幸福の鳥(斎藤+沖田)

 はらはらと舞い散る、花弁。

 一本の巨大な桜木の下に佇むその姿が、まるでそれらに愛されるが故、浮世から姿を隠されてしまおうとでもする様に、無数に舞う儚く淡い色に風と共に包まれ、そのまま消えゆく。


 神隠しの様なそんな出来事が、目の前で起きたとしても、きっと疑問を持つ事もなく、ただ事実だけを受け入れて、信じてしまえる。

 そう思えるような、一瞬だった。


「…………っ」


 「沖田さん」と、名前を呼んだつもりだった。


(またそんな所で、油を売って……早く屯所に戻るべきだろう。抵抗しても無駄だし、そっちの理屈を聞く気はない。副長がお呼びだ、さぁ早く)


 そう、続けるはずだった。

 定型文にでもなってしまった、不本意にも言い慣れた言葉。

 それは少しの躊躇も遠慮もなく、いつものようにごく簡単に発せられるはずのもの。


 だが、実際は声が掠れて言葉は風に乗る事さえない。

 自分は確かに、彼を呼びに来たはずだったというのに。


 そんな単純な事も果たせず、ましてやその場を動く事も出来ず。

 何かに取りつかれてしまったかのように、ただ真っ直ぐ桜の女神に愛された男が行く先を、見守る事しかできない。


 自分は、どちらかと言えば現実主義だと思っていた。

 人の生死に近い場所にいるからこそ、見えない何かに取り込まれてしまわない様に、そうであるべきだと注意さえ払って来た。

 だからこそ、動けない理由が、どうしてもわからない。

 

(何故、足を止めているのだろうか?)


 自分に下された使命は、彼をこのまま何処か遠くへ行かせてしまう事ではない。

 むしろ何処かへ行こうとするのならば、それを引き留め連れ戻す事こそが、自分の役目である。

 毎回「何故自分が……」と思いながらも、間違いなく今日この時も、そうするつもりだった。


 僅かでも殺気を感じられれば、必ず自分の身体は動くはずだ。

 そう、無意識の内にでも。

 それは間違いないと、断言できる。


 それに何より本人が、危険にさらされている事に気付きもせず、ただ佇んでいるだけなどという事態は、ありえない。

 それも、断言できる事実。

 だから今の所、彼に危害が加わっている訳ではないのだろうとは、思う。


 「幻想的で美しい」等と、呑気に言っていられれば、それでも良かったのかもしれない。

 でも、そうして何もせずただ見つめていたら、本当に彼はどこかへ消えてしまいそうな危うさが、どこかにある。


 危険な事など何もない、そうわかっているのに、こんなにも胸が騒ぐのは、あまりにもこの光景が、現実味を帯びていないからかもしれない。

 だけど、それでも。いや、だからこそ。

 どうにかしないといけない、「止めなければ」と、そう強く思った。


 彼をこのまま、見つけ出す事の困難な「どこか遠く」などという、曖昧な場所へ行かせてしまう訳にはいかない。

 何より彼がこの先、局長と副長の傍にいない、という事態はあり得ないのだ。

 そうなってしまったら、きっと均衡が崩れる。


 仲間内の人間関係が、という規模の小さいものではない。

 着実に大きくなって来ている、新選組という組織自体の、何かが壊れる。

 それ位、彼の存在意義は大きい。


 決して自分の事を卑下する訳ではないが、自分ではその役目はとても担えない。

 昔から付き合いのある仲間だとしても、身分の高い頼れる偉い殿様にも、きっと他の誰にも、代わりには絶対になれはしない。


(絶対に、引きずり戻してやる。どんなに嫌だと言っても、連れ帰る)


 組織がなくなると、困る。そんな、自分勝手な理由ではない。

 実際例えば、新選組という居場所がなくなったとして、確かに行き先を見失って一時期は困るかもしれない。

 だが自分は、確固たる主義主張を掲げたい、というような思想があるわけでもなければ、同志を集めて活動したい理由があるわけでもなかった。


 今、この場所よりも居心地が良い所を探すのは、確かに困難だろう。

 けれど、きっとまた新しい居場所は、どこかに見つけられるに違いない。

 だからそう思う理由はきっと、彼が本気で「局長や副長の傍から離れたい」そんな台詞を吐く事は、例え何があったとしても、生涯ないだろうとわかっているからだ。


 性格は正反対だけれど、相容れる事はきっとないけれど、お互いを理解していない訳じゃない。

 逆に、恐らく局長や副長よりも自分の方が、彼の隠している心の奥底に、近い場所にいるのではないかとさえ思う。


 その上で、引きずり戻すことが最善だと判断した。

 自分の自由にならない身体を、叱りつける様にぐっと力を込める。

 見えない敵をどう斬るのかなど考える暇もなく、ただこの空間を現実のものに変えるために。

 腰に佩いている、刀の柄に手を掛けた。


 ────動く。


 一度、感覚を取り戻してしまえば、今までどうして微動だに出来なかったのか、疑問に思ってしまえる程、滑らかに身体は反応した。

 躊躇いなく、刀を一閃する。


 見えない何かでも、桜の大木でもない。

 花弁に包まれ佇む、「沖田総司」という名の、彼だけに向かって。


 ガキィィィンと、鉄のぶつかり合う音が、辺りに響き渡った。

 殺伐としたその音に、何処か安心感が生まれ、そこで初めてこの空間には、何の音も存在しなかった事に気付く。


 鳥の声も、風の音も、自分の足音さえも。ここには、無かったのだ。

 完全なる無音の世界を切り裂くように、彼に降り注ぐ花弁は完全に二分される。


 穏やかにただ舞い落ちる自然の姿は失われたが、その向こう側にいる彼には、もちろん傷一つない。

 目の前にまで間合いを詰められ、やっとその存在に気付いたかのように、珍しく目を丸くして、驚いた顔をしてはいたが。


「……斎藤さん? どうしたんですか、急に」

「沖田さんを、呼びに来た」

「だったら、普通に声を掛けて下さいよ。これ、私じゃなかったら死んじゃってますよ」

「沖田さんだとわかってやった事だから、問題ない」


 「声を掛けられなかったんだ」と、そう事実を述べても、信じてもらえないだろう。

 先程までの異様な空間自体には、どうやら気付いていないような雰囲気だ。


 いつもの通りならば、自分が声など掛けなくても、どんなに気配を殺して近づいても、簡単に向こうから見つけ出してくるはずなのに。

 鍔迫り合いの距離まで近づかせ、驚いたような顔をした事こそが、それを如実に示している。


 もしかしたら「あぁ、そうなんですか」と、この男ならいとも簡単に、すべてを飲み込んでしまうのかもしれない。

 どちらにしろ、ただ笑って終わりにしてしまう結末は、変わらないだろう。


 だからいつもの如く、真実を告げる言葉を紡ぐ代わりに、刀を退くだけに止める。

 そして一気に、世界は通常を取り戻した。

 まるで今までの異常な空間など、なかったかの様に。


「まぁ、いいですけど」


 「実際、私は斬られていませんしね」と付け加えながら、ほんの少し首を傾げる。

 納得したのかしていないのか曖昧な顔をしながら、彼は自分に習うように、刀を鞘に戻した。


 時々、その背には翼がついているのではないかと思う。

 ふわふわと、好きに飛びまわっているのかと思えば、傍にいて欲しい時にはすぐそこにいて、緊張も凍った心も溶かす様に、柔らかく囀る。


 見えない世界が見えていて、彼はその幸せの地を知っているのに、そこへ一人羽ばたいて行く事はない。

 自由を知るが故に、不自由を選び。決して自分のために、飛ぶ事をしない。


(誰かの為の、幸福の鳥)


 「憐れだ」等と、簡単に言う事はできない。

 何故ならそれは、本人だけが決める事の出来るものだと思うから。

 そしてきっと、本人はそう思っていない事を、知っているから。


 むしろ彼の信じる誰かのために、暗闇に向かって羽ばたく事すら厭わないだろう。

 だから今、自分の掛けるべき言葉は、ただ一つしかなかった。

 いつも通りの、いつもの言葉。それだけで、いい。


「沖田さん、副長がお呼びです。早くお戻りを」





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