待ち合わせは隣町の駅の東口ということになった。というか、した。影沢先生に聞いても、「どこでもいいですけど。デートのことなんてまったくわかりませんし」というような主体性皆無の返事しか返ってこないのは容易に想像がつく。聞くだけ時間の無駄だろうから独断でさくっと決めたのだ。

 そして当日、クローゼットにあった白だかベージュだかわかんないワッフルTシャツと黒のチェック柄パンツを特に何も考えずに合わせ、玄関に転がっていたレザーシューズを履いて適当コーデを完成させると俺は、家を出た。

 目的の駅に着き、待ち合わせ場所に行くと、スマホで連絡を取るまでもなく影沢先生はすぐに見つかった。東口の端の辺りで不安そうにきょろきょろしている挙動の不審な女がいたから、影沢先生かな、と思ったら、やはり彼女だったのだ。

 カースト最下層の陰キャがそのまま年食ったらああなるんだな、とうなずく。すると、影沢先生と目が合った。軽く片手を挙げてやると、彼女は当惑するように視線をさ迷わせた。

 影沢先生は、トップスにはふんわりとした白ブラウスを着て、ボトムスにはライラック──要は淡い紫色のストレートパンツを穿いていた。不健康そうな青白い足はかかとに少し厚みのあるサンダルに包まれ、肩にはトートバッグを下げている。そして、周囲の目を警戒してか、つばが広めの麦わら帽子をかぶっていた。

 初めて影沢先生の私服を見るが、思ったより普通だな、という感想だった。もっとダサくていかにも喪女って感じの格好で来ると思っていた。メイクも学校にいる時よりはちゃんとしている。

「影沢先生は──」何時ごろに着いたんすか、と尋ねようとしたのだが、

「あ、あ、だ、駄目ですよ」

 と影沢先生に止められた。彼女は暗殺者におびえる独裁者もかくやという余裕のなさで周囲に視線を走らせると、「学校とか先生とか、言っちゃ駄目です。怪しまれたらどうするんですか」

「別に大丈夫っしょ。教師とヤってるやつなんてどこにでもいるし、何なら泡高にもいるし、心配するほどのことじゃないっすよ」

 しかし、影沢先生はなおも不安な様子だった。「──えっ、うちにもいるんですか?」

 本日のデートプランは、ショッピングモールと駅前をぶらぶらするだけである。細かいことは何も考えていない。その場その場で適当にやるだけである。だって、そもそも内容は重要じゃねえし。

 すなわち、本日のメインは影沢先生を貶すことである。

 歩き出すと早速、俺は口を開いた。

「やっぱあれっすね、影沢先生は私服もモサいんすね。ファッションセンス終わってるんじゃないっすか」

 常人なら、「てめえだって量産型男子高校生みてえな格好してるくせに何イキって上からもの言ってんだ死ねやカス」ぐらいは言い返してきそうなものだが影沢先生は、

「やっぱりそう思いますよね」

 と、すとんと腑に入った様子でどこかうれしそうですらある意味不明っぷり。「仲人さんにもさんざん言われてがんばって勉強したんですけどね、持って生まれたセンスはどうしようもないですから」

「……」これは手強そうだ、と気持ちを引き締める。

 次の罵倒チャンスが訪れたのは、モール内の雑貨屋でデフォルメされた犬らしき動物の描かれた写真立てを影沢先生が手に取った時だった。

「これ、かわいいですね」と独り言のような小声で言ってきたのだ。ちらと俺の反応を探るような視線付きで。

 まともな彼氏予備軍の男なら、「お、いいじゃん。てか椿ちゃんも犬派なん? 実は俺もなんだよねー。うちでも飼っててさー──」などと心にもないことをのたまって調子を合わせるであろうところだが、俺はこう返した。

「流石にないわー。何その変な絵。てか影沢先生は犬派なんすか? 俺は猫派なんすよ。もう敵じゃん、犬と猫なのに犬猿の仲じゃん」

 共感を求める女への返しとしては完璧な不正解だと自画自賛していた。しかし、

「そうですよね、本当はわたしも、変かなって不安だったんです。やっぱり服だけじゃなくてこういうところのセンスも壊滅的なんですね。わかってはいたつもりだったんですけど、馬鹿すぎて全然わかってなかったみたいです」

 と、かえって安堵の色さえ浮かべて影沢先生は──しかし、少しだけ寂しそうに──写真立てを棚に戻した。

「……」

 罪悪感などというくだらない動物的感情は一切湧かないが、自身の作戦の有効性についての疑念は脳裏にちらついていた。

 やべーなこの自己評価マイナスおばさん、どんなに口汚く罵られても受け入れるんじゃねえか。

 元々死んでるから殺されても死にません! だから無敵です! と豪語するアンデッドモンスターみてえだ。光魔法褒め言葉をぶつけるとダメージを与えられるヘイトを稼げるところもそっくり。

 その後も俺は隙あらば痛罵の精神で影沢先生をディスりまくったが──まあいつもどおりといえばいつもどおりなんだが──彼女はそのすべてに首肯し、元気に自己否定を繰り返した。

 そして、不可解かつ不条理極まりないことに影沢先生からの好感度が上がってさえいるようだった──いや、違うな、これはおかしなことではないのだ。形式的な理屈だけをなぞればという限定のうえでではあるが、そうなるのは必然なのだ。つまり、影沢先生が自分に下すのと同程度の評価を口にしつづけた俺に対して、彼女が共感を積み重ねていくのも、それが好感の域にまで届いてしまうのも理にかなっているということである。

 これは取りも直さず、影沢先生は自身のすべてを卑下している可能性が高い、という哀切溢れる結論を導く。

 ありえねえ、とは思うが、ありえねえ事なんてほとんどないのが憂き世の常、目の前の現実を否定していても始まらないのもまた然り。

 作戦に瑕疵があったことは認めよう。

 となれば、方針を転換すべきだ。欠陥のある作戦に固執していてもいいことなんてない。

 が、あと一つだけ攻めたいポイントがある。次で最後ということで、俺は提案する。

「俺、歌が好きなんすよ」

「授業中によく聴いてますもんね」

 影沢先生は怒るでもあきれるでもなく穏やかにそう言った。その口ぶりからは教師の責任感のようなものは感じられない。今はただの知り合いといった目線で俺を見ているようだった。

「それでさ、そこにカラオケ屋があるじゃん」

「ありますね」

 駅前の繁華街によくある雑居ビルの縦長の看板に〈カラオケ〉の四文字があった。この店舗は初めてだが、たまに行くチェーン店だった。

「行きたいんですか?」影沢先生のほうから言った。「いいですけど、わたしは歌にはそんなに詳しくないですよ」

「俺が詳しいから問題ないっす」

 などと割と訳のわからないことを言って雑居ビルのエレベーターに影沢先生を連れ込んだ。

 先ほどこっそりと電話していたので受け付けはスムーズに完了し、長いソファーと長方形のテーブルのあるオーソドックスな薄暗い小部屋に通された。

「何か、高校生のデートって感じですね」影沢先生がのんびりとした口調で言った。「灰色の青春だったんで、すごく新鮮です」

 悲しげでないところが、余計に強く哀愁を誘った。

「あんまり歌える曲がないから」だとか、「夏目君みたいに上手くないから」だとか、「今日は喉を作ってないから」だとか、消極的な態度の影沢先生だったが、

「そういうの気にしなくていいっすよ。どうせ素人のお遊びなんすから適当にやりゃいいんす。何歌います? まずは国歌でもいっとくっすか?」

 となだめすかすようにケツを蹴飛ばすと、

「国歌なんて歌いませんよ」

 と相撲取りを醜くて不健康な害悪だと嫌悪するかのような非国民性を見せ、つまりはキモくてくさそうなデブに群がる日本人は例外なくイカれたデブ専の変態どもだとばかりに眉をひそめていたが、とにかく彼女はリモコンをポチポチした。

 流れ出したイントロに、俺は思わず噴き出した。

 画面には、『Girlfriendガールフレンド』とあったのだ。アヴリル・ラヴィーンだ。

 この曲は、気に入らない女から自信たっぷりに男を奪おうとする女の気持ちをやかましくも明るくポップな曲調で歌っている。あまりにも影沢先生のイメージからかけ離れている──いや、普段抑圧されているからということだろうか。いずれにせよ、おもしろい。自分の頬に嘲笑が浮かんでいるのがわかる。

「笑わないでくださいよぉ」

 恥ずかしそうに、しかしどこかこびを含んだ声で影沢先生は言った。「わたしだってアヴリルは似合わないってわかってますから。でも、好きなんですよ」

 そして、影沢先生は歌い出した。無表情かつ棒立ちのビジュアルとは裏腹に歌声には、青の空に唾を吐き捨てるかのような、青の春に怒りを叩きつけるかのような迫力があった。原曲よりも攻撃的パンクで、陰キャの魂の叫びめいたものを感じる。

 その歌唱力は素人の中では悪くないほうだったが、俺や七条先輩には遠く及ばない。

 だが──。

 喉の奥にひりつくような期待感があった。英語教師だけあってその英詞の発音は日本人の域をほとんど飛び出していて、授業中にぼそぼそやっている発音も違和感のないものだったことから予想どおりではあったが、ネイティブに近かったのだ。純粋な日本人がそのレベルに到達するには、一部の例外的な言語の天才を除き、相当な努力が必要だろう。友達も恋人もいないキャンパスで黙々と努力する姿が脳裏に浮かんだ。

 これはイケるかもしれない、と内心ほくそ笑む。

 だから俺は、曲が終わりマイクを置いた影沢先生に向かって言う──さあ、俺の全身全霊の毒を受け取りやがれ!

「影沢先生さあ、生きてて恥ずかしくないっすか? 歌声がゴミなのは千歩譲って大目に見てやってもいいけどよ、英語の発音はちょっと見逃せないっすわ。あんた一応英語教師だろ? カスみてえな腐れマンコ大学つっても外国語学部卒なんだろ?」これ見よがしに鼻を鳴らす。「上手いとか下手とか、そういう次元じゃねえよ。言語を処理する脳機能に障害でもあんのかってぐらいひでーよ。いっぺん病院で検査したほうがいいんじゃねえーの? 周りのやつらがかわいそうだって。つーか、授業中から思ってたけど、〈r〉で舌、巻きすぎ」といっても、耳がいいと言われる俺でさえ集中しなければ気づけないくらいだし、そうなるのは十回に一回あるかどうかという程度だ。「ほかにも、母音の前でも〈the〉の発音を変えないこともあるよな? ネイティブとの会話ならそれでいいかもしれんがよ、日本の学校英語じゃ駄目でしょ」実際ネイティブの日常会話では、続く名詞の発音が母音から始まろうが言い方が変わらないことも少なくない。彼女の発音がそうなのは、より実践的な生きた英語を目指してきたゆえだろう、とは思われたが、

「マジでセンスねえよ。英語教師なんて辞めたら? そっちのがみんなのためだろ」

 ときっぱりと全否定した。もちろん、忌ま忌ましい不快害虫を見るかのような嫌悪に満ち満ちた視線も忘れてはいない。

 影沢先生は初めは驚いたように口を半開きにしていたが、途中からは膝の上で拳を握り、うつむいて聞いていた。俺の言葉が終わると彼女は、毒性の雨が降りやんだのを確認するかのように恐る恐る上目遣いにこちらを見て、一度唇をきゅっときつく結び、それからかすかに震える唇を開いた。

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