(3)

「バースデーシールください!」

 理奈はカストーディアルキャストの男性に声をかけて、男性キャストは「ええ、もちろんいいですよ!」と笑顔で応じてくれた。そしてポーチの中から円型のシールとサインペンを取り出した。

「お名前を聞いてもいいですか、プリンセス」

「うふふ、理奈! 今日で9才!」

 男性キャストはさらさらとシールに文字を書き入れ、「どうぞ、プリンセス・リナ。お誕生日おめでとうございます!」と笑顔で言いながら、ミッキーの絵がプリントされたシールを手渡した。そこにはキャストの手書き文字で「ハッピーバースデー! プリンセス リナ 9才」と書かれていた。さらに即興で描いた理奈の似顔絵も添えられていて、理奈は非常にご満悦だった。理奈がお礼を言うと、男性キャストは従者のように深々とお辞儀をして、手を振りながら去って行った。

 誕生日に入園すると、ディズニーキャストから特別なシールをもらえると知ったのは5年ほど前のことで、それ以来理奈は必ずバースデーシールをもらうことをディズニーランドを訪れる目的のひとつにしていた。理奈はさっそくそのシールを左胸のところに付けて、今日は自分の誕生日であることを見る人にもわかるようにした。そうすれば、そのシールを見たキャストから「おめでとうございます」の言葉がもらえることが多くなる。

「今年もちゃんともらえたな理奈、よかったな」

 信二が頭を撫でながら言うと、理奈は「えへへ」と笑って返した。


 ディズニーランドは〝夢の国〟の別名を持つ特別な場所だが、そこへ訪れる人々がすべて善人というわけではない。〝困ったちゃん〟もやって来るところだ。

「大鳥さん、取れますか?」

 上司が無線で呼びかけて、「はい取れます」と杏子は返した。

「アリスのティーパーティー前でポップコーンをこぼしたゲストさんがいるとのことです。お願い出来ますか?」

 それはファンタジーランドにある遊具のひとつで、要は回転するコーヒーカップのことだ。ちょうどファンタジーランドにいた杏子は「わかりました」と告げて通信を終えた。

 ゴミ箱と掃除用具入れが兼用となっている二輪カートを押しながら現場へ向かうと、どうやらはポップコーンだけではなかったようだった。十歳前後の男の子がうずくまり、両親に介抱されていた。その周囲には『モンスターズインク』のキャラであるマイクを象ったポップコーンバケットからぶちまけられたポップコーンの粒と共に、水溜まりように溜まっていた吐瀉物もあった。杏子はすぐ紙ナプキンで吐瀉物を隠し、トイブルームと呼ばれている箒でポップコーンをチリトリで回収し、吐瀉物の処理も始めた。本来吐瀉物処理は複数名のキャストで行うのがルールだったが、杏子は手慣れていたので一人で済ませられた。その間に男の子は父親と一緒にトイレへと向かった。おそらく遊具に乗って気持ち悪くなってしまったのだろう。アトラクションを体験した後、体の弱い子供はたまに吐いてしまうことがあった。ディズニーランドのアトラクションはさほど激しいものはないのだが、それでも吐き気を催す人はいる。

「あのう……」

 掃除を終えたところを見計らって、母親が声をかけてきた。てっきりお礼を言われるものだと杏子は思っていたが、母親は躊躇ためらうことなくこう言った。

「ポップコーンの補充をお願いしたいんですけど」

 え? いきなりそれを言う? さすがに杏子も呆気に取られた。たしかにポップコーンやアイスを不意に落としてしまった場合、キャストに声をかければ補充カードを渡してくれる。それはピクシーダストと呼ばれる紙で、名前は〝妖精の粉〟という意味だ。そこにポップコーンの味を記名して、売店に持っていけば無償でポップコーンがバケットに補充されるサービスだ。

 杏子は作り笑いをしながら、その〝妖精の粉〟を母親に渡した。そして母親は一言も礼を言わず、夫と息子のいる方へ行ってしまった。

 クソ野郎。

 杏子は心の中で、母親に対し軽蔑の言葉を投げかけた。アンタはろくな母親じゃないわよと付け加えて。

「ちょっと、ゴミ屋さーん」

 一難去ってまた一難、間髪入れずに今度は中年女性が声をかけてきた。その女性には見覚えがあった。月に一度のペースで来援するヘビーユーザーで、おそらく年間パスポートも持っているのだろう。いつも赤いスカートを穿いていることから〝赤スカートおばさん〟という名前でキャストの間では有名人だった。その割に人気はない。口と態度が悪いからだ。

「これ、捨てといてちょうだい」

 そう言って地面にポイっと捨てたのは、チュロスの包み紙だった。ゴミ箱であるトラッシュカンはあちこちに設置してあるのに、〝赤スカートおばさん〟はわざとカストーディアルキャストに仕事を与えるのがいつものことだった。まるでシンデレラをいじめる継母のようだ。今日はわざわざゴミ箱兼用の二輪カートを押しているのに……杏子はまた作り笑いをしながら、包み紙を箒とチリトリを使って回収した。〝赤スカートおばさん〟は、これまた「ありがとう」の一言もなく去って行った。

 クソババア。

 マスクを着けている口は、無言ではあったがそう言葉を発する動きをしていた。まぁいい、どうせこのババアも後で恐怖に怯えることになるのだから。

「ジョージ、あの子は今どこ?」

 無線機のチャンネルを合わせて、セキュリティビルにいるパートナーに訊いた。

「今はイッツ・ア・スモールワールドだ」

「わかった。そこを出てきたら、チャンスを狙うわ」

「たぶんその後はトゥーンタウンに向かうだろう。位置的にも近いから、可能性は高い。狙うなら、両エリアの境界線あたりがいいと思う」

「そうね、そうするわ。またねジョージ」

 通信を終えた杏子は、ファンタジーランドとトゥーンタウンの境界線あたりで待機することにした。あとはその予想が上手く当たることを、二人は願った。


 田中は、意識を取り戻した。ぼんやりと視界が開けてくると、自分が今どういう状態になっているのか、やっと把握できた。

 口にはタオルがはまされ、手足は結束バンドで縛られ、そして体は椅子と一体化するようにガムテープで巻かれていた。完全なる拘束だった。

 どういうことだ? 田中はまず、率直にそう思った。なぜ自分がこんな状態にあるのか。そして同僚の野澤は、なぜ平然とモニターに向き合っているのか。最後の記憶は……そうだ、野澤に後ろから布を口と鼻に押し当てられて、気を失った。犯人は、野澤だ。

 声をあげようとしたが、田中はふと、野澤の前職が何かを思い出した。警備員としては申し分ない経歴だったから、よく覚えている。野澤の屈強な体つきも、その経歴の名残りともいえた。

 もし抵抗しようものなら、自分はあっけなく殺される。田中は直感でそう思った。野澤の穏やかな人柄はよく知っていたが、それが仮の姿だとしたら、どうする?

 目的は不明だったが、田中は息を殺して、野澤の姿を見つめることしかできなかった。幸い野澤はまだ、田中の様子に気づいていない。

 死にたくない、田中はそう思った。まだ三十で童貞のまま、死にたくなかった。

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