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「間もなく開園となります。ゲストの皆様にお願いです、どうか急がずにご入園していただくことを心よりお願いいたします」

 開園3分前となって、SVの池田はゲート前に集結している大勢の客を前にそうお願いをした。SVとはスーパーバイザーの略で、ディズニーリゾートの各部署で設置されている現場監督者のことだった。池田は3年前に東京の女子大学を卒業してオリエンタルランドに入社し、昨年からSV職に就いていた。ディズニー関係の仕事に就くのは、子供の頃からの夢だった。絵を描くのが好きだったのでアニメーターを志した時期もあったが、学生時代にアルバイトでキャストとして働いた経験もあり、ディズニーリゾートへの就職を決めた。夢と現実には必ず乖離かいりがあるものだったが、池田は特に不満も不足も感じなかった。自分もディズニーリゾートの一部なのだということは、何よりも代えがたい誇りだった。

 そして今は、メインエントランス管理部門のSVとなり、入退園者の対応を取り仕切っている。

 池田はミニーの絵が描かれた腕時計を見た。オリエンタルランドに就職が決まった際に、両親がプレゼントしてくれた宝物。針は開園2分前を差していた。


 4年間カストーディアルキャストとして働いてきた杏子にとって、未だにわからないことがあった。

 それは先ほどSVが注意喚起したように、入園開始と同時にゲートを疾走するゲストたちがいることだ。別にディズニーランドは逃げたりしないのに、彼らは一目散に走りだす。徒競走か福男選びのように。しかもいい大人がそんなことをしているから、滑稽としか言いようがなかった。たまに足をつまづかせて転ぶ人もいて、杏子は正直「自業自得よあなた」とほくそ笑んだ。

 入園ゲートの中は、杏子がいま立っているワールドバザールの入り口付近からは人の顔まではよく見えないが、群衆がいるのはわかる。どうせまた走るのだろう。何人が転ぶだろうか、ふとそんなことを考えた。

 事が起これば、今度はゲートを出ようとする人であふれるだろうか。きっとそうだろうなと杏子は思った。

 杏子は、ディズニーの要素がまるでないCasioの腕時計をチラッと見た。開園はあと1分を切っていた。


「お待たせいたしました、ディズニーランド開園のお時間です!」

 池田の心から明るい声と共に、東京ディズニーランドは午前9時に開園した。

 ゲートを通過したゲストたちは、やはり走り出した。目的のアトラクションにいち早く辿り着きたいため、現実世界から夢の国へ行きたいがため、後はもう群集心理が作用した点もある。見かねた池田は「どうかゆっくりとお進みください!」とアナウンスで呼びかけるが、誰も気に留める様子はなく、競走馬のごとくゲストたちはパーク内を疾走した。そして案の定、転ぶ者がいた。それは六歳くらいの男の子で、池田は駆けつけようかと思ったが、すぐに母親と思しき女性に介抱されて、その子は泣きながらも母親と手をつないで園内に歩みを進めた。

「危ないから、ひとまずはじに寄ろうか」

 前列者たちの様子を見ていた信二は、ゲートを通過するとひとまず愛奈と理奈と共に群衆から離れて、歩きながらワールドバザールに向かった。

「毎回思うけど、何であんなに走るのかしらね」

「さぁ、わかんないな」

「そんなの決まってるよ、みんなディズニーが大好きなんだよ」

 信二と愛奈は、理奈の答えに納得した。そうだ、ここにはディズニー作品ファンが大勢やって来る聖地のような場所、大人でも童心を取り戻せる風情を秘めた魔法の国なのだ。

「さすが理奈は詳しいな、ディズニー博士だ」

「えーやだそんなの。プリンセスって呼んで」

 父に対し理奈は不服そうに訂正を求めた。博士だと男の子っぽいイメージだからかなと思った信二は、あらためて「すいませんでした、プリンセス・リナ」と釈明すると、すっかりエルサになりきった理奈は「ええ、よろしくってよ」と機嫌を良くした。それを横で見ていた愛奈はただただ微笑んでいた。


 ああ、いたいた。あの一家がいたわ。杏子は細田信二を含む三人の姿を見定めた。

 あらまぁ幸せそうなこと、羨ましいかぎりだわ。しかも偉いわね、ゲストたちの猛レースから外れて端から歩いて来るわ。それが利口よ、転ぶのは大人でも痛いんだし。というか走らない方が普通なんだけどね。杏子はマスクの下で笑みを浮かべながら、段々とこちらに近づいて来る三人の姿を見つつ、来園者たちに会釈をすることも忘れなかった。まだ自分はここのキャストなのだから、しっかり対応はしないとね。

 やがて、あの三人が距離数メートルのところまで近づいてきた。

「ようこそ」

 杏子が努めて声を弾ませながら呼びかけると、理奈は気づいて「ありがとう!」と笑顔をいっぱいにして返してくれた。その保護者二人も、こちらに笑顔で会釈をした。そのまま三人は、通り過ぎて行った。ワールドバザールの中へと。

「……また会いましょうね」

 杏子はその背中を見つめながら、低い声で呟いた。


 野澤は、園内各所にセットしたモノとパソコンのアプリが正常にリンクしているかをあらためて確認した。すべて問題なし。あとはパソコンで操作すれば、いつでも発動できる。その瞬間、夢の国は現実世界へと引きずり戻される。園内で心ゆくまでディズニーの世界に浸っている人々にしたら、最悪この上ないことだろう。

 だがもう、野澤は引き返す気などなかった。すでに同僚の田中警備員を拘束している以上、自分はすでに刑罰の対象となっている。ならばもう、どこまで堕ちても構うことはなかった。

「今、どこにいる?」

 杏子が無線機で訊ねてきた。

「シンデレラ城の中だ」

 標的のことは、ずっと監視カメラを通して捕捉している。ワールドバザールを抜けて、ウォルト・ディズニー像の前で記念撮影をした後、三人はパークのシンボルであるシンデレラ城に向かい、そこで外国出身のキャストが演じるシンデレラと謁見した。シンデレラがドレスをつまんで挨拶をすると、あの女の子も同じ仕草をして、プリンセス同士の挨拶が叶ったことにとても嬉しそうだった。

 あの子にも、あんな時期があったな。野澤は標的の女児を見て、今は亡き娘のことを思い出した。あの子が小さい頃にも、一緒にディズニーランドを訪れたこともあった。仕事が忙しく、なかなか頻繁には来られなかったが、訪れた際のことはつぶさに記憶している。あの子は終始、笑っていたことを。

「……移動した、ファンタジーランドに向かってる」

 無線で杏子に伝えると、自分もそちらに向かうと返答があった。

「また何か動きがあったら教えて。じゃあまたね、ジョージ」

 下の名前をいつまでもニックネームのように呼んでくれる杏子に、野澤は思わず顔をほころばせた。たとえ戸籍上は他人になっても、いつまでもパートナーとして側にいてくれていることが、彼には嬉しかった。

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