「わ、わたしの英語は──」そこで影沢先生は迷うように一度言葉を切り、「そんなにひどいですか」と言った。

 弱々しくも確かな反抗心を宿した瞳は、震える声は、小さな身体は、懸命にか細いおのを振りかざす愚かな蟷螂とうろうのようでもある。

 初めての追従以外の返答に俺は口の中だけで、よし、とささめいた。

 今回の作戦のコンセプトは、〈押して駄目なら引いてみろ〉ならぬ〈褒めて駄目なら貶してみろ〉である。

 具体的には、貶したおして不機嫌になり反発するポイント──すなわち自信のある何かをあぶり出し、そこを褒めて自己肯定感を高める。反抗心や他者の否定というのは、多くの場合、自己肯定を基礎としている。だからこそ、第一段階として否定という名の毒を浴びせまくったのだ。

 影沢先生は英語の発音に関してのみ言い返す気色を見せた。ということは、自己否定の塊のような彼女の唯一のよりどころが英語力だと推測できる。はずだ。つーか、もう無理。これ以上、彼女が自分でも肯定しているところを探すのは、だりぃ。人のための毒舌ほど虚しいものはない。誰かの心を裂く感触を心置きなく堪能たんのうするには、依頼という枠は邪魔だ。

 なので、これを正解と推定して俺は、発言を反転させる。

「すいません」と俺は意図的に眉尻を下げた。

「──えっ」と憮然たる戸惑いの色を浮かべて影沢先生は、「えっ?」と繰り返した。

「俺も洋楽が好きで英語の発音には多少自信があったんで、負けてるのが悔しくて貶しちゃいました。影沢先生、やっぱ英語めちゃくちゃ上手いっすね。いつも思ってたけど、ネイティブ並みじゃないっすか」

「……」影沢先生はぽかんと口を開ける阿呆面あほうづらになり、ややあってようやく動き出した。と思ったら、「え、ええと? つまり? わたしの英語は夏目君にも負けてない?」と相変わらずの下から仰ぎ見るような物言い。

「負けてないんじゃなくて」とそこで息を吸い、くどくならない程度に喉を開いて声に芯を作り、影沢先生の心に届くことを願いながら言う。「勝ってますよ。ぎりぎりっすけど。影沢先生が自分で言うほどには、影沢先生は無能じゃないってことっすよ──」たぶんな、とは聞こえないようにつぶやいた。

「……」影沢先生は再び沈黙し、先ほどよりも長い時の後で、「ふへ」とだらしなく口元を緩めた。

 うわあ、きしょいなあこのおばさん、これだから三十過ぎて処女の女はろくでもねえ、と俺が胸三寸でおののいているのに気づいた様子もなく影沢先生は、時雨しぐれる目元をぐいと豪快に拭い──するとメイクが崩れて子供の落書きのようになるわけだが──教室では見せたことのない強張りのない笑みをたたえた。

「夏目君はわたしのことを救いようのない馬鹿だと思ってると思いますけど──」

「よくわかってるじゃないっすか」

「でも、夏目君がモテる理由が理解できた気がします」

「馬鹿にありがちな思い違いっすよ、それ」

「今日はまた一段と辛辣だなあ、とは思ってました──」ふふ、と弾むような吐息を洩らし、「いろいろと考えてくれてたんですね」

「後で追加料金貰うんで気にしなくていいっすよ」

「ありがとうござ──えっ? 追加料金?」

「そりゃそうでしょ」あきれ果てた声で俺は言った。「一皿分の抹茶クッキーだけでまる一日拘束されたら算盤そろばんが合わないっすよ」

「あ、はい、そうですよね、すみません」影沢先生はいつものように彼女独得の決まり文句を口にした。「それで、何を渡せばいいんでしょうか」

「とりま、今日の晩飯、向かいのファミレスで奢ってくださいよ」

 俺は昨日見てしまったのだ、そのファミリーレストランで〈抹茶スイーツ祭り〉なる販促イベントを開催中とのネット広告を。

「やっぱり高校生のデートって感じですね」

 影沢先生は愉快げに、ほほえましげに目元の落書きを変形させた。



 雑居ビルの五階にあるそのファミリーレストランは、チーズインハンバーグを売りにする没個性的な店だ。

 ただ気になるのは、チーズインハンバーグという表記だと日本人の厚顔無恥と和製英語の傍若無人を理解していない人間にはハンバーグではなくチーズがメインであるかのように見えるということだ。

 看板商品の名称なのにこの紛らわしさはどうなんだ?

「チーズインハンバーグという料理自体は、わたしらが考えたわけじゃないし」

 商品開発部の連中のそんな言い訳が聞こえてきそうではあるが、利益を得ているくせに我関せずえんというのは頂けない。

「そこんとこ、どう思います?」

 まぐろのたたき丼セット(ご飯大盛り&まぐろ倍)を食べる俺の向かい側で、切り分けたチーズインハンバーグにフォークをぶすりと刺した影沢先生に尋ねた。

「でも、ほとんどの人にとってはわかりやすいから、いいんじゃないですか? 言語に絶対的な正しさなんてないですし、文脈にふさわしくて、コミュニティーにとって使いやすければいいんです。だから、多数派がいいと考えているならいいんだと思いますよ」

 今日一日教師らしからぬことをしておきながら教師らしいことを言った影沢先生は、伸びたチーズを納豆の糸を巻き取るようにくるくるとナイフで絡め取り、ハンバーグを口に運んだ。

「それは思考放棄の逃げじゃないっすか」などと言ってみる。ついでに、「じゃあ今度の英語のテストはクラスの多数決で正解を決めてもいいっすよね?」と戯言で遊ぶ。

「もうっ」影沢先生はあきれ顔ながらどこか楽しそうな声を出した。「すぐそうやって屁理屈へりくつをこねるんだから」

「何か年上ぶっててムカつく」

「あなたより一回り以上も上ですから」

 らしくない鷹揚おうような態度だった。

 しかし、そんなことは〈あんこON抹茶パフェ〉が運ばれてきたらどうでもよくなった。あんこを注文したおまけに抹茶パフェを食べているのか、はたその逆かは、ひらひらと舞う胡蝶こちょうが夢かうつつかぐらい小さなことだと気づかされる。虚構も現実もあんこも抹茶パフェも、俺の世界においては今俺が認識していることがすべて──あるいは独我論の行き着く先には、

「あんこと抹茶パフェうめえな」

 という真理だけがあるのかもしれない。

「おいしいですか?」すっかり打ち解けた様子で影沢先生は、表情柔らかく言った。「よかったです」

「今、宇宙を抹茶色に染めてるとこなんで、俺の知覚に入ってこないでくれます?」

「意味はわかりませんけど──」影沢先生は、ここに、と自身の口元を指差し、「クリームついてますよ」

 食事も終わり、影沢先生がレジで会計をしているところを二歩下がってぼんやりと眺めていると、俺と似たり寄ったりの年齢らしき女の店員が、ハキハキとした口調で言った。

「小学生割引を適用いたしまして二千四百円になります」

 思わず俺は噴き出した。

 上半身だけで振り返って怪訝そうにこちらを見た影沢先生は、目を店員に戻すと、やはり訝しげに、

「あの、この子、高校生なんですけど」

 と手振りで俺を示しながら言った。

 肩を震わせて笑いをこらえている俺に、店員のすがるような、助けを求めるような視線が注がれた。話が通じないんですけど、と言わんばかりだ。

「影沢先生」間違いなく半笑いで俺は、呼びかけた。「免許証はありませんか?」

「ありますけど」不審に不満がまじりはじめているような声は、それでも首肯した。

「それ、お店の人に見せてあげてください」

「はあ?」と訝しむ声を出したのは、影沢先生だけでなく店員もだった。

 ま、ま、いいからいいから、と促すと、影沢先生は眉を集めながらも従った。

 免許証を受け取った店員は、しげしげとそれをめつけ、やがて、はっとしたように眉を上げると、驚愕の眼差しを影沢先生にやり、ただちに免許証に戻し、と数回繰り返した。

 それで、ようやく店員は客観的事実を、からくりを認めたようだった。彼女は、「ええ!? 三十歳?! これで?!」と高純度の喫驚を声にした。

 これ扱いされた影沢先生の見た目について、彼女の主観的な認識ではなく客観的な事実を簡潔に一言で述べるならば、〈ロリババア〉となる。その外見は小学生の高学年そのもの。恐ろしいことに声もそうなのだ。

 初見で実年齢を見破れる存在がいるとしたら、それは超能力者の類いだろう。年若い店員が応対マニュアルを空の彼方に放り投げてしまうのも仕方がないのだ。

 しかし、影沢先生はそれを自覚していない。なぜか。おそらく友人がいなくてはっきりと指摘してもらえたことがないのだろう。趣味がないというのも痛い。出歩かないから今のように外で年齢が問題になるケースも少なかったに違いない。自分はアラサーなんだというバイアスもあるはずだ。

 これを前提に、伊達章仁なるスパダリ風ハイスペ男が影沢先生に夢中になった理由を考えてみると、答えはすぐにわかる。

 そう、彼はロリコンなのだ。

 とはいえ、ガチの小学生に手を出したらすべてを失ってしまう。そこで、可能な限り幼く見える成人女性を見つけ出すために八方手を尽くした。その一環が結婚相談所だったのだろう──そのペドい情熱と努力には頭を下げたくない。

 ただ、偽客サクラや悪ふざけの冷やかしの場合もありえなくはないと思ったから、影沢先生の利用する結婚相談所の情報を尋ねたのだが、〈入会料が高く〉〈入会審査も厳しい〉〈大手〉だと判明し、俺はそれらの可能性を否定した。

 この条件だと、個人の趣味として嫌がらせをするには高額の入会料と厳しい審査というハードルを越えなければならず、方法ハウダニットの面で非現実的だ。しかしだからといって、大手の結婚相談所が自ら偽客を招き入れる旨みは少ない。そんなことをしなくてもやっていけているのだから、この超敏感肌の相互監視ネットレビュー社会でわざわざ悪評のリスクを取る合理性はない。こちらは動機ホワイダニットの観点から考えにくい。

 結論──やはり伊達某はガチロリコンのやベーやつ、である。

 そんなんが雑魚どもを蹴散らしながら勝ち組街道を邁進まいしんしているんだから──最高だ。これだから人間はおもしろい。こんなにコスパのいい玩具はほかにない。

 と、そんなふうに思う俺を空から眺めるもう一人の俺がいたとしたら、何を思うだろうか。

 あきれる? 煽る? 手を叩いて喜ぶ?

 なんて益体のない空想は、店を出たころには霧散していた。

「変な子でしたね」

 宵の舗道を歩く影沢先生が、困惑ぎみだがそれほど強く非難しているわけではなさそうな声で言った。「あれじゃあ、まるでわたしが小学生に見えるみたいじゃないですか」たしかに童顔ではありますけど、とサンダルから覗く足先に目を落とした。いじけているようでもある。

「いやあ、ホント、影沢先生っておもしれー女ですよね」

「もうっ」影沢先生は、俺の左肘の辺りを軽く、どちらかというとしんなりと添えるようにぺちっと叩いた。「何なんですか、それぇ」

 今の俺たちは、傍からは危うい距離感の仲のいい兄妹に見えているかもしれない。

 残念、タブーはタブーでもそっちじゃないんだわー。

 と脳内でハスキーボイスが言った──その自分の声と重なる黄色い声があった。

 その声は最初は、「お、朝陽じゃん」と穏やかだったが、接触感染する罹患者りかんしゃとの距離としては不適切と言わざるを得ない隙間しか空けていない俺の隣の影沢先生を認めると、「はあ? 椿ちゃん? 何でぇ?」と困惑をにじませ、最終的には、「朝陽、どういうこと?」と静かに尋ねた。

 春風だ。今日は出雲もいる。二人で休日を満喫していたのだろう。

 出雲は驚いたように目を丸くして口元に手を当てている。「えっ、夏目君ロリコンだったの?」などと言っている。「変態だとは思ってたけど、ここまでだったなんて」

「あ、あ、あ、は、春風さん、これはその、ちが、違うんですっ」

 影沢先生はものの見事に狼狽ろうばいしていた。舌ももつれており、上手く話せないようだった。

 その哀れな様を眺めていて、ふと脳裏をよぎるものがあった。

 ──蛇に見込まれた蛙。

 笑いが零れ落ちそうになり反射的に俺は、口元を押さえた。

 影沢先生、また蛙化してんじゃん。どんだけ蛙好きなんだよ。もう、あれだ、フェラだけは上手そうな女じゃなくてフェラだけは上手そうな雌蛙だ。

 俺の中で影沢先生のイメージが固まった瞬間であった。

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