リカ先輩も俺と七条先輩が彼氏彼女ではないと疑っていなかった。それは婚約者、楠本佐助の存在を知っていたからというのが主な理由だと思っていた。

 が、付き合っていると直接聞かされてもなお恋人同士ではないと当の本人が確信しているとなると、その推測は疑わざるを得ない。

 単にNTRネトラレの事実を認めたくないだけ、そういうこともあるだろうが、今、目の前で着飾らない少年の裸身のようなほほえみを浮かべる楠本を見るに、違う気がしてならない。現実逃避して都合のいい空想にすがろうとする人間がまとう余裕のない痛々しさがまったくない。むしろ、人の紡ぐ雑多でしょうもない楽譜を存分に楽しもうとする人間讃歌さんかの調べに満ちているようだった。

「何でわかるんだよ? って顔してるぜ」

 楠本は口元の笑みをそのままに愉快そうに言った。

 ので、

「何でわかるんだよ?」

 とご要望にお応えしてやった。

「あいつ、あんなに美人なのに浮いた話が一つもない──おかしいと思わなかったか?」

 ちょいと肩を上げて、さあな、という気持ちを示し、「言いたいことはわかるっすけど、美形だからって恋愛強者とは限らないんじゃないんすか。婚約者がいながら遊ぶような性格でもなさそうだし」

「おーおー流石は自称彼氏君、雪芽のことは何でもわかってるってか」

 茶化す言葉は受け流し、「俺が七条先輩の彼氏ではないとあんたが考える根拠、俺の知らない事実があるっていうんすか」

「クールだねえ」低俗な口笛でも吹くように楠本は言い、「もう予想はついてんじゃねえのか」と挑発的で挑戦的な顔。

「可能性のあるパターンを挙げることはできるっすけど、これだと断定するだけの根拠はないっすね。現時点では憶測ですらないっすよ」

「慎重でもある」さかしいなあ、と声を転がして楠本は、「じゃあヒントをやろう。

 その一。俺が高一で雪芽が中二の時だったか、遊んでた女との裸のツーショットを誤爆しちまったことがあったんだけど──」

「何やってんすか? 偏差値の割に馬鹿すぎでしょ」

 楠本は、なははー、と頭を掻き、「まま、最後まで聞けって──で、雪芽の反応はどうだったと思う? あ、そん時にはすでにフィアンセだったから」

「普通なら野放図のほうずな下半身に怒るか、悲しむか、あきれるか、嫉妬心からセフレ女に敵愾心てきがいしんを燃やすか、あとは……割り切った婚約関係なら無関心というのもあるか──けど、わざわざヒントとするんだから違うんすよね、たぶん」

「ああ、もちろん」恐ろしく爽やかな笑顔だ。節操のなさを反省している気配はない。

「……あきれるわけでも皮肉や嫌みでも、かといって完全な無関心でもなく、『かわいい子ですね。同じ高校の子ですか』と雑談の種にした」

「かなり近いけどちょい違う。正解は、『この子、高校生ですか? すごいおっぱいですね』だ」

「……」

「ヒントその二。そのセフレの子と俺と雪芽の三人で遊びに行ったことがあったんだが──」

「いやいや、あんた自由すぎだろ」

 楠本は、「ミスって同じ日に約束しちまってな」とやはり反省の窺えない軽薄な物言い。へへへ、とへらへらとした締まりのない表情のまま、「その日はショッピングモールでショップを冷やかしたりゲーセンで金をドブに捨てたりして過ごしたんだが、ここでも雪芽の態度はすこーしばかり個性的だった──お、その顔はもう察してるな?」

「そうでもないっすよ」

「へえ、じゃ、一応続きを言うと、雪芽は終始、セフレ女を気にしていた。本人は隠してるつもりだったんだろうが、傍から見りゃまるわかりだった。例えば、その女のボディータッチに赤面したりな」童貞の中坊かよって内心爆笑してたよ、と、そして、

「もうわかっただろ? 夏目が彼氏のわけがない理由が」

「七条先輩は同性愛者だから男と付き合うわけがないって言いたいんすか」

「せーいかぁーい」ふざけたアクセントで楠本は言った。「今言ったこと以外にもそれらしき徴候はたくさん見てきた。付き合い長いからな。夏目にも心当たりがあるんじゃねえか?」

 そういう視点で振り返ってみると、たしかに矛盾はない。

「話はわかりました」と答え、けど、と続ける。「それならどうして俺と会おうと思ったんすか?」

「個人的な興味が半分、変な虫がついてないか確かめるためってのが半分ってとこかな」楠本は、伏せたトランプを覆すように唐突に、ひらりと軽やかに軽薄さのない顔つきになった。「あいつ、馬鹿みたいに真面目だろ? 根本的に人を信用してないのか病的に臆病なのか知らねえが、何でも一人で抱え込もうとするし、始末の悪いことに普通は抱えきれずに倒れるところでも何とかしちまう。そんなやつが助けを求めた男がどんなやつか気になったんだよ」

「……俺はあんたのお眼鏡にはかなったんすか」

「ぎりぎり及第点ってとこかな。ニブチンじゃなさそうだけど、ユーモアが足りないよユーモアが」

「そう言うあんたは、シリアスが足りないんじゃないんすか」

「減らず口はなかなかなんだけどなあ」

「もう一つ疑問があるんすけど──」俺が再び言葉を発すると、楠本は聞く意思を目つきで示した。「あんたはどうしたいんだ? 七条先輩がレズだって知っていて、それでも婚約者を続けている。何がしたいんすか」

「婚約者をしてるのは雪芽を守るためさ」そう言って楠本は、そろそろ冷えているであろうブラックコーヒーを一口飲んだ。「仮に俺が婚約を解消したら雪芽の父親はどうすると思う?」

「別の婚約者を連れてくるでしょうね、上流階級から」

 ああ、とうなずいて楠本は続ける。「そうなると、何だかんだ我慢してしまう性格の雪芽は結婚を甘んじて受け入れるだろう。雪芽がビアンだと知らない相手の男は彼女を普通の女と同じように扱うはずだ。当たり前にセックスもするだろうし子供だって生ませるだろう。雪芽の内心には気づかずに、な」人差し指と親指で数センチの隙間を作り、「こんくらいのチビのころからあいつを知ってる身としてはそういう展開は見たくないんだよ」

 何だそれ、とあきれ返った。それじゃあ楠本には精神的なもの以外は何のメリットもねえじゃねえか。そんなの、まるで──。

「そこまでするのは七条先輩に──」惚れてるからなんじゃねえのか、と問おうとしたが、

「勘違いしないでくれよ? 雪芽のことを女として見たことは一度もない。あいつは妹みたいなもんだ。裸を見ても抱きたくはならねえよ」それにな、と楠本は元の浮わついたオーラをまとった。「俺ってば、特定のパートナーは作らない主義だから。別れにくい恋愛って怠くね? っぱコスパ&タイパ最強はセフレっしょ」

 やはりあきれて俺は、一拍後、「どんでもないヤリチンっすね」と軽口を叩いてやった。

 ははは、と品のよい笑い声。



 楠本と別れ、見ず知らずの他人の群れが奏でるメロディーがひっきりなしに交錯する街の夜を縫い歩く。

 耳を塞いでも聞こえてくるこもごもの感情が煩わしい、昔はそんなふうに思っていたが、いつのころからか悪くないと思うようになっていた。

 ホスト風の男に腕を絡めるサイバー系のビビッドな女、眉間のしわが取れなくなりそうなほど難しい顔をした中年男、かしましく唾を飛ばしてだらだらと歩くおばさんども、初々しいぎこちなさを漂わせる幼いカップル、雑居ビルの脇でくすんだ壁に額を押しつけてぶつぶつ言っている清潔感皆無の青年。

 マジでいろんなやつがいるな、と思う。いろんなやつがいてマジウケる、と。

 だから、七条先輩みたいに巨乳フェチ疑惑のあるややこしい性格の無駄に優秀なクソレズがいても何ら不思議でもなければ悪くもない。悪くないんだ。だって、判子絵みてえな人間ばっかだとつまんねーもん。そんなんじゃこんな世界、すぐ飽きちまう。人間っつーコンテンツにやり込み要素を加えてくれる彼女は、人として魅力的で、エンターテイナーとして優秀だ。

 ──だが、どうすっかなー、と悩ましいところでもある。

 七条先輩の依頼内容は、〈楠本との婚約を解消したい〉だ。黙示的には、〈少なくとも当面の間は結婚しなくてもよい状況にすること〉も含まれる。つまり、楠本との婚約がなくなってもほかの婚約者ができたら意味がない。

 楠本との結婚生活は形式的なものになるだろうから別にいいんじゃね? と提言するか?

 ──いや、おそらくうなずきはしないだろう。親父さんからの、七条の血を継いだ子を早く生め、という要求が消えるわけではないだろうし、七条先輩の性格を考えると偽装結婚を受け入れるとは思えない。籍を入れたからには相応の実態がなければならない、健全な夫婦としてなすべきことはなすべきだ、と融通の利かない理想主義的な〈べき思考〉でもって却下されるのは容易に想像がつく。

 同性愛者であると両親にカミングアウトして理解を求めてみてはどうか? と言ってみるのはどうだ?

 ──これも難しそうだな。

 レズとかホモとか、そういった連中の気持ちはよくわからねえが、七条先輩について言えば、そんな噂を聞いたことがないという事実から懸命にひた隠しにしてきたことが窺い知れるし、気軽に打ち明けられるものではないのだろう。やはり難色を示しそうだ。それに、この場合も〈べき思考〉が足を引っぱりかねない。〈人間は皆、異性愛者であるべきだし、本来はそのようにできているはずだ。同性愛なんて非生産的で歪んだ性愛は唾棄すべきものだ〉ってな具合にな。

 ──はあ、と溜め息。

 やはり、これは悪問奇問だ。一筋縄ではいかない七条先輩の心が許す範囲内で問題を解決しなければいけないってのは、本当に難しい。ちょっとばかし早熟なだけの凡庸な脳細胞ではぽんぽんと妙案は浮かばんて。

 さっき挙げた幼いカップル──中一ぐらいか──が交差点で足を止めた。俺もその斜め後ろで立ち止まり、信号を待つ。

 ぼんやりと彼らを視界に収めていると、少女の手が少年の手の近くをゆらゆらとさ迷いはじめた。近づいたり離れたり。手を繋ぎたいのかね──懐かしさが込み上げてくる。

 楠本は、「こうやって人に『助けて』って言えたんだから、雪芽の口から真実が伝えられる日も遠くはないんじゃねーか?」と長い目で気楽に考えているようだった。

 自らを形作る価値観、殻あるいはおりを破ろうという意思がわずかでもあるからこそ一人で抱え込もうとする性質に逆らって俺に相談した。すでに罅割ひびわれてはいる。時間が経てばそれこそ自分自身の力だけで解決する──その解釈には一理ある。

 だが、そんなのは嫌だ。依頼されておきながら何の成果も提供できないなんてのは、ダサい。プライドが許さない。

 小学生のころのカラオケ大会では敵として、そして高校生になったら依頼人として俺を困らせてくるとは、本当にいい女だよ。

 信号が変わる瞬間、少女の指先が少年のそれに触れた。

 本人そっちのけでうだうだやっててもしゃーないな。とりま、七条先輩と会ってもう一度話し合うべき・・か──なんてな。

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