俺と七条先輩は街田市立斜陽の森美術館を訪れていた。

 太宰治と村上春樹を交ぜたような名称だが、辞書的に〈斜陽の森〉を解釈すると〈夕陽せきようの差し込む森〉又は〈森林伐採が進み衰退しつつある森〉となる(?)。前者ならまあエモいと言えなくもないが、個人的には〈死の螺旋階段を下る誰かへの恋〉のような世界観を目指している説を推したい。

 と思っていたのだが、初めて来た時それが間違いだと思い知った。館内BGMがビートルズの『ノルウェーの森』だったのだ。森ってそっちかよ、と突っ込んだのはほろ苦い思い出だ。

 その、貧乏らしき少女に弄ばれた森の一角で、虚無った表情の成熟した白人女性が大きな貝殻の上に突っ立っている。その左側ではわしのような翼を背中に生やした男性が貝殻の女性とは別の白人女性を抱きかかえており、右側では花柄のワンピース・ドレスの女性がマントを持っている。

「『ヴィーナスの誕生』の神話は知ってるっすか?」俺は七条先輩に尋ねた。

 贋作がんさくだというその絵画を眺めているところだった。今日は〈世界の贋作展〉なる催しをやっているらしく、誰でも名前ぐらいは聞いたことがあるような名画(のパチモン)を鑑賞できる。

 整形美人でも美人は美人、偽物でも美しいものは美しい、そんなふうに考えている俺には贋作で十分だ(この絵のヴィーナスとやらは解剖学を小馬鹿にしたような非人間的な体つきをしていて真面目に見ると嗤いそうになるし、登場人物に影がないのもホラー的で噴き出しそうになるが。この作者は、「おもしろければ整合性なんてどうでもいいんだよ!」とうそぶく小説家と同類のキッチュな画家に違いない)。

「ギリシア神話だったか?」七条先輩は自信なさそうに答えた。「だが、詳しくは知らないんだ」

「このヴィーナスは、切り落とされた男神おがみの股間のあれが海に落ちてぶくぶく泡立って誕生したらしいっすよ」

「股間のあれ……男根……剛直……わからせ棒……」七条先輩は恥じらうというより憮然ぶぜんとつぶやき、「おちn──いや待て、それはどんな状況なんだ? 荒唐無稽すぎないか?」と惜しくも素面しらふに戻ってしまった。

「そんなの知らないっすよ。口承の低俗ファンタジーを現実的に解釈しようとするのはナンセンスっすよ」

 七条先輩は、それもそうか、とばかりに息をついて肩の力を抜いた。

 ぶらぶらと館内を徘徊し、警備員と監視カメラの死角を把握したところで休憩を提案した。展示室の外の、前衛的で座りにくそうな形のソファーと目に優しくないどぎつい原色のテーブルのある休憩スペースに移動した。

 ソファーに腰を下ろすと思いのほか座り心地がよかったがそんなことはどうでもよく、

「今日呼び出したのはほかでもありません」

 としかつめらしく切り出し、「七条先輩ってレズなんすか?」と速攻で化けの皮を剥がした。

「ふひゃ?」七条先輩は奇声を発した。

「女相手に欲情する女なのかって聞いてるんすよ」

 無限に広がる夜闇やあんのような瞳が、探るように俺を見る。長いまつ毛が瞬き、七条先輩は観念したように吐息を洩らした。「どうしてそう思うんだ?」

「普段の言動っすかね。言動の節々からノンケの女とは違うにおいがするんすよ。リカ先輩相手に照れたりね。それに、引くほどモテるのに男性経験がないのもレズだからと考えると納得できる」

 必要がない限り情報源は明かさない方針なので、何の抵抗もなく嘘が出てくる口で大変都合がいい。

 よく見てるな、と小さく応えて七条先輩は、

「そうだよ」

 と存外にあっさりと認めた。

「それを両親に伝えないんすか」

「それは──」という否定的な声に被せるように、

「何か多様性って流行ってるじゃないすか。流行に乗っとけばまあまあ無難っすよ。人間なんて正しそうな多数派意見を正しいものと信じ込むのが得意な動物ですからね」

「そんなのは駄目だ。多様性という言葉に頼らなければいけないほど自分の娘が特殊な存在だと知ったら、あの人たちは悲しむ。それに、そういう言葉を都合よく言い訳に使いたくない」

「でも、男と、てか、楠本さんと結婚したくはないんでしょ。キスとかセックスとかも嫌なんすよね」

「当たり前だ」

「結婚が形式的なものだったとしても、ですか」

「形式的?」

「偽装夫婦っすよ。籍を入れて同居はするけど実際は他人のままで旧来の夫婦らしいことは何もなし、みたいな」

「偽装結婚には罰則があったと思うのだが」

「あるっちゃあるっすけど、問題になるのは一般的には国際結婚の場合っすよ。同年代の日本人同士かつ幼馴染みならまず疑われないでしょうね。実際、ホモとレズが世間体のために結婚するケースもあるし」

 七条先輩は渋い顔になった。「やはりそういうのは善くない。法が定めた結婚という制度を蔑ろにしている」

「となると、結婚と子作りは仕事と割り切って恋愛は別でするっていうのも受け入れられないんすよね?」

 貴族らしく自由恋愛は結婚の外ですればいいのに、

「そんな不誠実な真似は容認できない」と明確な拒絶。「当然だろう。人の道から外れたことはしたくない」

 わかってはいたが、アホみてえに頭かてえな。女らしい同調意識の高さと完璧主義者の〈べき思考〉が手を取り合って道をこじらせてやがる。と思いつつ半ば駄目元で、

「自分の歩いてきたとこが自分の進むべきだった道ってことでいいんじゃないっすか」

「自分の後ろにしか道がないというのは心細いだろう」

「解放感パねえと思うっすけど」

「わたしはそんなに強くない。周りに味方がたくさんいないと安心できないんだよ」

「でも、両親にカミングアウトもしたくないと」

 七条先輩は、うん、と大きくうなずいた。「あの人たちの気持ちを考えると口が裂けても言えない」

「……」ふー、と深く息を吐いた。で、「七条先輩」と笑顔を向けた。

 七条先輩はぎょっとしたように身体を引いた。「な、何だ?」顔、怖いぞ? とびくびくしている。

「あんた、めんどくさすぎなんだよっ! エグチでめんどくさい女っすよ?! つーか、すこぶるわがまま! これだから完璧主義者はっ! あんたの場合なまじ優秀だから余計たちが悪い! ほとんどのことで自分の理想を実現できちまうせいで諦めどころを見極める能力が赤ちゃん並みじゃないっすか! あれも嫌これも嫌が通るわけないんすよ、どぅーゆーあんだすたん?」

「だ、だってぇ」と死にかけの蚊が鳴くような声。「嫌なものは嫌なんだもん……」

 そして、七条先輩はおもむろにぺたんこパンプスを脱ぎ、ソファーの上で膝を抱えて体育座りを始めてしまった。いじけたように膝に顎を乗せてさえいる。泡高のクールビューティーは見る影もない。

「完全にキャラ壊れてるっすよ」

「いいもん、知り合いは誰も見てないもん」

 と言うので七条先輩の後ろを見ながら、

「あ、リカ先輩」

 と言う。

 バッとすばらしく機敏な動きで居住まいを正しつつ振り返った七条先輩は、そこに誰もいないと知ると非難がましいジト目を向けてきた。「嘘つき」

「先輩も似たようなもんでしょ」

 それはそうかもしれないが、と七条先輩は言葉をもごもごさせ、再び体育座りになった。

「なあ、わたしはどうすればいいと思う? やっぱりどこかで妥協するしかないのかな」

「一般的には妥協の上手な人が生きるのの上手な人ですからね。幸せに生きるには妥協を重ねていくしかないとは思うっすけど──」飛び抜けたガチの天才以外は。

 はあー、と魂ごと吐き出しそうな憂鬱の極みみたいな長く太い溜め息をついてから七条先輩は、「大人にならないといけないんだろうな、やはり」

「もう高三っすからね」

「……まだキスすらしたことないのに。面倒くさいことは忘れて、かわいくておっぱいの大きい女の子といちゃいちゃして暮らしたいよ……」

「鏡見ながら自分の乳を揉めばいいんじゃないっすか」

 何言ってんだこいつ? 自分ので幸せになれるわけないだろう? というような唐突に正論を思い出した顔をされ、疲れがどっと押し寄せてきた。

 気づけば喉も渇いている。入り口の所にある自販機で何か買ってくるか、と立ち上がった。

「ちょっと飲み物買ってくる」

 と断ると、

「わたしはミルクティーでいい」

「俺に奢れと」いうことらしかった。

 ので、とぼとぼだらだらと館内を歩く。土曜日ということもあってか子供の姿が多い──のか? 常連客ってわけじゃないからよーわからんな。

 そんなことより、依頼どうすっかなー、というところである。七条先輩を納得させるには、同性愛者であることを隠したまま道徳的に瑕疵かしなく両親の結婚の要求をかわせる理由を用意しなきゃならない。自由恋愛によらない結婚は嫌だからという個人的感情のみに基づいて強硬に刃向かうのは乗り気じゃないとなると、非常に難しい。家族関係に妙な亀裂を作らないという条件をクリアしつつというのが、彼女の中では当然の大前提となっているというのもある。俺だったら、「俺、同性でしかたねーんだわ。すまんな」とぶっちゃけて終わりなんだがなあ。

 自販機の前まで来た。のだが、ミルクティーは冷たいのと温かいのが売られていた。どっちがいいか聞いていなかったのだ。

 とはいえ、いちいち確認するのもどっちがいいか考えるのも面倒だった。両方買うことにした。先に七条先輩に選ばせて余ったほうを俺が飲めばいいだけだ。

 二つ折りの安手の財布を開く。小銭を取り出そうとしたその時、最近入手してしまったある物が目に入った。で、

 ──あ、これならいけるかも

 とひらめいた。

 通常は採りえない選択肢だが、七条先輩ならその選択のために必要な要素はすべて兼ね備えているし、親父さんにもメリットはある。当然、法に触れるわけでもなければ嘘をつくわけでもない。

 悪くない方法に思えた。何なら、あのわがまま姫を納得させるにはもうこれしかねーんじゃねーか、とさえ思う。

 つーか、俺の弁舌次第では小遣い稼ぎにもなりそうだ。

 ぺろりと唇を舐めた。いくら引っぱれるか。人材紹介会社の紹介料の相場に鑑みると、最低でも三百、できれば五百はいきたいところ──。

 やはりなかなかいい案だ。



 ご所望の温かいミルクティーを渡すと、俺は尋ねた。

「今も歌ってるんすか」

 唐突な舌足らずの問いゆえだろう、「?」と七条先輩は疑問符を浮かべた。「昔のように習ってはいないが、たまのカラオケぐらいなら」

「何だ」と拍子抜けした。「じゃあ今戦ったら楽勝じゃん」

 初夏の風にそよめく鈴蘭すずらんのように優しく静かな笑みが咲いた。「朝陽君はあのころからずっと歌いつづけているのか?」

「歌ってるっすよ」特に福は混入していなそうな余り物の冷たいミルクティーのキャップを回した。ペットボトルの口から甘い香りが漂う。「七条先輩に負けてから聴かず嫌いしなくなった。今なら演歌好きの審査員にも対応可能っすよ」

 少し強めの風が吹いたのだろう、鈴蘭は先ほどよりも大きく華やぎ、「あの時は焦ったよ」なんて歌う。「わたしより小さいのに喉元にナイフを突きつけてくる男の子が現れたんだからな。もうなりふり構っていられないと思った。わたしはジャンプアニメが好きでな、あの時もアニソンを歌うつもりだった。だが、自分の好きなようにやっていたらこの子には勝てない、そう悟った。だから、勝つためだけの歌を歌わせてもらった、はしたないとは思ったがな」

「……」嘘つきな表情筋は乱れない。「大太刀で返り討ちに遭った気分だったっすよ」

 ふふ、と笑う七条先輩は、やはり完成された美の体現者だった。

 国色天香こくしょくてんこう仙姿玉質せんしぎょくしつ羞花閉月しゅうかへいげつ、などなど──美人を表す四字熟語は数多あまたあれど、そのどれもが大げさで馬鹿みたいだと、どうせ権力者に胡麻ごまるための世辞が由来だろうと今までは思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。

 この、あまりにも有象無象と隔絶した美しさの価値はどのくらいだろうか。

 それを知るためにも俺は口を開いた。

「七条先輩、普通の女の子をやめてみないっすか?」

 驚いたように目を大きくして七条先輩は、「……『普通の女の子』と言ってくれるんだな」と悲しんでるのか喜んでるのか判断の難しい、そして無駄にシリアスな声音。

 シリアスにはコミカルをぶつけろと口酸っぱく言われて育った記憶は、まあないんだが、それに従って、

「アホほどめんどくさくて馬鹿みたいにわがままで、しかも言うこと聞いてやってもヤらせてくれない、男からすれば圧倒的クソofクソな普通の女の子(特大地雷)って感じっすね」

 と一息に言ってやった。

 七条先輩は一瞬ぽかんとしてから、

「爆発したほうがいいか?」

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