その日の放課後、ビーちゃんはペンダントを返してくれた。蝉の声が降り注ぐ、夏の気配の濃い教室だった。グループの子たちはおらず彼女は一人で、そしてわたしも独りぼっちだった。

「ありがと……」自作の拙いお守り袋を受け取り、わたしはつぶやくように言った。

 いまだわたしの心はやるせなさに打ちひしがれていた。

 ビーちゃんもそうなのだろう、彼女も元気とは言いがたい様子だった。彼女は自嘲的に鼻を鳴らし、「お互い馬鹿みたいね」としんみりした口調で言った。

「うん……」

 わたしのかすかな声は、蝉の鳴き声に掻き消されてビーちゃんの耳には届かなかったかもしれない。

 それほど時を交わさずして、

「……じゃあね」

 とビーちゃんは言い、去っていった。

 ──途端に寂しさが溢れてきた。

 細かく震える蝉の音だけが、聞こえていた。



 翌日から夏目君は、みんなから距離を置かれるようになった。元々孤立ぎみだったところに前日の、明確で過激な拒絶の言葉。こうなるのは当たり前だった。彼はクラスみんなのヴィランになってしまっていた。

 いじめに発展していないのは、ビーちゃんがそうするように指示を出していないからだろう。彼女は夏目君を意識の外に追い出そうとしているようだった。いない者として扱っていた。

 それが彼女なりの心の守り方なのかな、とわたしは推察していた。彼女も夏目君のことが本当に好きだったんだな、と思い、もちろんわたしは彼女のことが好きではないのだけれども、それでも奇妙な親近感を覚えていた。同じ男の子に熱を上げ、そしてこっぴどく振られた者同士の仲間意識のような、綿菓子のようにふんわりしていて蜃気楼のように曖昧な感覚──けれど、確かに感じていた。

 そしてそれは、もしかしたらビーちゃんも同じなのかもしれない。彼女のわたしへの接し方が、優しいわけではないのだけれど、以前よりも自然体になっているように感じていた。その影響なのだろうけど、彼女のグループの子たちやクラスメイトとの会話も少しずつ増えていき、気がつけば、わたしはいじめられっ子ではなくなっていた。

 やっとこの学校の、この町の一員になれたような気がして……うれしい?──ううん、ちょっと違う。安心したというほうが近いかな。自分とは違う目の色、肌の色、ルーツの人たちに囲まれて、奇異と好奇そして恐れの感情にさらされつづける寄る辺のない日々からの解放は、わたしに安らぎをもたらした。両親のいない夜にもあまり不安を感じなくなり、最近はよく眠れている。

 けれど、忘れかけた夢の欠片、心の奥に潜む恋の影をふと思い出すと胸が締めつけられる。それはたぶん、わたしがまだ恋にまどろんでいるから。



 ──ガラガラ。

 古くて建て付けの悪い教室の戸が開く音がした。視線をやると、どこかへ向かう夏目君の無機質な横顔が見えた。給食の時間はまだ少し残っているのだけれど、別に珍しいことではない。誰よりも人の心の機微に聡い彼からすれば、みんなから集中的に向けられる敵意はより実在的に感じられるはずで、教室なんかにいるメリットはないのだろうな。

「夏目君って意味わかんないよね」

 わたしの隣で、皿の端に寄せたレバーを箸でつついたりする作業にいそしんでいた、ビーちゃんのグループの、クラスで一番甘え上手な女の子が興味なげな口調で言い、「頭が良すぎると、やっぱりどこかの螺子が外れちゃうのかな?」と純粋そうな顔で尋ねてきた。

「紙一重って言うから、そういうこともあるかもね」無難な肯定をわたしは返した。

 そう、夏目君はわたしたち凡人の理解の範疇に収まらないほど頭がいいから、感性や価値観が違うのは仕方ないことなんだろうな──と、そんなことを思って、ふと気づいた。気づいてしまった。

 ──夏目君なら、今のこの状況を予想できなかったはずがない。

 自分がこうすれば人はこう反応する、こう思考する、こう行動する、そういったシミュレーションは夏目君の最も得意とするところだろう。チェスをするたびにその神懸かりしたような先読みの能力──蝶の羽ばたきが及ぼす影響さえすべて見通しているのではないかという異次元の視野を見せつけられてきたわたしには、その推測を否定できない。

 いつかのように心臓が、夏目君の好きなロックのドラムのようにうるさく鳴りはじめた。

 客観的な事実として、あの日からクラスでのわたしと夏目君の立場、あるいは役割は入れ替わった。それはつまり──。

「ごめんなさいっ」わたしは立ち上がり、「具合が悪いので保健室に行ってきます!」教室を飛び出した。



 夏目君の行きそうな所を駆け回り、彼を見つけたのは二階の端にある視聴覚室だった。彼以外はいない薄暗く静かな室内の奥の席でスマートフォンに目を落としていた。

 がたつく引き戸を開けると夏目君はこちらを向き、けれどすぐにどうでもよさそうにスマートフォンに視線を戻した。

 少しひるんでしまいながらも、足を動かして夏目君に近づく。スマートフォンから発せられる音がその輪郭をはっきりさせていくにつれ、わたしの鼓動も激しくなっていく。

 怖い。否定されたら、拒絶されたら、と思うと足がすくむ。

 でも、それ以上に彼の本当の心に触れたかった。嘘ばかりの、たぶん自分にすら明かそうとしない本心に。

 夏目君の前に立つ。

「夏目君!」

 思いがけず大きな声が出た。でも、夏目君は振り向かない。微動だにしてくれない。

 パズルゲームアプリのちゃちな電子音だけが、静寂を不完全にしていた。

 うっ、とたじろぎそうになるけれど、こらえて、夏目君はわたしを助けようとしてくれたんでしょ? とここに来るまでに考えておいた台詞を読み上げようとして、しかしわたしの喉の奥から飛び出したのは、

「夏目君の馬鹿!」

 という責める言葉だった。うえ? おかしいな、こんなの台本にないんだけど、と思うけれども、もういいや、このままいっちゃえ!

「どうして自分を犠牲にするようなことをするの?! そんなのわたしは求めてなかった! わたしは夏目君に比べたら馬鹿で不器用かもしれないけど、誰かを身代わりにしてまで救われたいなんて思うほど弱くはない!」

 目の前で喚き散らされて流石に無視しきれなくなったのか夏目君は溜め息をつき、その怜悧な瞳にわたしを映した。「どんなアクロバティックな妄想をしたのか知らねえが、お前ら馬鹿だし、どうせ思い違いだろ」

「でも、頭のいい夏目君ならこうなるってわかってたんじゃないの? 自分が共通の敵になれば、わたしへのいじめがなくなるって」

 夏目君は、ふん、とあしらうように鼻息を吐いた。「そこまでボランティア精神に溢れてねえから。勘違いはやめろって言ってるだろ」

「そんなの嘘だよ」わたしは反射的に否定していた。「わたし知ってるんだから。夏目君は誰かが困っていると助けたくなる。でもそれは自分の論理に反するから、抹茶スイーツとかの対価を自分に対する免罪符にしてる。素直じゃないにも程があるよ」夏目君のほうがよっぽど馬鹿だよ、とも言ってしまった。大馬鹿だよ、と。

「お前ってさあ」夏目君は心の底からあきれ果てたような、もはや感心すらしているような口調だった。「勉強はできるのにマジで馬鹿だよなあ」

「うるさい! 馬鹿って言うほうが馬鹿なんだ」

 そんな理屈は小学生のうちしか通用しないよ、と心の中にいる鳥瞰ちょうかん気取りのわたしの声が言ったけれど、それなら問題ないでしょ? と言い返すと彼女は笑い、そしてふっと消えた──何だか変に楽しくなってきた。正と負、悲喜こもごもの感情は心を高揚させ、謎の全能感を与えていた。

「めんどくせえな」夏目君はぼやくようにつぶやき、「もうそれでいいからさっさと消えてくんね?」

「やだ」即答していた。普段ならこんな態度は取らない。

「マジでめんどいんだけど」やれやれ、とでも言うように夏目君は吐息を洩らした。

「そういうのやれやれ系って言うんだよね? あとは、ツンデレ?──ということは、夏目君はやれやれ系ツンデレだ」

 夏目君は名状しがたき複雑な表情になった。

 そういう素直じゃないところがたまらなくいとおしい。かわいいな、と思ってしまう。

「そんな言葉どこで覚えたんだよ」と夏目君は問うてくる。

「ビー──」ちゃん、と危うく言いそうになるも、これはわたしの心の中だけの秘密の呼び名だ、何とか言いさし、「彩来ちゃんに借りた漫画」と本来の彼女の名を口にした。

 不快そうに口を曲げながら夏目君は、「仲がよろしいことで」と皮肉げな口調。

「うん、夏目君のおかげだよ、ありがと」

 正直に白状してしまうと、わたしはすっかりうずうずしていた。唇がうぞうぞなのだ。

 うんざりしたように、「はいはい」なんて言う薄紅色の、わたしのものにしたい君の唇。

「もう用は済んだんだろ。教室に戻──」

 夏目君の憎まれ口を止めるのは、案外簡単だと知った。キスしてしまえばいい。口で勝てないなら唇で勝てばいいのだ。

 やっぱり今のわたしはおかしくなってる。でも、いい。幸せだから。

 夏目君の手がわたしの肩に触れた──押し戻そうという魂胆だろうか。それは駄目、まだ駄目──すかさず彼の手を捕まえ、唇を離してかすかな隙間を空けた。無意識にそのほとんどを下ろしていたまぶたを上げた。視界が彼でいっぱい。互いの吐息がぶつかり、絡み合う。

「もっともっと、まだまだ足りないんだから」わたしは言う。「大好きだよ、夏目君」いつかのような照れ隠しの臆病な告白じゃない、はっきりとした熱く輝く炎。

 何かを言おうとしたらしき夏目君の唇を再び塞ぐ。

 そうして、キスのメロディーはわたしたちを桜色に染めていく。

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