夜、夕食を終えてリビングのソファーでだらけていると、

「ルナの汚れが少し気になる。そろそろ風呂に入れてやらないと」

 と母さんが俺に向かって独り言を言った。

 俺の足元で四角く香箱座りをしている黒い塊を持ち上げ、全身をじろじろと視姦する。たしかに毛やその間に汚れが見える。鼻を近づけて犬のようにクンクンすると、飼い慣らされた悲しき愛玩動物でも獣は獣だとわかる汗の腐ったような野性的な香り──はしないな、うん。

「にゃー」

 気品に溢れる美しき青い瞳ブルーアンバーが、何すんねん、どアホ、と険をたたえた。

「風呂に入れてもいいか?」と聞いてみた。

「にゃー」

 ルナは、よくわかっていない顔をしているが、水に濡れた瞬間、その凶暴な本性を露にするだろう。例に洩れず風呂嫌いなのだ。

「あんたどうせ暇でしょ。やっといてよ」母さんは今度は明確に俺に言葉を投げてきた。

「えー、やだよ、だらだらするのでちょー忙しいし」

 と、それから寝そべってテレビを見ている父さんに母さんからの言葉をパスする。「父さんやってくんね? 明日休みなんだろ」

 のそっと身体をねじってこちらを見た父さんは、「俺よりお前のほうが上手いだろ。朝陽がやればいいじゃないか」

「怠くて死んでまうわ」

「にゃー」ルナが、わたしってそんなにめんどくさい? というような弱った声で鳴いた。

「ほら、ルナもお前がいいって言ってるぞ」父さんが適当を言う。

「俺にはそうは聞こえないんだが」

「やってくれたら小遣いに色をつけてやるぞ」

「先払いなら前向きに検討する」



 父さんからはした金を頂いた俺は、雲で濁った月明かりの下、自転車のペダルをいでいた。

 五月も半ばを過ぎているが、夜風はいまだ涼しさを運んでくる。顔がうそ寒い。

 へブンマート──業界最大手のコンビニで、通称は〈ヘブン〉──の看板が見えてきた。

 ヘブンには〈さばの味噌煮フレーバーのチョコミントラテ〉という、商品開発部の馬鹿どもが食べ物(飲み物)で悪ふざけした結果、誕生してしまったのだろう地雷感たっぷりのレギュラー商品がある。

 初めて飲んだ時は、何だこのクソまずい飲み物は?! と吐きかけたものだが、どういうわけか一箇月もすると無性に飲みたくなっていた。衝動を抑えきれずに再び口にした俺はやはり、何だこのゲロまずいクソは?! と喉の奥からせり上がってくる吐き気を抑えるのに苦労した。

 しかし、しばらく経って忘れたころに欲しくなるのだ、強烈に。後悔すると知っていても買わずにはいられない。

 入り口の自動ドアをくぐり、一直線にチルド飲料のコーナーへ行く。カフェラテ、カフェオレ、エスプレッソなど常識的な商品の中でいつも異様な存在感を放っているそれを探したが──、

 ねえな。

 売り切れていた。この世の終わり、ラグナロクの始まりを悟った無辜むこの民の気持ちが今、完全に理解できた。すなわち、絶望である。

 とはいえ、まだ心は折れていない。薬物中毒者が一度や二度の逮捕でへこたれることがないのと同じように、俺の細胞に住まう〈鯖の味噌煮(以下略)〉への深い愛とその裏側に、誰かが吐き捨てたガムのようにこびりつく依存心は簡単には消えないのだ。

 二番目に近いヘブンへ向かう。

 が、駄目。またもやソールドアウト。なぜこんなゴミが売れるのか。ゴミだから入荷数がそもそも少ないのか。

 次だ、次──しかし、次の店舗にもそれはなかった。

 くっ、いったいどうなってやがるっ? 今日は厄日なのか? ロキが悪戯でもしてんのか? ざけんなよ。

 棚の前で歯噛みしていると、

「夏目君がこのコンビニに来るなんて珍しいね」

 バイト店員──同じ小・中学校出身の出雲いずも花凜かりんの声が背中にぶつかった。彼女は現在、街田にある進学校の星空ほしぞら高校に通っている。

 振り向き、「これを探してるんだよ」とくだんの商品の値札を指で叩いた。棚にぽっかりと空いた穴は哀切を漂わせている。

「うわあ」出雲は眉間にしわを寄せた。「夏目君もそれ飲むんだ」

「そうだよ、悪いか」

「悪い、かも」出雲は店内をさっと見回してから少しだけ声を潜め、「前に本社の人に『何でこんなのがレギュラー商品なんですか?』って聞いたことがあるんだけど、『それは社外秘だから答えられない』って怖い顔で言うんだよ、ヤバくない?」

「人生において本当に価値のあるものは、得てして危ない橋の先にあるんだよ。リスクは最高のスパイスって道徳で習っただろ? そういうことだよ」

「初耳なんだけど」

 と出雲が答えたところで、入店を知らせるポップな電子音が鳴った。

「わたし戻るね」出雲はレジへと帰っていった。

 はあ。溜め息が洩れるが、嘆いていても始まらない。もはや〈家から近い〉という修飾語のカバーできる距離を超えているが、次に近い所へとペダルを踏む。

 四軒目に入店すると、またしても視界に見知った顔が映った。七条先輩だ。彼女はレジの右奥のイートインスペースの止まり木で物憂げな吐息を洩らしていた。一人だし眼鏡だし制服でもない。パーカーにデニムという、近所のコンビニでも流石に完全な部屋着のままじゃちょっとな、でもちゃんとしたよそ行きの服に着替えるのも面倒だな、という思考をたどったことが透けて見える格好だった。

 が、そんなことより俺は七条先輩が〈鯖の(以下略)〉を飲んでいることに震えた。嫌な予感がビンビンだった。

 早足にチルド飲料の棚へ行き、で、スルトの炎に焼かれた。売り切れである。泣ける。

 ……さて、どうしようか。ほかの店に行くか? 

 と一瞬迷ったが、ほかでも売り切れていそうな気がしたので泣く泣く諦めることにした。

 はあ。深くて重い溜め息が洩れ出た。

 で、おぼろげな足取りでイートインの七条先輩の所へ向かった。

「あれ、君は──」

 と俺に気づいた七条先輩に向かって言う。

「七条先輩、世の中には二種類の先輩がいます」

「は? いきなり何を」と目を丸くする七条先輩の言葉は無視して、

「かわいい後輩のゲロまずラテを横取りする先輩とそうでない先輩の二種類です。したがって、七条先輩は絶対悪です。断じて赦されるべきではありません」

 完全無欠の八つ当たりである。

 七条先輩は大きな瞳をしばたたき、テーブルのラテを、次いで俺の顔を見た。

「あー、その、これはやめておいたほうがいいと思うぞ。一口飲むたびに人として大切なものを失っていってる気がするんだ」

「一時の快楽に勝る大切なものなんて存在しないっすよ」

「極端な子だな、君は」



 七条先輩が飲み物──抹茶ラテと抹茶ポッキーを奢ってくれたので、イートインで彼女の隣に腰を落ち着けて休んでいくことにした。

「どしたん? 話聞こうか?」

 と、そのとおりに言ったわけではないが、好奇心からそういう趣旨のことを尋ねてみた。

 すると、七条先輩は恥ずかしそうに苦笑した。彼女は、よくある話だよ、と前置きし、

「大学のことで父親から小言を言われてしまって、親子喧嘩というほどではないんだが、何となく家にいたくなくてな」

「へえ、七条先輩の成績でも文句言われるんすね──あ、もしかして文系が駄目とかっすか?」

 七条先輩はゆるゆると首を左右に揺り動かした。「そうじゃない」

「じゃあ、女に学歴は必要ない、とか、そういうことを言われたんすか?」

「惜しいな。正しくは、女が、ではなく、わたしが大学に行く必要はない、だ」

 なんでやねん。

 そう思ったが、七条先輩の家が旧華族だったことを思い出し、もう一つのそれらしき可能性に思い至った。

「まさかとは思いますけど、『高校を卒業したらすぐに結婚してさっさと子供を生め』って言われてるってことっすか?」

 ふ、と困り顔で笑って七条先輩は、「そのまさかだよ」と正解である旨を告げた。「わたしの父親は七条の血を残すことにこだわっているんだよ」

「先輩は一人っ子なんすか」

「ああ」七条先輩は小さくうなずいた。「運が悪いことに、わたしが生まれてしばらくしたころ母親に子宮体癌しきゅうたいがんが見つかったんだ。その時には卵巣にも転移していた。速やかに摘出手術が行われたそうだ。おかげで母は今も元気だからその点は良かったのだが、七条家存続の全責任と期待がわたし一人に集中してしまった」

 遺伝による子宮体癌の発症や不慮の事故により七条先輩が子供を生めなくなる未来も、息を潜めているだけですぐ近くに確かに存在して機を窺っているのだと実感してしまった父親が焦る気持ちもわからなくはないが、

「親父さんは婿養子ってわけじゃないんすよね?」

「そうだが」と訝しげな柳眉。

「なら、愛人にでも生ませりゃいいじゃん」

 とも思う。金さえ積めば子供を生む女もいるだろうに。

 七条先輩はあきれ顔になった。「そんな非常識なことできるわけないだろう」

「血を残すために進学するなっていうのも今の時代だと非常識になるんじゃないっすか」

「それはそのとおりかもしれないが──」何か言いたげではあったが七条先輩はそこで言葉を切り、例のゲロまずゲロを一口飲んだ。桜色の唇は弱く息をつくと、「やはり時代錯誤だと思うか」

「当事者がいいってんなら別に問題ないとは思いますけどね、珍しいのも事実っすね──」あれ、ってことはよ、と更に気づいた。だから告られてもなびかなかったのか。「七条先輩って婚約者がいたりするんすか?」

「君はなかなか察しがいいな。説明が楽で助かるよ」

「これぐらいは普通の範疇はんちゅうだと思うっすけど」

 七条先輩は、ポッキー貰っていいか? と尋ねてきた。あんたの金で買ったもんなんだから好きにすれば──あ、二本同時にいくんすね。

 七条先輩はポキッとポッキーをかじった。ポリポリと咀嚼そしゃくする音はそこら中に大量発生している不快害虫どブスどもと変わらない。

 泡高のマドンナを入手予定の男は、「どんな人なんすか」

 七条先輩はごくりと喉を動かし、「いい人だよ、わたしなんかにはもったいないぐらいのな──」

 曰く、その婚約者とやらは七条先輩の幼馴染みで、地主の家系のガチ富裕層で育ちも教養も申し分なく、日本で最も偏差値の高い私立大学の法学部政治学科の二年生で頭も要領も良く、すらりとしたイケメンで性格も明るくて優しく、まとめると超ハイスペ陽キャ男子だそうだ。

 しかし、少女漫画にしか生息していないような理想の王子様のことを語る七条先輩の声は、うれしそうでも自慢げでもなく、涙まじりのほろ苦いビターチョコレートのようでもあり、苦しげでさえあった。

 なので、

「何が不満なんすか」

 と尋ねた。あまりわがままを言うと、「高望みしすぎだ。鏡をよく見て身の程を弁えろ」と叩かれまくってやさぐれている世の中の売れ残り婚活女に殺されるぜ?

「彼に不満はない。本当にすばらしい人だと思う」

「ふうん」

 そもそもだ、七条先輩は高卒即結婚出産ルートが嫌で親と険悪になったからここにいるんだよな。その具体的な理由は何なんだ?

「確認なんすけど」と前置きし、「七条先輩は親父さんの方針が気に入らないんすよね?」

「気に入らないと言うと語弊があるが、佐助さすけ君とは、佐助君とはその婚約者のことなんだが、その彼と結婚したくはないんだ」

「それは年齢が理由すか? それとも大学に進学してやりたいことがあるからっすか?」

「そういうわけではないんだ」

「となると──あ、わかった。ほかに好きな男がいるんすね」

 はは、と七条先輩はかすれた、どことなく自嘲的な笑いを零した。「そんな人はいないよ」

「じゃあ何でなんすか」

 七条先輩は窓の外、夜の通りへと視線を逃がし、考えるように、そうだな、とつぶやき、

「自由を知りたいから、かな」

「先輩の立場を考えるとニュアンスはわかりますけど」

 やはり話が早い、と苦笑して七条先輩は、

「予想はついていると思うが、わたしは親の望む理想の娘を演じつづけてきた。本当はもっとだらしない人間なのに勉強も習い事も人間関係も何もかも完璧であろうと努力してきた。いつか自由になれる日が来るはずだと自分を騙しながらな──」だが、結婚してしまうともう死ぬまでその役から降りられなくなりそうで、と言葉を小さくしていった。

「怠いっすね。俺なら三日も持たないっすよ」

「わたしだって三分で投げ出したくなったよ」と冗談めかしてみせた七条先輩の自嘲的な笑顔が、それでも百点満点なのはどんな皮肉だろうか。「でも結局、わたしにできた反抗は特進クラスに入ることだけだった。自分でもどうしてそこまでするのかはっきりとはわからないのだが、もしかしたら強迫観念のようなものなのかもしれない。人の目に映る自分がその人にとって最も好ましい存在でなければならない、と自然と考えてしまうんだ。それを破るのは……とてもとても怖いんだ。嫌われるのが怖いというわけではなくて、何と言えばいいのか……」

 言い淀む七条先輩に助け船を出す。

「漠然とした恐怖って感じっすか? 感覚的にはその殻の外側は宇宙空間か深海みたいに感じてしまい、とてもじゃないけど怖くて飛び出せない、みたいな」

「おー」七条先輩は目を見張って感心した声を出した。「そうそう、まさにそんな感じだ。よくわかったな」

「当て推量っすよ。たまたま当たっただけっす」と肩をすぼめた。「てか、それだと多人数を相手にするとき死にません? 誰かにとっての理想は誰かにとっての悪夢になることだってあるっしょ」

「そういう場合はあまりしゃべらないようにするか、それができないなら、両親の理想の枠内に可能な限り収まるようにしながらその場の人間の理想の総和から算出した平均値を演じるだけだ」

「結果的に無難なキャラになりそう。でも、七条先輩の場合は見た目や実績のバイアスがあるから評価は高い水準に収束するのか?──よくわかんねえっすけど、死ぬほどめんどくさいことやってるのだけは確かっすね」

「死にたくなるほど面倒だな、うん」

 とここまで聞いて俺は、少し身体を後退させて七条先輩の頭のてっぺんから組まれた足の先までをじろじろと観察した──これが俺の理想? 別にそんなことなくね?

「何だ、急に舐め回すように見て」七条先輩が笑う。

「や、今も俺の理想を演じてるのかなって思って」

「ああ、特には演じてないぞ。これは素だな」あっけらかんと前言と矛盾してきた。

「からかってたんすか?」

「違う違う」七条先輩は焦ったように言った。「君の場合は、理由はわからないが、わたしに理想なんか見ていないだろう?」

「あー、なるほど」

「ほとんどすべての人は、自分で言うのも恥ずかしいが、わたしを見ると『美少女だ』『美人だ』と褒めそやすし、自分勝手な好意を持ってそれぞれの理想の少女像をわたしに重ねようとする。けど、君にはそれが皆無だ。前に学食でわたしのことを信じられないほど冷めた目で一瞥して、『壁女には興味ないんで』と言ったことがあったろう? あの時、思ったんだ、この少年はありのままのわたしを見れる子だ、とな。だから、安心して素でいられるんだよ」そして、七条先輩ははにかむように笑った。「さっきは話しかけてくれてありがとう。君とは話してみたいと思っていたんだ」

「……」俺は眉間をんだ。

 嫌いだから塩対応になってんのに、そのせいで好感度を荒稼ぎしちまってるとか世の中ままならなすぎだって。

 七条先輩の価値観もそうだ。一方では他者の理想から外れることを恐れ、一方ではその理想から解放されたいと願っている。

 人間は矛盾しているもの──それはわかるが、七条先輩の場合はかなり極端だ。両極端な感情に板挟みになるのはしんどいだろうな、とも思うし、そんな状態でも何とかやってこられた忍耐力にあきれもする。

「七条先輩って──」

 俺の声に七条先輩の瞳が、何だ? と反応した。

「めちゃくちゃめんどくさい女だったんすね。ちょっとだけその婚約者に同情したっすもん」

 あはは、と花のように彼女は笑った。

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