俺が名乗ると、アニメ声の先輩は、「リカって呼んでねー」と返してきた。

 狸顔たぬきがおだし、あの有名なリカちゃん人形に雰囲気が似ているかもしれない。そう伝えると、「リカちゃんでもいいよー」と笑っていた。

 名字も漢字も不明なリカ先輩だったが、彼女の、世界は自分の主観のみでできていると言わんばかりの自分語りオンリーの話を聞いていくに従い、七条先輩と同じ文系クラスで都内の私立大学を目指していること、映画やドラマ、アニメが好きで演劇部に所属していること、最近太ったらしいこと、今日はブラが黒でショーツが赤であることが判明していった。

 リカ先輩は、たまごサンド(と本人は思っているてりたまサンド)を食べおわると、

「夏君は好きー?」

 と唐突に来た。

「たまごサンドなら普通っすね」

 リカ先輩は、「雪芽ちゃんはたまごサンドじゃないよー」ところころと笑った。

 七条先輩のことは好きか、という質問だったのだろうか。それなら、

「七条先輩のことは嫌いっすね」

「えー、何でぇー?」リカ先輩は目を丸くした。

「昔、俺の邪魔をしたから」

「へえー」

 それから、リカ先輩は四方山話よもやまばなしへと軌道を戻した──ほかの生徒のように、「七条先輩とはどういう関係なの?」「昨夜はお楽しみでしたね」「いったいどんな弱みを握ってるんだ?」などと聞いてくる気配はない。

 なぜだ? リカ先輩には真実を話したのか。

 と疑問に思い、

「七条先輩から昨日のことは聞いたっすか?」

 と尋ねてみた。

「聞いてないよー」

「リカ先輩は詮索しないんすね」

「え、だって普通の友達なんでしょー? じゃあ別にぃー」

「……なるほど」

 つまり、何らかの理由──おそらくは婚約者の存在を知っており、かつ七条先輩がその彼を裏切るようなことはしないと思っているのだろう──により、リカ先輩は俺と七条先輩が付き合っているわけではないと確信しているのだ。

 七条先輩は友達が少ないことを恥じらっていたが、こういう友人が一人でもいるならマシなほうだろう。だが──、

「ねえ、じゃんけんしよー」リカ先輩が言った。「はーい、じゃんけん、ぽおん」

 日本全国でいにしえから行われてきた洗脳教育のせいで、そう言われたら右手が反応してしまう身体の俺は、半ば無意識にチョキを出していた。

 リカ先輩はパーである。頭が、ではない。といいな。

「……」彼女は自らの手を見つめながらパチパチとまばたきし、次の瞬間、パッと手を握り、こちらにニヨニヨした顔を向けた。「わたしの勝ちだからぁ、学校に戻ったらぁ、〈美人すぎる片思い相手への劣等感にむしばまれて、つい手頃な女の子に手を出して自尊心と性欲を満たした男の子〉と〈美人すぎる女友達への積年の恨みからその子の唯一の男友達を自分のものにしようと行動に移しちゃった女の子〉って設定で雪芽ちゃんをからかって遊ぼーね」

「嘘だろマジかこの人」

 ──癖が強くて妙に疲れるのは、圧倒的な減点ポイントだ。



 七条ただし、四十五歳。東京生まれの東京育ち。都内の難関私立大学の政治経済学部を卒業後、某ベテラン議員の秘書として就職。二十五歳になると街田市議会議員に立候補し、凛々りりしい眉の端整な顔立ちと堅実なスピーチで支持を集めて当選。その後も精力的に活動を続け、現在は参議院議員をしている。

 ──七条先輩の親父さんについてネットで調べたところ、そのような情報が出てきた。つまずくことなく政界で生き残ってきたということぐらいしかわからなかったから、おそらく時間の無駄だったな。

「そんなに緊張しても、人間、なるようにしかならないっすよ」

 俺の隣を歩く強張こわばった顔の七条先輩に向かって言った。

「あ、ああ、わかっている」

 そう答えた七条先輩は明らかに平静ではない。

 今日は日曜日、例のヘブンで待ち合わせをし、そこから徒歩で七条先輩の家に向かっているところだった。目的は、もちろん親父さんを説得することだ。

「わたしは朝陽君と結婚するから佐助君とは結婚できない、わたしは結婚と朝陽君するから結婚とは佐助君できない、わたしは佐助君と朝陽君するから結婚とは結婚できない……」

 七条先輩は自己暗示を掛けるように硬い表情でぶつぶつ繰り返している。傍目はためにはヤバい女にしか見えない。



 玄関をくぐると七条先輩の母親が出迎えた。和服の似合いそうな人だった。この人こそ『天城越え』を歌いそうだ。

 あからさまな値踏みの視線を浴びせられつつ客間に通された。母親が親父さんを呼びに客間を離れると、革張りのソファーに身体を沈めた。一人分のスペースを空けて七条先輩も座った。膝をきれいに揃える上品な座り方が板についていて、先ほどまで意味不明なことをつぶやいていた人と同一人物とは思えない。

「七条先輩って、しゃべらなければ完璧な女ってやつっすね」

「そう、なのか? 初めて言われたが」納得はいっていないようだったが、「君と話していると初めてだらけで楽しいよ」と多少は表情を緩めた。

 程なくして親父さんが現れた。その後ろに母親もいる。二人の相手をする必要があるようだった。

「はじめまして、七条忠だ」と親父さんのほうから挨拶をしてきた。職業ゆえか、人当たりのいい雰囲気をまとっている。腹の底がまるで見えないポーカーの強そうな男だ。

 挨拶を終えると、

「こちら、手土産の越後武士えちごさむらいです」

 と酒税法のせいでリキュール扱いしなければならないアルコール度数四十六度の日本酒を差し出し、そして茶番が始まった。

 クエスチョン1──「夏目君も泡沫高校だと言ったが、将来のことはどのように考えているのかね?」

「大学に進学したいと考えています」

「第一志望は?」

「都内の国立大の法学部を目指しています。将来的には何らかの形で法に携わる仕事をしたいと思っております」

「ほう。では、簡単な問題を出そう。刑法における人の始期は一部露出説を判例ないし通説としているが、民法における通説は?」

「民法の場合は、独立の存在であると明確に認められることを重視して全部露出説を採用しています。七二十一条と八百八十六条の運用において特に重要な論点です」

「ふむ、よく勉強している」

 クエスチョン2──「雪芽とは学年が一つ違う。二人とも部活をしているわけでもない。接点などないのではないか? どのようにして知り合ったのだね?」

「友人の頼みで、ある人を捜している時にお話しさせていただいたのがきっかけでした」

「その頼みというのは?」

「それは依頼人のプライベートに関することなので、申し訳ありませんがお教えすることはできません。ご容赦ください」

「いや、こちらこそ失礼した」

 クエスチョン3──「夏目君も街田市在住ということだが、ご両親は何をされている方なのかね」

「父は介護福祉士、母は看護師をしております」

「ご兄弟姉妹はいるのかね?」

「いえ、一人っ子です」

「であれば、比較的に家事は得意なほうなのではないか」

「ひととおりこなせはしますが、得意というほどではないかと思われます」

 クエスチョン4──「単刀直入に聞かせてもらうが、雪芽のどこにかれたのか教えてもらえるか」

「美貌、身体能力の高さ、頭の良さ──」

「……」

「──といった長所を台無しにする複雑怪奇な精神性ですかね」

「ぶはっははははは──いや、すまない、たしかにそういう面もあるな」

 予想に反して和やかな面談になっていた。七条先輩もほっとしているようだった。

 しかし、その弛緩しかんした時間は、続く親父さんの言葉で終わりを迎えた。

「なるほど、たしかに夏目君は悪い子ではないようだ。話ぶりから知性も感じる。個人的には嫌いではないよ──」

「それなら──」認めてもらえますか、と、そう言おうとしたのだろう七条先輩を親父さんは、

「だが、認められない」

 と静かに制した。「悪いが、今日をもって雪芽とは別れてもらう」

「理由を伺ってもよろしいでしょうか」俺は尋ねた。

 納得しなければ受け入れられないというのは、自分を頭のいい人間だと勘違いした中途半端な知能しかない馬鹿にありがちな悪癖だが、今のこの質問は今後の動きのためにもできるだけ情報を得ておきたいという思惑から出たものだった。

 惜しいな、とつぶやいてから親父さんは答えた。

「血だよ」

「僕が華族の家系ではないから、ということでしょうか」

 僕なんて一人称を使ったのは人生で数回しかない。気持ち悪くて肌が粟立あわだつが、表情は真顔をキープだ。

「そうだ」親父さんは厳かに首肯した。「血にこだわるのは愚かだと思うかね?」

「いえ、血統そのものに価値があるという考え方も否定すべきものではないですし、生まれてくる子の潜在能力の期待値をシビアに追求するなら合理的な選択だとも思います」

 お追従ではなく、本音だった。サラブレッドはやはり強く、魅力的だ。そんなことは子供でも知っている。

「すまないね」

 そんなふうに眉を曇らせる親父さんは、演技をしているようには見えなかった。悪人ではないのだろう。ただ、華族というものにとらわれているだけだ、七条先輩が他人の理想に縛られているのと同じように。

 結局、七条先輩とは別れることを約束し、彼女の家を辞去した。

 完全敗北でゲームセット。無理ゲーでジャイアントキリングはマジ無理ゲー。今回は依頼失敗。しゃーない、切り替えてこー。

 ──なんて気はさらさらない。

 親父さんには、「わかりました、忠さんのご意思を尊重いたします」などと言ってきたが、もちろん空言そらごとである。尊重すべきは依頼人の意思であって相手方や第三者ではない。

 つっても、今更、血統を変えることはできないし、四十を過ぎた男に思想を変えさせるのも怠すぎるので親父さん攻略は潔く諦める。

 というわけで、次善の策、〈親父さんが駄目なら婚約者を攻めよう作戦〉始動である。ネーミングセンス(笑)。



 ──まあ作戦つってもやることは単純明快だ。

 恋人がいることを理由に婚約者に婚約解消を申し入れるだけだ、七条先輩が。

 俺は何をするのかって? 

 見守ってるよ、七条先輩が婚約者の楠本くすもと佐助とやらに電話しているところを。

 親父さんとの面談の翌日、月曜日の放課後に駅近くのスタバを訪れた俺と七条先輩は、テラス席に着いた。そして、なだめすかされた七条先輩が楠本へと電話を掛け、今に至る。

「え、寝取り男はどんなやつか? そ、そうだな……」

 スマホを耳に当てたまま七条先輩が俺を見た。難しい顔をして、「優しいのではないか? おそらく」と電話口に答え、次いで俺の飲む抹茶ラテに視線をやり、「あと、抹茶スイーツが好きだな」

 ブチ切れて取り付く島もないという感じではなさそうだった。穏やかに婚約解消を受け入れてくれたらいいが、と思って見ていると、

「え、それは……」

 七条先輩が驚きとおびえをない交ぜにしたような声を出した。「す、少し待っていてくれ」それから送話口を押さえ、探るような声を俺に向けた。「佐助君が朝陽君とサシで話したいと言ってるんだが」

 会ってみて納得できたら破婚してくれるということだろうか。楠本の心情を思うと妥当な反応だろう。

「いいっすよ」と答える。「日時と場所はそっちの都合に合わせますって伝えてください」

 七条先輩がその旨を伝え、そしてそれらを決めて通話を終えた。

「はあ」七条先輩はお疲れ顔でくたびれた溜め息をついた。

「お疲れ様」

 今までの生き方に反することをするのは精神力を使うのだろう。「本当に疲れた」七条先輩はつぶやくように言った。で、俺に不貞腐ふてくされた目を向けた。

「こういうとき恋人なら優しく慰めるのではないか」

 薄く朱に染まる唇を控えめに尖らす様は、理性的であろうとする未熟な少女性を窺わせた。

「誘ってるんすか」

「え、いや、そ、そういうつもりではなくて──」

「別にいいっすけど、別途料金を貰うっすよ」

「……ここまでしょっぱい対応をされたのは人生で初だよ」

 言葉は使わず肩をすくめることで答えた。



 楠本佐助との話し合いの場所は、しくも先日七条先輩と訪れたスタバであった。

 前回来た時には七条先輩が座っていた席で、小綺麗こぎれいな身なりながらどこか軽佻浮薄けいちょうふはくな印象を与える青年──楠本佐助がひどく秀麗な眉目に薄い笑みをたたえていた。

 聞いていた人物像とだいぶん違うが、女の語る、特別な感情を抱いている知己への評価などそんなものだ。驚きはなかった。

「今日は会ってくれてサンキューな」

 フィーリングが正しかったことを告げる軽薄な口調だった。が、最初に相手への気遣いを口にする辺りモテそうだな、と思った。そして、モテる男というのは観察眼に優れ、頭の回る油断ならない雄であることがほとんどだ。何かたくらんでんのか、と警戒レベルを引き上げた。

 ふふ、と鼻息だけで笑って楠本は、「ビビってるっしょ?」

「客観的に見れば、三角関係の末の修羅場っすからね」

 ははは、と育ちの良さを窺わせる、いやに白く輝く整然と並んだ歯を見せて楠本は、話し方とはえらくちぐはぐな上品な笑い声を立てた。「だな!──よくも俺の雪芽に手出してくれたなあ?! 片玉潰しぐらいは覚悟しろやあ!?──的な?」ふふふ、と何が楽しいのか再び笑いを零した。

 日の傾いたテラス席の柵の向こうは、駅前特有の煩雑な人の群れがのべつ幕なしに通り過ぎてゆく。

「スタバってよ」楠本がチョコレートケーキにフォークをぶすりと刺しながら唐突に言った。「意識高い系をよく見るじゃん?」

「そうっすか。あんま来ないんでよくわかんないっすけど」気の抜けたコーラのような相づちを打ちつつ俺は、モンブランを口に運ぶ。

「でも、ここって大衆向けのチェーン店じゃん。そこで気取っても改造チャリでイキってるガキみたいで滑稽だと思わね?」

 少し離れた席でマックブックを開いてカタカタうるさくしているジャケパンスタイルの男がこちらを一瞥した。

「人間なんてそんなもんじゃないっすか。表層を流れていくだけの空中楼閣くうちゅうろうかくめいたイメージに操られて、冷静に考えると変な行動を恥ずかしげもなくやってしまう。『俺だけは違うけどな』なんて思いながら」

「ははっ、皮肉るねえ」囃し立てるように楠本は言った。「なるほど、君ってそういう感じなのね」

「一端を見ただけで全部を知った気になる、も追加で」

「はーい、早合点の馬鹿でぇーす」楠本は愉快そうにおどけた。

 それから、楠本は核心を避けるようにサークルの話を始めた。彼はチョコレート研究会というものに所属しているらしい。いろいろなチョコを研究するという名目でチョコを食べながら駄弁るサークルだそうだ。

「──で、いろいろ食べてきて思ったのが、明治の板チョコが一番だってこと」

「何すかその、美人を何人も食ってきたけど結局は地味で普通な女と結婚する男みたいな感想」

「そそ、そんな感じ。遊ぶだけなら派手なほうがいいんだけど、腰を据えるなら地味なぐらいのほうがいいっしょ」

「わからなくはないっすけど。疲れて帰ってきて玄関を開けた時に脂の乗った最高級の大トロみたいな女が出てきたらげんなりしますからね」

 隣のテーブルでフラペチーノを飲んでいる、夕方なのに隙のないメイクを維持したパンツスーツの美女が、ちらと流し目を送ってきた。

 楠本はまた品のある笑いをまき散らし、そして息を落ち着けると不意に、にやけ面の瞳に怜悧れいりな光を浮かべ、

「雪芽と付き合ってるっていうの、嘘なんだろ?」

 とようやく本題に入った。

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