霧(土方+相馬)

 ほんの少し先さえも、窺うことのできない白い世界。

 自分と相手とを遮る霧の向こうに、ぼんやりと映る後ろ姿。

 追いかけようと思うのに、いくら求めても追い付けなくて。距離感さえも、掴めなくて。

 もしかしたら、この距離を縮める事は絶対に出来ないのではないかと、立ち止まってしまいそうになる。


 けれど、そんな気持とは裏腹に、諦めきれない心に導かれるように、疲れた身体は足を動かし続け、本当に立ち止まってしまう事もできない。

 幻でもいい。

 ただただ、遠くて近いその人を、追いかけ続ける。


 京へ上ると決めた時から、とっくに覚悟なんてできていたはずだった。

 その決意は今でも変わらないし、その事は確実なのだけれど。

 それは自分の身にだけ降りかかるべきもののはずで、まさか逆になる事があるなんて、思いもしなかった。


 彼の為の、剣となり盾となる。

 ただそれだけを願って、ここまで走って来たのに。

 最期の時、護られたのは自分の方だなんて、洒落にもならない。


 泣き出しそうな自分に向けられた、別れの顔はあまりにも穏やかな笑顔で、彼の決意を揺るがすことなんて、出来るはずもないことを思い知らされた。

 自分が、あの顔をした彼の頼みを断れた事などなかったのだ。

 たとえそれが、どんなに受け入れ難いものであったとしても。



*****



「土方さん、大丈夫ですか?」

『歳、大丈夫か?』


 そっと誰にも気付かれないように、注意を払ってかけてくれたらしい耳元に響く言葉が、ふいに今まさに霧の中へ消えて行こうとした、近藤さんの優しい声と重なる。

 どこが現実かもわからなくなりかけていた感覚が、その声をきっかけにして、一気に現実に押し戻された。


「……大丈夫だ」


 何事もないように頷き返し、現実を見る。

 そこにあるのは、近藤さんとは似ても似つかない、姿と声。

 心配そうな表情も見せず、本当に何もないかのように、自然に話しかけるように接してくれた配慮を嬉しく思いながら、どこか彼が近藤さんと重なって見える事に、納得もした。


「そう、ですか……」


 何か言葉を飲み込んだような気配は察したが、どうしても「何事もない」と安心させてやれる言葉を紡ぐ事は出来ず、ただ無言で歩き続けるしか出来ない。

 現実という世界で進むその足取りは、幻と消えていく背中を追うそれよりも、なんと重い事だろう。


(近藤さんが、いない)


 自分の傍にいないというだけなら、耐えられる。

 でも、もういないのだ。この世界の、どこにも。

 あの広くて優しい背中を、二度と見ることはできない。

 そうきっと、自分のせいで。


 たった一言答えただけで、黙り込んでしまった自分に、それでも付かず離れず傍に居て、ただ黙ってついて来てくれる。

 言葉少なに、それでもどこか安心感を与えてくれる。

 先頭に立って引っ張ってくれる様でいて、実は後ろから見守ってくれている。


 それもまた、少しだけ近藤さんの存在に似ていて、重たいこの現実の中にもう少しだけ、留まっていられる気がした。

 まだ年若いこの隊士は、いくら比べようとしても外見的には、近藤さんとは全く似てもにつかない。


 だから、重ねようと思っている訳でもないのに、ふとした瞬間に重なってしまうのは、きっと自分の弱さのせいだけじゃない。

 ただ真っ直ぐに前を見つめる、純粋で強い眼差しのせいだ。


 自分には決して持ち得ないもの。人の心をも動かす、大将の力。 

 だから、決めた。彼が嫌だと言えば、引く用意だってもちろんある。

 断って欲しいと、自分のために生きてほしいと、思っている自分もいた。

 けれど、受けてくれる確信も、どこかにある。


 それは、とても辛くて厳しい道になるだろう。

 誰も引き受けたくはないであろう、すべてを終わらせる役目。最後の一人になるという、大きな負担。

 できることなら、自分がやるべきものだった。

 本当は自分が、その役を担えれば良かった。


 けれど、自分では駄目なのだ。

 大将の器は、望んで手に入るものではないから。

 武士らしい真っ直ぐな姿。信じた道を、貫く潔さ。

 受け継ぐ者として、彼が一番相応しい。


 我儘だと、無責任だと罵られても、最初から最後まで自分がいたいと思えるのは、近藤さんの傍だけだったから。

 近藤さんがいないこの世界で、ずっと生きていく覚悟は、どうしてもつかなかった。

 死にたいわけじゃない、だけど「生きて」いける、とも思えない。


(終焉の地は、近い)


 これから先という未来は、彼に託そうと思う。

 仕方のない奴だと、呆れるかな。ずるい奴だと、怒るかな。

 いや、本当はわかってる。

 近藤さんがどんな顔をして、迎えてくれるかなんて。


(呆れたり、怒ったり、悲しんだり、泣きそうだったり。そんな複雑な気持ちをたくさん抱えたまま、それでも笑って、手を差し伸べてくれるだろ?)


 大きな胸を広げて、最後には必ず俺を受け入れてくれるんだ。

 そう、いつだって。

 だから言うよ。非道で、冷酷で、祈りを込めた、この言葉を。


「相馬」

「はい」

「この作戦を実行する前に、頼みたい事がある」

「……はい」


 振り返って呼びかけた言葉に、揺るがない強い眼差しがまっすぐに見つめ返され、澱みのない頷きが返される。

 輝く光のような彼の後ろには、自分が先の見えない霧の中、どんなに追いかけても追いつかなかった近藤さんが、微笑みながら立っているような気がした。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る