夏・終章 理解できないものこそが真に愛すべきものである

「ありがとうございましたー」

 いかにも要領の悪そうな初老の男の店員がにこやかに言うのに、「ども」と応え、コンビニを後にした。

 冷房の利いた店内との落差でひどく蒸し暑く感じる。夏夜かやのしっとりとした黒の空には、満月を過ぎて少し縁の欠けた居待月いまちづきが浮かんでいる。

 自転車のかごにレジ袋を入れた。だらしなく歪んだ袋の口からは、割高の避妊具、俺用の抹茶ラテ、それからほうじ茶ラテが見える。家路に就く。

 今日は両親が共に夜勤のため彼女が泊まりに来ているのだが、ほうじ茶ラテはその彼女用だ。ここで言う〈彼女〉とは、三人称の人代名詞としてのそれではなく愛人や恋人のほうだ──正確さにこだわるならば、今この瞬間においては〈彼女〉という言い方はやや不適切なのだが、ひとまずそれは措く。

 一応は本命彼女という位置付けのその少女との出会いは小学四年生の五月だった。カリフォルニア州の小学校から転校してきた彼女は、アメリカ人の父親とこの街田市出身の日本人の母親を持つ、つまりは米日のハーフなのだが、金髪碧眼きんぱつへきがんで見た目は北欧人に近い。

 転校当初の彼女は、日本語の発話が苦手なことに加え、元々のおとなしめな性格と臨機応変に欠ける気質もあって自己紹介で盛大にミスって笑われたり、外見至上主義ルッキズムが幅を利かせる日本あるいは人間社会のおかしみゆえに見世物小屋の奇形珍獣を見るかのような物珍しげな目を向けられたり、カーストトップのメスガキ──春風のことなんだが──に目をつけられていじめられたりと、恵まれた人間しかいないぬるま湯でならかろうじて不幸ぶれる程度のささやかな苦労をしていたが、今はそうでもない。小学生当時の春風グループのぶりっ子担当だった出雲と共に、机にかじりついて勉強しなければ偏差値を上げられない鈍物どんぶつどもが群がる進学校であるところの星空高校に進学し、楽しくやっているらしい。

 基本的には悪くない彼女で不満らしい不満はない。従順で金離れも良く、知識はあるから会話の際の制約が少なく、すなわち平易な表現に変換する手間を掛けなくてもスムーズに会話が成立するし、いくつになっても音痴のままで歌の才能はまったくこれっぽっちも一切合切存在しないが洋楽の話もできる。さらには、束縛も、そういう感情が弱いわけではないようだが、よそに比べたら全然強くない。キレると、TPOによっては口にした瞬間に殺されかねないような過激で下品極まりない放送禁止用語がバンバン飛び出すところも好感が持てる。

 だが、ちょっとこれどうなの、と思うところが一つだけある。それは──。



 特徴がないのが特徴の我が家に到着した。玄関の鍵を開け、入るとすぐに施錠し、ドアチェーンも掛けた。廊下を進み、洗面所で手洗いとうがいを済まし、リビングダイニングのドアを開けた。すると、

「にゃ」

 鈴なしの首輪・・・・・・を着けた黒猫のルナが寄ってきた。助けを求めるようでもあり、待ちわびていたようでさえあった。

 そして、もう一匹(?)のルナ、つまりは猫に成りきって鈴付きの首輪のみ・・・・・・・・を着用した人間のルナが、うれしそうに非人間的な声を発した。「にゃっ、にゃー!」

 俺の彼女、夜桜よざくらルナ・ティファニー──姓名ミドルネームの順だ──は特殊なプレイを好む。

 あれは高校受験が終わって少しした春の日だった。俺の部屋で俺は抹茶アイスを、ルナはチョコミントアイスを食べていた。その時、彼女が突然言ったのだ、「わたしを猫として飼ってほしい」と。

 意味がわからなかった。

 そんな伏線サインあったか? と混乱しながらも俺の脳細胞は記憶を確認した。が、やはりよくわからなかった。

 どういうことか尋ねると、ルナはその白い頬に含羞がんしゅうの桜色を浮かべ──恥じらうポイントもよくわからなかった──「ペットプレイっていうのがあってね」とその奇っ怪な行為への憧れを、酔っぱらってんのかというほど饒舌じょうぜつに語り出した。

 曰く、「夏目君にすべてを支配されたい」

 ディストピアかな?

 曰く、「食事も入浴も排泄はいせつも管理されたい」

 ≒献身的な介護。

 曰く、「飼い主としていっぱい意地悪してほしい」

 動物虐待を要求してくる彼女なんて斬新だなあ。

 曰く、「でも、ときどきはご褒美も欲しい」

 チュ~ルでいいか?

 曰く、「小学生のころから憧れていたの」

 イカれた憧憬はショーケースに入れて永遠に飾っておきなさい。

 曰く、「ルーちゃんが羨ましい。負けたくない」

 お前はなぜ猫と張り合おうとする?

 曰く、「自慢のペットになれるようがんばるから、ね、お願い」

 そういう問題ではない。

 その時の俺は、鏡で確認したわけではないが、宇宙猫顔になっていたはずだ。猫缶を開けたら中身がシュールストレミングだったような気分だった。

 当然初めは抵抗した。そんな訳わからん変態プレイしたくないんだけど、と食い下がった。てか、小学生のころからって何だよ、マジでマセガキのエロガキじゃねえか、普通にどん引きだよ、手を繋ぎたいけど勇気が出なくてもじもじしてたルナはどこ行ったんだよ、目を覚ましてくれ、と。

 しかし結局、ルナは猫になってしまった。

〈彼女〉という語がやや不適切だと述べたのはこのためだ。(彼女の摩訶不思議まかふしぎな世界においては)今のルナはあくまでもペットなのだ。恋人でもなければ、そもそも人ですらない。

 ──人の心とは、人とは、深淵しんえんのごときなり。

 よわい十五にして俺はそう悟った。

 と、まあそんなわけで俺の目の前には二匹のルナがいる。一人と一匹ではない。理解しがたく、そしてややこしいことこの上ないが、とにかくそういうことなのだ。

「留守番中はいい子にしてたか?」二匹の猫に俺は尋ねた。

「にゃぁん」とルナ。

「にゃぁん」とルナ。

 俺がソファーに座ると、右からはルナが、そして左からもルナがくっついてくる。両手を使ってそれぞれの顎をさすってやると、二匹とも幸せそうに目を細めた。ルナが、クルル、と喉を鳴らした。

 ルナは背中を、ルナは耳の付け根の辺りを撫でられるのが好きなので、次はそこをそれぞれ指先で弄ぶ。

「みゅぅぅ……」とかすれた声を出したのもルナなら、「ぅにゃにゃ」とささやくように鳴いたのもルナである。

 両手に花ならぬ両手に猫である──控えめに言って非常に怠い。忙しすぎ。一人──じゃなくて片方は猫にしては大きくて撫でる範囲が広いし注文も多いし、今も、「みゃんん」とか発して目配せしてきたが、何を伝えてえのかわかんねえよ、俺は少し鋭いだけの普通の人間でエスパーじゃねえんだぞ。言わなくてもわかってほしいっていう、いわゆる〈察してちゃん〉の進化種じゃねえかな、この変態。いや、ちげえな、ど変態だわ。若しくは、大変態。

 油断すると手の掛かるほうのルナに意識が集中してしまってもう一方への愛撫がおろそかになるのだが、そうするとそちらのルナが不機嫌になり、もっとちゃんと構え! というように、「みゃーお」と低い声で長く鳴いてくる。「みゃーお」こんなふうに。

 何という面倒くささであろうか──そういえば、昔、完全な人間だったころのルナが俺のことを〈やれやれ系ツンデレ〉と言っていたな、とふと思い出した。ので、

「ったく、やれやれだぜ」

 と芝居掛かった口調で無駄にかっこつけて言ってみた。ダサすぎる言葉だが、今の心情を的確に表してもいる。

「にゃっ、にゃー──ふふっ」とルナが失笑するように人間的な声を発した──はい、ギルティ。

「ん? 今、猫から聞こえてはいけない声がしたような……」白々しくもわざとらしく俺は言った。

「ぅみゃ?!」ルナは、え?! 狡くない? とばかりに顔をしかめたが、口元が緩みかけているのを隠しきれていない。

「お仕置きだな」俺が言うと、

「にゃん♡」ルナはうれしそうに鳴いた。

「……にゃー」この、あきれたような鳴き声は黒猫のルナのものだ。やれやれだにゃ、とか思っているのかもしれない。あるいは、みゃあた始みゃったよ、だろうか。

 それはそれとして、さて、ヤるか、と俺はおもむろにお仕置き兼ご褒美を開始した。

 ──にゃ♡ にゃ♡ にゃう~……っ、っ、にゃっ~~!! みゅ~♡ ……ウニャ?! ぅぅ……ミュ、ミャッー、ミュッ♡ ミュゥっ♡ ミュッッッ~~~!! うにゃ~……♡

 という具合に夜は更けてゆく。

 おしみゃい。




(了)

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そして桜は夏に咲く 虫野律(むしのりつ) @picosukemaru

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