桜・幕間四話 Tiffany in the Summer Festival

 ここ街田市はお母さんの地元だ。大学生になるまでをこの街で過ごした、という話をだいぶ前に聞いた。その話をするお母さんには、街田のことなら何でも知っているという地元愛と過信が見え隠れしているようだった。

 記憶の引き出しの奥深くに仕舞っていたそのシーンのフィルムが顔を覗かせたのは、得意げな顔をしたお母さんが、夏休みが目前に控えているわたしに向かって、

「街田の夏祭りは楽しいわよ」

 と言ってきたからだ。唐突だった。

 晩ごはんの秋刀魚の塩焼きの中に潜んでわたしの喉に一矢報いることを虎視眈々こしたんたんと狙っている小骨を発掘するのに忙しかったから、その夏祭りの情景を具体的に思い浮かべずに、「ふうん、どんな感じなの」とつれない返事をしていた。

「屋台がたくさんでね、普通のやつから変なのまでずらっと並んでて目がちかちかして大変なのよ」

 お母さんは、これで優秀なビジネスパーソンらしいけれど、ネガティブな単語が少なからず含まれる今の説明はプレゼンテーションとしては赤点ものだと思う。それに、変な屋台って何? 変なおじさんがやってる屋台のこと? 何かやだな。

 横のお父さんが口を開き、「僕も地元の祭りには毎年行ってたよ」と彼の子供のころのお祭りエピソードを語り出した。

 ──りんご飴ととうもろこしが好きで毎年買ってもらっていた。射的でお小遣いをすべて使いきってしまい、一緒に来ていた友達からお金を借りる羽目になった。恋人だと思っていた子と訪れたらその子の本命彼氏を名乗る男の子が現れたが、その彼と意気投合して今でも親交がある。

 その彼は何度もうちを訪れており、わたしも知っている人だった。ぽっこりお腹の気のいいおじさんだ。

 小骨を取りおえるとようやくわたしは、ほぐれてツナフレークみたいになった秋刀魚の身を口にした。その味が思いのほか塩辛くて、お母さんの味蕾みらいの減少がここまで進んでいるのかと震えたのだけれど、その刺激が良かったのか、わたしははっと気がついた。

 夏目君をデートに誘う口実にちょうどいいかも。

 今までも彼の家にお邪魔してルーちゃんと険悪な雰囲気になったりこの家に来てもらってお父さん共々チェスでコテンパンにされたりと、おうちデートの入門編のようなことはしていたけれど、二人でどこかにお出かけしたり、みたいに少女漫画やドラマの恋人がしているデートらしいデートをしたことはなかった。

 夏目君とは付き合っているわけではないけれど。

 夏目君と行きたいな、と思う。一緒に歩きたい。

 ぽろりと白身が箸から零れ落ちた。お母さんに笑われた。

 


『お母さんが街田の夏祭りは変だって言ってたんだけど、本当なの?』

 秋刀魚を攻略して晩ごはんを終えたわたしは、LINEで夏目君にメッセージを送った。本当は、夏祭りに一緒に行こうよ、と打ちたかったのだけれど、わたしの指はわたしの心よりも臆病らしくて、遠くからそっと顔色を窺うかのような文章を作成していた。

『変だよ』『街田は馬鹿と変人の町だからな』

 と返ってきたのは、わたしが送ってから二時間近くが経ってからだった。返事が遅かったり早かったり、それどころか無視されたりとまちまちなのはいつものことだから、感情に任せて二時間分のモヤモヤをぶつけるようなことはしない。

『そうなんだ。今まで何してたの?』

 送信アイコンをタップしてから気づいた。あれ、おかしいな、わたしの文章ちくちくしてる。これじゃめんどくさがられてしまうかもしれない。

 不安だったけれど、次はすぐに来た。

『心霊スポットで賭け将棋』『けどもう終わった』

 安堵したのもほんの一瞬だった。またわたしの知らない世界で知らない人たちと知らないことをやっているとわかり、胸の裏がちりちりしていた。焦りのような、寂しさのような感覚が息の通り道を細くする。

『ギャンブルだよね? 勝ったの?』

 気にしていないふうを装ってそう返した。めんどくさくない理解のある女の子ですよー、という顔をした文面になっているだろうか。

『ぼちぼちでんな』夏目君は急に関西人になったかと思えば、『つか何の用?』と切り込んできた。

『何の用ってことはないけど』

『あ、そ』『てっきり夏祭りに誘われてんのかと思ったけど勘違いだったんだな』

 全部わかったうえで言っているのは明白だった。

『いじわる』

 と送った。

 けれど、その後、一緒に行く約束はできた。ので、今日は眠れないかもしれない。



 夏休みが始まると早速、お母さんと一緒に浴衣と下駄、巾着の和装セットを買いに駅前の百貨店に出かけた。わたしももちろんわくわくと浮わついていたのだけれど、それ以上にお母さんのほうがはしゃいでいて、「浴衣なんて何年ぶりかしら」なんて自分が着るわけでもないのにくねくねしていた。

 そして八月上旬の昼下がり、淡い緑の下地にピンクの桜柄がかわいい浴衣を着てダークブラウンの舟形の下駄を履いたわたしは、少し渋い印象の若草色の巾着を手に提げて、時折ちょっとだけ揺らしたりしながら、夏祭り会場のすぐ近くの公園で夏目君を待っていた。

 程なくして現れた夏目君は、何というか、夏休みの少年! という格好をしていた。半ズボンに半袖、サンダルだった。ズボンのポケットには財布とスマホが入っているんだろう、少し角張り歪んでいる。

 その、あまりにも気取らないスタイルを見ていると、気合いを入れてばっちりめかしてきたわたしが場違いに思えてくるけど、道行く人の群れにはわたしと同じか、もっと手を掛けているであろう浴衣姿も見える。だから、たぶん変ではないんだろう。と思うことにした。

 わたしの第一声は、

虫除むしよけスプレーは、ちゃんとしてきた?」

 だった。意図的に、ではなかった。言ってしまった言葉を聞いて初めてその言葉を言ったという事実を理解し、わたしは後悔した。また口うるさいお節介おばさんみたいになってる。どうしてか夏目君といるとそうなる。

「やったよ」夏目君は煩わしそうな口調で答えた。

 こうなるってわかってるのに──わたしの舌は意識とは違うシステムで動いているかのようだった。

 とはいえ、夏目君はそれだけで本格的に不機嫌になるわけでもなく、いい雰囲気とまでは言えないかもしれないけれど、でもやっぱりお祭りの非日常の中のわたしたちは教室や家にいる時よりも近くなったように感じられた。

 このお祭りは商店街が主催しているらしく、商店街通りには屋台がずっと先まで並んでいる。交通規制もされていて歩行者しかいない。

 けど、その人数が問題だった。浴衣と下駄に慣れていないことも相まって歩きにくいのだ。ただ、転ぶほどではない。普段の倍ぐらいは疲れるけど、それだけだから、「もう少しゆっくり、離れていかないで」と声を上げるほどではなかった。

 猫のように勝手気ままに動く夏目君の後ろをアヒルの子供のようについて回っていると、いつの間にか彼の歩みがゆったりとしていることに気がついた。

 胸にじわじわと甘い痺れが広がる。わたしの思い違いでなければ、きっと夏目君はわたしに合わせくれている。

 一歩分ぐらい先を歩く少し寝癖のついた後ろ頭を見る。夏目君はわたしのことなんて特に気にしていない様子で、「阿漕な商売してるよなあ。チョコバナナ一本四百円とかやばくね? 代打ちの報酬がなかったら無理だったぜ」などとぼやいている。

 くすっと笑みが零れた。

 喧騒の中でもそれを聞き逃さなかった夏目君が、何? と振り向いた。

「お祭りの屋台って、そういうものでしょ」わたしは答えた。

「小遣い月一万のやつからすりゃ、その程度の認識だろうな」俺はお前の十分の一なんだぞ、と半目を向けてくる。

「ごめんね、足りなくなったら、わたしが出しあげるから」

「You're badass(お前最高)」

「うん、どういたしまして──」だからその代わり手を繋いでもいいかな、と心の中で尋ねた。

 もっと近くに行きたい。肌に触れたい。繋がりたい──そういう、うぞうぞする思いでいっぱいだった。心の裡にともった炎が、柔らかいひだをちりちりと焦がしていた。

 視線を少し下げると歩くリズムに合わせて前後に揺れ動く夏目君の左手がある。右手をほんのちょっと伸ばせば簡単に触れられる。

 ──やっちゃえば?

 わたしの声が頭の中に現れた。

 ──大丈夫だって、夏目君はそんなの気にしないって。普通に受け入れるよ、彼はそういうやつだ。

 そんなことを言って唆してくる。きっとこれはわたしの中にいる、自由で、それゆえに少しだけ悪い子のわたしなのだろう。

 ふらふらと右手が持ち上がり、夏目君の左手に近づいたところで手を止め、でも、と自問する。嫌がられたら、嫌われたらどうしよう、と不安だった。

 気持ち悪りぃやつ。

 夏目君の声で脳内に再生されたその台詞の禍々まがまがしさに身体の芯が凍える。そんなことを言われたらもうおしまいだ。

 右手は下がり元の位置に戻っていた。でも、繋ぎたいな。でも──でも──。

 そうやって頭の中で弱虫のシーソーゲームを繰り広げていたら、

「あっ」

 何か丸っこいコロコロした物を踏んでしまいバランスを崩し──手に少し湿った温かさを感じた。

「何してんの」

 わたしの頭のすぐ近くで夏目君の声がした。無意識に伸ばしていた手を彼が掴んでい──えっ。

 状況を正しく把握し、すごい勢いで顔に熱が集まっていく。夏目君は、ほとんど抱き合うような体勢で転びそうになったわたしを支えていたのだ。手を繋ぐどころではない。顔も目の前にある。

 頭の中に白が瞬き、意識が無音の空白地帯に突入した。

「──おーい、聞いてっかあー?」

 夏目君の呑気のんきな、牧歌的とさえ言える声で正体を取り戻したわたしは、

「あ、ありがと──」もう大丈夫だよ、と手を離そうとする。でも、

「慣れてないんだろ」と夏目君は言う。「危ないから」と手は握られたまま。

 繋いだままでいい。そう言っているのだと理解したら、心が思う、やっぱり好きだな、と。

 わざとやってるのかな。だったら、ひどい人。もうへろへろのふにゃふにゃだよ。でも、あーあ、どうしようもなく好き。

 好き。

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