いホクロがあるのみで、とても綺麗な子だと律は思った。


 ふと妃華は教科書から視線を離して、律の顔を見た。


「あのさ……」

「なに?」

「あんまりジロジロと見られると恥ずかしい」

「あ、ごめん……」


 律は、以前姉に注意されたことを思い出した。

 女の子は視線に敏感なのだと。


(しまった、さすがにキモがられたかな……)


 妃華が教科書を読み終えると、妃華は何事もなかったかのように教科書を机の上に置いた。


「それじゃあ会話してみよっか」

「えっと……」

「どうしたの?」

「いや、なんていうか……」

「……? なに?」

「ジロジロ見たのは、驚いたからで……」

「なにに?」

「だから、その……発音が綺麗だったから……」


 なんで言い訳しているんだろうなと律は思いながら、気まずそうに首の後ろをさする。すると妃華がおもむろに口を開いた。


「……昔、英会話スクール通ってたから」

「へ、へぇ〜、そうなんだ?」

「イギリス人の先生だったから、発音もそのときのまま」

「あ、えっと……聞き取りやすかったよ?」

「よく言われる」

「あ、そう……」


 なんだかぎこちなくなる。初めて話した相手だからというのもあるが、それ以上に、会話のテンポというか、なんというか——。

 律は気まずい思いをしながらも、なんとか笑顔をつくった。


「それじゃあ、今度は会話する感じで……」

「わかった」


 英会話開始——とはいえ、ただ教科書を交互に読み合うだけ。それなのに律は妃華に合わせて読むのに必死だった。片や完璧とも思えるイギリス英語、片やジャパニーズ・カタカナイングリッシュといった感じで、圧倒的なスピーキングの差を見せつけられた気がした。


 律は必死に追いつこうと努力するものの、なんだか気恥ずかしさも相まって、次第に声が小さくなっていく。


「——滝沢くん」

「え……?」

「スピードは私に合わせなくていいから、ゆっくり、ハッキリ、アクセントを意識して」

「わ、わかった……」


 律は、あれ? と思った。

 いや、もっと前にその違和感に気づくべきだったのかもしれない。


(俺、小杜さんに名前を覚えられてたんだ……)


 チャリ通のくだりから十分以上経過していて、律は初めてそのことに気づいた。


 そうして、逆に、どうして名前を知っているんだろうと思った。自分はそんなに目立つようなタイプでもない。いわばモブ……朱音や束彩、拓海に比べれば、取り立ててなんの影響力もない一人のモブだ。それなのに、小杜妃華に名前を覚えられていたんだと思うと、なんだか不思議な気分にもなる。


 するとそこに、英語担当の女性教師が回ってきた。テストをすると言うので、律と妃華は練習していたところを教科書を見ずに口に出す。

 果たして、教師の評価は——


「うん、すごくいい! 一つアドバイスをすると、会話だからね、普通に友達同士で話すみたいにしてみて? 大事なのはコミュニケーションだからね?」


 ——と、最後に痛いところをつかれてしまった。


 でもまあ、こんなものだ——律はそう思った。

 そもそも会話の内容はあらかじめ決まっている。生徒はそれをただ覚えて口に出し合うだけという授業だ。教師に求められているレベルには到達していないものの、及第点をもらえたらそれでいい——


「……普通に、友達同士で話すみたい、か」


 妃華がボソボソと言ったので、律は思わず「え?」とそちらを見る。


「滝沢くんは、友達ってなんだと思う?」

「え? えっとー……」


 簡単そうな質問のようで、答えるのはなかなか難しい。

 友達の定義論について語り合えばいいのだろうか?


 漠然と、いつの間にかそばにいて、仲良くなって他愛ないことを話す仲……くらいだろうか。どこかに一緒に遊びに行く仲、あるいは家に行ったり来たりする仲、とでも話せばいいのだろうか——訊かれると、これといった答えが見つからない。


 その瞬間、隣からクスッと笑う声がした。

 さっきまでほとんど無表情だった人が、可笑しそうに笑っている。それがなんだか驚きだった。そして、笑った顔がさらに綺麗に見えた。


「そんなに真面目に考えなくてもいいよ」

「え……ああ、うん」


 なにか、笑われるようなことを言ったりやったりしたのだろうか?

 律は真っ赤になりながら目をそらす。


「難しいテーマだし、私もわからない。でも……」

「……? でも、なに?」

「滝沢くんの友達は、滝沢くんが友達で良かったと思うべきだと思う」

「え? なんで?」

「……滝沢くんが、真剣に他人のことを考えられる人だから」


 そう言ったあと、妃華の表情が少し曇ったのが、律はなんだか気になった。

 そのとき、教師が終了の合図を出した。


 律は自分の席に戻りながら、妃華の綺麗な笑顔と、最後に見せた曇った表情の意味を理解しようとしたが、答えにたどり着くことはなかった。

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