桜・幕間五話 And Then the Cherry Blossoms Bloom in the Summer
①
夏休みの間、どこかへ出かける時は決まって白銀に輝くオープンハートを胸元に揺らしていた。大人用だからかチェーンが少し長いような格好だけれど、デザインは文句なしにかわいいし夏目君がわたしのためにがんばって取ってくれたものだと思うと、彼の神経質そうに繊細な指先がわたしの裡に触れているようで、くすぐったくて、けど、とてもうれしかった。すっかり舞い上がっちゃって、と自分でも思う。でも、確かに幸せだった。
けれど、夏休みが終わって二学期が始まると、外出時には常にペンダントを着用する、というのはかなわなくなる。学校では、当たり前だけれど、アクセサリーの類いは禁止されている。わたしは夏目君と違って、「公立小学校の校則なんか紙でできたおままごと用の鎖みてえなもんだ。気にするほうが異常だ」などと訳のわからないことを言って校則を破る気はない。
でも、オープンハートと離れたくなかった。もはや身体の、心の一部であるような気持ちさえあった。
どうしよう、と悩むわたしの目に、ふと、ランドセルにすげられた交通安全のお守りが留まった。小さい巾着という感じで、持ち運びもしやすく学校に持っていっても不自然ではない。オープンハートを入れておくにはちょうどいいように思われた。
す、と手を伸ばし、けれど、「お守りの中は見ちゃ駄目よ」とお母さんに注意されていたのを思い出し、身体が固まった。彼女はちょっと笑いながら、「開けたら罰が当たるわよ」とも言っていた。
罰なんてものは存在しない。夏目君ならそう言いそうだな、と思うと何だかおかしかった。あるのは原因と結果だけだ、と言う顔が目に浮かんだ。
結局わたしは、ほとんどやったことはなかったけれど、自分で似たような袋を作ることにした。
構造は単純極まりないからさほど苦労せずに完成させることができた。売っているものに比べたら歪で少し不格好だったけれど、わたしは満足していた。
そうして、始業式の日からわたしのペンケースの中にはお手製のお守り袋が身を潜めるようになった。誰かに
授業が始まって一週間が経過してもその状況は変わらず──いえ、夏目君は追及こそしてこないけれど察しているかもしれない。この前、国語の授業中にお守り袋の紐を緩めて中を覗いた時、彼の視線を感じてそちらを向くと、彼はあきれ顔をしていた。
気恥ずかしくて、つっと顔を逸らしてしまった。そして、すぐに後悔した──これじゃあ余計怪しいよ、秘密の暴露をしてしまって探偵に追い詰められる犯人みたいだ、と。
高く跳んだビーちゃんが右腕を振るうと、バレーボールが相手のコートに鋭く突き刺さった。バウンドしたボールを相手チームの子が追いかける。
「ナイスキー!」
そう声を掛けたクラスメイトの子が、ビーちゃんと笑顔でハイタッチを交わした。ビーちゃんは、「これくらい楽勝」なんて言って得意そうだ。
今日は体育があり、わたしたち女子は体育館でバレーボールをやらされていた。わたしはみんなからハブられているからボールが回ってくることはないし、運動は苦手だからレシーブで自分から拾いに行くこともできていなかった。コートの隅に佇んで、みんなの中心で飛んだり跳ねたりして
そんな退屈で無意味な授業が終わり、体育館の埃っぽい更衣室で着替えを済ませて教室に戻ったわたしは、ペンケースのファスナーを開けた。深い理由はなかった。ただ何となく、お守り袋を見たくなっただけ。
そしてわたしは、
「え」
と声を零した。「ない……」
お守り袋が消えていたのだ。体育館に行く前には確かにあったのに、机の中にも見当たらない。
どうして、と考えはじめるとほとんど間を挟まずに、スパークするようにある推測が脳裏に浮かんだ。
──ビーちゃんだ。こんなことをするのは彼女しかいない。
ビーちゃんも、夏目君と同じタイミングでわたしがオープンハートをこっそり持ってきていることに気づいた。夏祭りのあの時の舌打ちが彼女がしたものだったとすれば
ちらとビーちゃんを見た。何事もなかったかのようにいつものグループの子たちと談笑していた。
ふつふつと怒りが湧き上がってくる。それは今までのいじめにより溜まりに溜まっていた
本気でキレる、という経験をわたしはしたことがない。だから、この精神状態をそう呼ぶのか本当のところはわからないけれど、とにかくビーちゃんが憎くてたまらなかった。
思い違いだったら大変なことになる、まずは慎重に事実を確認するべき──そんな賢いリスクマネジメントをする余裕は、もうない。
わたしは無言でビーちゃんの所へ歩み寄った。取り巻きの二人の女の子、前にトイレで楽しそうに悪口を言ってきた子たちの目がわたしのほうを向き、嘲笑う色を浮かべた。
この子たちもすべてを知っているのかもしれない。知っていて、素知らぬ顔で安全圏から高みの見物に興じているのかもしれない。ううん、そうに決まっている。だって、いつもそうだから。自分たちの快適な学校生活を守るためにためらいなく他人を生け
──大っ嫌い。
心からそう思う。普段とは違う雰囲気を感じ取ったのだろう、遠巻きに好奇の目を向けてくるクラスメイトにも、
「おっかない顔してどうしたの~?」ビーちゃんが嘲笑まじりに尋ねてきた。
憎悪と怒りで唇が震え、それがそのまま、「……You fuckin' cunt(このクソアマが)」つぶやきとして零れ落ちた。
「はあ?」ビーちゃんは不快そうに眉根を寄せた。「何? 何て言っ──」たの? という彼女の声に、
「あなたなんでしょ」とわたしのそれを重ねた。「あなたがわたしのペンダントを隠したんでしょ」
ふっ、とビーちゃんは小馬鹿にするように鼻先で嗤った。「何のこと? ペンダントって何?」
左右に控える女の子たちが、こそこそと盗むようにくすくすと嗤っている──ああ、腹立たしいっ。
「あれ~、もしかして~? ペンダントを学校に持ってきてたの~?」ビーちゃんがわざとらしく言った。「いっけないんだあ~」
くすくす、くすくすと女の子たちが
「Shut the fuck up!(黙れクソども!)」
と攻撃的な言葉を叫ぶように吐き出していた。「いつもいつもふざけたことばかりっ、いい加減にして!」
けれど、ビーちゃんはあくまでも白を切りつづける。「本当にどうしたの? 大丈夫ぅ?」
その余裕の態度に、舐めた口調に無性に、無限に殺意が湧き、
「うるさい! うるさい!」自分の声のはずなのに、わたしの知らないヒステリックな声だった。「あなたが体育の時に
ここで初めてビーちゃんは顔に苛立ちをにじませた。「はあ? 変な妄想押しつけないでよ。マジうざすぎ」
わたしはすかさず、ほとんど反射的に、「Fuck! You're dead!(ぶってんじゃねえよ! ぶっ殺すぞ!)」と言い返していた。「いいから早く返して!」
「だからあたしじゃないってば! 一緒にバレーやってたでしょ!」ビーちゃんはそこで見下すような表情になり、「あんたは突っ立ってただけだったけど」と嫌みを忘れない。
「あ、あのぅ、いったん落ち着いて──」いつの間にか教室に来ていた出丸先生がへっぴり腰で嘴を容れてきたけれど、
「意気地なしの保身男は引っ込んでて!」
とわたしが
怖ー、とクラスメイトの誰かが言ったのが聞こえた。次いで、「なあ、夏目、お前が原因なんだろ? 何とかしろよ」と別の男子の声。
夏目君がべらぼうに面倒くさそうな顔をして溜め息をついた。
今更ながら恥ずかしいという感情に駆られた──わたしは今とんでもない醜態を演じている。しかし、燃え盛る怒りは収まりそうになかった。自分が制御できない。
ちっ、と舌を鳴らす音。ビーちゃんだ。「とにかく、わたしにはアリバイがあるから! 言いがかりはよして!」と彼女は一息に言い、この争いを終わらせたいようだった。
ふざけないで、逃げ出そうなんて許さない──そう思って口を開こうとするも、
「アリバイなんてあってないようなもんだろ」
と夏目君が冷めた口調で否定の言葉を差し挟んだ。
ビーちゃんの目が、泣きそうな弱々しい光を一瞬だけたたえた。それに気づかないはずのない夏目君だけど、眉一つ動かさず、
「お前ならほかのクラスにも奴隷が多い。そいつらの誰かに実行を命じればいいだけだ」
と淡々と言い放った。
ビーちゃんは、ぐっと感情を飲み込むように、こらえるように一度唇を結び、それから、「そ、そんなことしてないから」と
それに頓着する様子もなく、「例えば──」と夏目君は続ける。「ほかのクラスに授業中にトイレに行ったやつがいて、そいつがお前と仲のいいやつだったら状況証拠にはなるかもな」
「……」ビーちゃんは険しくも悲しげな色を浮かべて口をつぐんでいた。
夏目君は言う。「ちょっと確かめてくるか」
とうとうビーちゃんはうつむいた。その細くにじむシルエットには普段の
「認めるん──」だな、と夏目君が言うのに重ねるように、
「どうしてよ!?」
とビーちゃんが苦しげに声を上げた。「どうしてあたしじゃないの?!」忌ま忌ましそうにわたしを見て、「こんなぽっと出のガイジン女のどこがいいんだよ?! あたしのほうが、あたしのほうがいろいろしてあげられるのにっ!」最後のほうは涙がまじりはじめていた。
強気な彼女のそんな姿を見たのは初めてなのか、彼女のグループの子たちやクラスメイトの驚き、当惑する気配が教室を満たしていく。
はあ。夏目君がまた溜め息をついた。めんどくせえ。ぼやくようにそうつぶやいてから、言った。
「いいところなんて別に何もねえけど」
ビーちゃんに向かって、というより、彼女とわたし二人に向かって、という声の方向だった。
「……は?」とビーちゃん。
「……え?」とわたし。
不本意にもわたしたちの声は同時だったし、その表情も、耳を疑う気持ちもたぶん同じだ。
夏目君は
だいたい俺らまだ小四じゃん。恋? 愛? 何それ、馬鹿じゃねえの。そんなの俺知らんし。お前ら揃いも揃って少女漫画の読みすぎで頭ん中が、蛆の群がるお花畑になってんじゃねえの? それか、ただのマセガキか? いや、エロガキ?──きっしょ。普通にないわー」
「ま、恋愛ごっこがしたいなら勝手にすりゃいいとは思うけどよ、俺の知らないところで低能ゴミ障害者同士で勝手にやってくれよ」
と、最後に、「もう話しかけんなよ? 知能の劣る欠陥品の相手は疲れんだ──わかったな、カスども」
と吐き捨て、何もなかったかのような涼しい顔で自分の席に腰を下ろし、スマートフォンを弄りはじめた。
教室は、しんと静まり返っていた。
──
ビーちゃんが泣いていた。しゃくり上げ、肩を揺らしていた。
混乱していた、わたしも。夏目君の言葉が本当なのか、優しさを隠すためのいつもの嘘なのか、わからない。
──本当に嘘だったのだろうか。
ふとそんな疑念が頭をよぎった。
他と隔絶した頭脳を持つ夏目君にとって、わたしたちは「暇潰し兼実験用の玩具」にすぎない。
その考えはとても論理的で必然的な帰結に思えた。実験用のマウスがどれだけ懸命に鳴こうと研究者の心には届かないように、わたしたちの言葉は夏目君には煩わしい雑音にしか聞こえていないのかもしれない。
わたしは夏目君の隣に並び立ちたかった。何度ステイルメイトに追い込まれて事実上の惨敗を喫しても挑みつづけてきた。どんなに足掻こうと絶対に追いつけないなんてことはとっくに理解している。それでも、見苦しかろうと対策を練り、対戦をねだってきた。
好きだから。大好きだから彼の孤独をやっつけたかった。
夏目君もそんなわたしを受け入れていると、悪くは思っていないと、心地よく感じてくれていると信じていた。
けれど、すべてわたしの勝手な思い込みだったのかもしれない。凡人らしく自分の望むように現実を歪めて解釈していただけだったのかもしれない。夏目君は孤独なんか微塵も感じていなかったのかもしれない。
──わたしのことなんか、何ともっ、思っていなかったのかもし、れない……。
頬に涙が伝う感触があった。わたしも泣いていた。
「どうしてそんな酷いこと言うの?!」ビーちゃんのグループの子、ショートカットの女の子が激しい語調で夏目君を責めた。
しかし、夏目君は聞こえていないかのように目もくれずスマートフォンを見つめつづけている。
「何とか言いなさいよ!!」ショートカットの子が詰め寄り、夏目君の肩に手を伸ばし──しかし、その手は彼にしたたかに打ち払われた。
夏目君の眼球が動き、その黒目がショートカットの子に向けられた。
ぞっとした。その目のあまりの冷たさに心の芯を凍えさせるような本能的な恐怖を覚えた。
怒った顔をしているわけではない。何の感情も窺えないマネキンのような表情だった。一点の曇りもない完全な無関心。わたしたちの言葉に、行動に、思考に、感情に、存在に、何の価値も
苦しい。
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