女は共感を、男は解決を求める。

 などと心理学者だか脳科学者だか恋愛コンサルタントだかは声高に主張するが、誤解と迷惑を恐れずに傾向を断定的に述べているにすぎず、すべての人間のすべてのケースに適用できる普遍的な公式ではない。

 適当に共感を示しつつ差し色程度に対立的なことを言っておけば勝手に満足してくれる、いわゆる女性脳の相手をするのが個人的には一番楽だが、所感では七条先輩は比較的に中性的な感性を持っているように感じるし、特に今回の話の場合、共感よりも具体的な解決策を求めているように思う。

 なので、それを提示してやるのがいいんだろう。

 が、問題の本質が七条先輩の〈理想の娘でなければならないと考えてしまう精神性〉にある以上、周りが「こうすればいい」「こんなふうに考えればいい」といくら言ったところで彼女がその自縛を破れなければ無意味だ。というより、やるべきことは決まっているのだ。

 七条先輩が父親に逆らう、これだけだ。

 しかし、それが何より難しいから彼女は悩んでいる。

 つまり、俺がすべきことはどうにかして彼女の臆病な心を勇気づけてその背中を押すこと。

 柄じゃなさすぎるし、心理学の専門家でもない俺にとっては奇問悪問の難題だ──正直なところ、知識や論理で簡単に答えを導き出せる良問よりはおもしろいと思うが。

「七条先輩としては、とりあえずその婚約者と結婚しなくてもよくなればオッケーって感じなんすよね?」

「ああ」七条先輩は首肯した。「結婚するにしても、せめて自分で選んだ人としたい」

「それを正直に伝えればいいと思うんすけど」

 七条先輩は眉尻を下げて困り顔になった。「やはりそうするしかないよな」

 見せつけるように大きくうなずく。「結婚したくない、子供を作りたくないって言ってるわけじゃないんだから親父さんもわかってくれるっしょ」

 ──七条先輩の美貌がかげった。「そうだよな、ちゃんと話さなきゃいけないというのはわかってはいるんだ。しかし……」

 やっぱ不安か。だが、そこを何とか乗り越えないことにはな。

 ううむ、と脳を働かす──と、すぐに一つ浮かんだ。

「何か思いついたのか」無表情に近いクールな顔つきにわずかな期待が浮かんでいる。

「ええ、まあ思いついたっちゃついたんすけど──」七条先輩が良しとするかどうか。

「何だ、歯切れが悪いな。案があるなら聞かせてくれ」

 抹茶ラテで口を濡らしてから、言う。

「適当な男友達に本命彼氏のふりをしてもらうんすよ。要は、一人だと踏み出せない先輩の付き添いと婚約破棄の理由付けがその男友達の役割っすね。

 で、親父さんにその偽彼氏との交際を認めさせる。すると当然、先の婚約は破棄される。

 ま、仮にここまで思惑どおりにいったとしてもその偽彼氏との結婚を急かされるとは思うっすけど、実際に結婚するわけにはいかないだろうから猶予があるうちに、つまりは親父さんがしびれを切らして新しい婚約者を用意するまでの間に先輩自身ががんばって親父さんを説得する必要はあるっすね」

「……別れさせ屋みたいだな」

「みたいっつーか、そのものじゃないっすかね」たいして手を伸ばさなくても触れられる距離にいる七条先輩を窺う。戸惑いの色が濃い。「付き添いがいても怖いっすか」

「そりゃ怖いさ、考えただけで震えてしまう──いや、そうじゃなくて、それも大問題だが一番の問題はそこじゃないんだ」

 わかってます、と応じ、「『親父さんにその偽彼氏との交際を認めさせる』、ここが難しいって言うんでしょ? けど、これくらいはクリアしてもらわないとどうしようもないっすよ。七条先輩の知り合いから適任者を探してください」

「いや、あのな──」

「なら、やっぱあれっすか。こんな詐欺まがいのやり方は受け入れられないってことっすか」

「たしかにきれいな方法ではないが、そうではなくてだな……」と煮え切らない語尾が曖昧に消えていく。

「はあ? じゃあ何が引っかかってるんすか」

 七条先輩は恥ずかしそうにそっぽを向き、「わたしは友達が少ないんだよ。まして男友達なんて佐助君を除けば一人もいない」

「……」

 ああそうか、と納得すると共に自分のミスを悟った。

 だって、他人の理想でいるために分厚い仮面を取っ替え引っ替えしている人間が、そう簡単に心を許せる友人を作れるはずがないんだ。これだけ人から愛されているのに孤独ぼっちだとは、つくづく背理的な女だと感心する。

 どうすっかな、と再び思案開始。金に糸目を付けないなら本物の別れさせ屋を使うのも手だが……、

「なあ」

 七条先輩の、丸みのあるやや低めの声が投げかけられた。眼鏡越しに形のいい瞳が俺を見ていた。ためらいがちな唇が言う。

「その彼氏役、君がやってくれな──」

「嫌っすよ」

「すごい勢いで拒否するんだな」

「そりゃそうっすよ。何でそんなメリットのないことやらなきゃいけないんすか。やですよ」

 電灯に照る虹彩まで真っ黒な瞳はブラックダイヤのようで、見つめられると呑まれてしまいそうだ。それがぱちぱちと瞬き、ふわっとほどけた。優しいな、というささやきが聞こえた。かもしれない。

「では、こうしよう」七条先輩は言う。「この──」と例の、何らかの法に抵触しているであろうラテに視線をやり、「人に薦められない飲み物を見つけたら朝陽君のために買っておく」と、それから俺に視線を戻し、「それならやってくれるか」

「ちょっと今回は負担がでかそうなんで、月一個ペースで一年分の十二個は欲しいっすね。だいたいそのくらいで離脱症状が出るんで」

「『今回は』、ね」と七条先輩はおもしろそうにつぶやき、「それでは、商談成立ということでいいかな」

「いいっすよ、よろしく、偽装彼女さん」

 何も知らない童女のように無防備な笑みが咲いた。

「ああ、よろしく、偽装彼氏君」

 それは高嶺たかねに寂しくたたずむ一輪というよりは、道端でひっそりとはしゃぐタンポポのようだった。



 で、翌朝登校して教室に入ると、いつもは緩い喧騒を演出しているC組の面々が興味津々な視線を寄越してきた。

 訝りながら席に着くと、待ち構えていたらしき潮に迫られた。

「おい、夏目、お前昨日の二十一時から二十二時の間、どこで何をしていた?」

「おいおい、朝っぱらからアリバイ調べかよ」と茶化してみるも、

「嘘偽りなく端的に答えろ」潮の目は真剣そのもの。

「……ゲロを求めてヘブンを回ってた。けど、結局手に入らなくてな、最悪な夜だったよ」

 隣の席の春風が、ゲロって何よ、と困惑している。

「なるほど、あくまで白を切るつもりか」潮はやれやれというような表情。

 何でハードボイルド刑事風なんだよ。猿顔チビがやっても様にならねえよ。

「これを見ろ」非常に偉そうに潮は言い、自身のスマートフォンを俺の机に置いた。

 それには、連れ立ってヘブンを出る俺と七条先輩の画像が表示されていた。盗撮犯カメラマンの腕がいいのか運命の悪戯か、肉体関係のある男女めいた距離感になった瞬間が切り取られており、さらに七条先輩はまるで恋人に向けるかのようなリラックスした飾らない笑顔を画像の中の偽彼氏(俺)に向けている。

 潮は渋い声で言う。「これを撮影した者によると、昨夜二十一時半から二十二時ごろまで、六丁目のヘブンマートのイートインスペースでお前と七条先輩が親しげに話し込んでいたそうだ。『あんなに自然体でかわいい七条先輩は見たことない。遠くから見てるだけでドキドキして大変だった』と証言してくれたよ──これはどういうことだ? 七条先輩のことは嫌いじゃなかったのか?」

「嫌いなのは嘘ではないが」

 不意に潮は、「夏目」と優しい声を出した。「嘘を重ねても裁判官の心証が悪くなるだけだ。速やかに自白して反省する演技をしたほうがいい──お前ならわかるだろう?」

「お前、前に〈疑わしきは信ずる〉みたいなこと言ってなかったか?」

「明白な黒を白とみなすとまでは言っていない」

「明るい白なのに黒なんて撞着語法どうちゃくごほうかよ」

「難しい言葉は慎め!」潮は語気鋭くぴしゃりと言った。

 下唇を突き出して不満を表現してから、「ゲロについて少し話しただけだよ。彼女もゲロを愛飲しているらしくてな、そのことで盛り上がったんだ」

 だからゲロを愛飲って意味わかんないんだけど、と春風も不満げだ。

「はあ」潮はわざとらしく太い溜め息を吐いた。「まったく、往生際が悪い」

「期待に応えられなくて悪いね」

「だがな、もう学校中にうわさは広まっている。言い逃れはできないと思え」

「噂ね──具体的には何と言われてんだ?」

 待ってましたとばかりに潮は目を光らせた。

「〈二人は付き合っていて、その日も近くの七条先輩の家でヤれるだけヤって一段落した後、気分転換がてら夜の散歩に出かけ、何となく目についたヘブンにふらっと入って休憩していた〉というのが学校全体の共通の認識になっている」

「みんな暇なんだな」

 その時、スラックスのポケットからピンコン♪ と電子音──LINEの通知音がした。何か来たっぽい。

「ちょっとごめん」

 と断ってからアプリを立ち上げて確認する。タイムリーなことに七条先輩からだった。

『そっちも昨日の夜のこと噂になってるよね』『迷惑掛けてごめんなさい』『朝陽君のことはただの友達って言っておくから赦してね。。。』

 いやいやいや!? LINEだとキャラ違いすぎだろ?! つーか、これ本当に本人か? 成りすましじゃねえのか? アニメ声の先輩が悪戯してる?

「七条先輩だな」こんなときだけはやたらと鋭い潮が、目を細めていた。「このタイミング、噂についてか。おおかた、交際を認めるか隠すかの相談といったところか──そうなんだろう?」

「ご想像にお任せするよ」

「──ふーん、否定しないんだ」もう初夏も間近だというのに横合いから春の風が吹いた。「朝陽がそうやって肯定も否定もしないときって、だいたい後ろめたい何かがあるよね」緩く腕組みした春風がこちらを見ていた。

 春風は春風でこんなときに限って幼馴染み力を発揮しやがる。

「人間、叩けば何かしらの埃は出てくるもんだろ」

「それそれ、そういうの」

 春風にそう指摘され、ぐっと口をつぐんだ。

「ま、あんたが言いたくないってんならわたしは別に聞かないけど、相手が相手だからね、気になる人は多いでしょうね」

 などと言いつつ春風は、

「──で、ぶっちゃけヤったの?」



 のらりくらりと追及をかわすことに疲れた俺は、四時間目が終わると同時にC組から逃げ出し、校舎からも出て学校の近くの、住宅街の片隅にある、おそらくは管理費をケチられている、うらぶれた公園に来ていた。あるのはお一人様専用のちんまい砂場と背もたれのないささくれ立ったベンチだけだが、一昔前まではブランコと滑り台、鉄棒ぐらいはあったのかもしれない。子供が怪我けがするといけない、撤去しろ、と過保護な親が文句を言ったか、この狭さの公園に遊具四点は欲張りすぎだろう、と公園緑地課の職員が正論を吐いたかだろう。

 人のいない静かな公園だった。ベンチに座り、あんパンをもそもそとやり、口の中の水分が不足したらコーヒー牛乳で補充する。

 と、入り口に人の気配がした。目をやると、レジ袋を提げたアニメ声の先輩が、あ、というように口を半開きにして立っていた。今日は一人のようだった。

 すたすたと近寄ってきたアニメ声の先輩は、韓国風のグラデーション塗りの、内側に行くにつれリップの色が濃くなる唇を開いた。

「嘘つきっ! わたし狙いって言ってたのに結局君も雪芽なんじゃん! どいつもこいつも雪芽雪芽雪芽雪芽って! そんなに容姿のいい女が好きならもうラブドールと結婚しろよ!」

 哀切と嫉妬と憎悪を感じさせる鋭くて味わい深い声調だった。しかし、器用なことに──、

「……楽しそうっすね」

 ──彼女の垂れ目は悪戯っ子のように笑っていた。

 アニメ声の先輩は、あは、とその笑みを満面に広げた。「〈美人すぎる女友達のせいでストレス過多な女〉って設定でやってみたんだけどぉ、どうだったぁー?」

 前に話した時の、水飴のように甘くて粘ついた話し方に戻っている。

「目が笑ってなければ高得点だったっすよ」

 ロリっぽい声とのギャップも悪くなかった。

「やたぁー」

 彼女は、すとんと俺の隣に腰を下ろした。「今日ねー、バレー部の子たちに取られちゃって一人で売店に行ったんだけどたまごサンドなくてさー、仕方ないからたまごサンド買ってきたのー」

 あ、この人、主語やら何やらを必要な分まで抜かすタイプだ、と俺は悟った。

 ちらとレジ袋のロゴを確認。ヘブンのだ。

 つまり、野次馬根性まる出しのバレー部女子に七条先輩を取られてしまったので一人寂しく売店に行ったのだけど、食べたかったたまごサンドが売り切れていて、仕方なく外のコンビニで買ってこの公園に来た、ということだろう。

「やっぱり七条先輩のほうも質問攻めっすか」

「ねえねえ、君は何て言うのー?」

 あ、しかも自分の気持ち最優先の会話をする超マイペースドッジボーラーだ。

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