②
例えば、「読書初心者にお薦めの小説はありませんか? 今まで活字は避けてきたんですけど、中学生にもなってそれは良くない気がして何か読んでみようかなと思ったんです」と尋ねる少年がいたとする。
それに対して賢明なる読書子を自任する
その場では少年は(やや引きつった)笑顔で礼を言うかもしれないが、実際にそれと対面した時にもその気持ちは維持できるのだろうか。いくらライト文芸めいたキャラ立ちの強烈さが氏の作風の一つとはいえ、やはり難しいのではないか。感謝の念を保つのも『罪と罰』を読了するのも。
要するに、「あなたの好きな小説は何?」「お薦めの一冊は?」と聞かれて、「『カラマーゾフの兄弟』も捨てがたいけど、やっぱり僕は、王道を行く『罪と罰』かな」などと答えるやつが俺は嫌いだということである。意識が高そうなのが鼻につくし、人を選ぶ小説を人を選ばずに薦めるなよカス、とも思う。読書初心者の中学生には、理解しやすい構成と平易な文章で書かれているがゆえに味気なく、すぐに飽きて目がスケートを始めてしまう、暇潰し以外の存在意義が見当たらないごみラノベでも薦めとけ。せめて現代日本人作家のものにしろ。
だから俺は、「隣、座ってもいいかい?」と尋ねてきた、右目の目尻下に泣きぼくろのある、入院着に濃紺のカーディガンを羽織った青年──さっき自販機の所で見た人だ──に質問した、
「あんたの推し小説は?」と。
もし俺の意識高い系センサーが反応するような小説を挙げようものなら、
「推し小説? そうだね、何かな……」と考える顔で腕組みをしたその青年は、やがて言った。「ああ、あれかな、『カラマーゾフの兄弟』──」
俺は身構えた。内心でぺろりと舌舐めずりをして悪口の準備をする。
それに気づいた様子もなく青年の口は動く。「──の続編を日本人作家が書いた『カラマーゾフの妹』っていうのがあるんだけど、僕はそれが好きでね、何回か読み返しているよ」
「……」俺は閉口した。
何と反応に困るものを挙げるんだ。意識高い系といえばそんな気もするし、しかしある意味意識低い系の頂点とも言える二次創作でもある。
「そういう君は何が好きなんだい?」
青年は、俺の承知の言葉を待たずして隣に腰を下ろした。
「俺っすか?」ええと、と今度はこちらが考える番だった──つーか、聞いといて勝手に隣に座んなよ。「俺はあれっすね。三大奇書って聞いたことあります? そこら辺っすね」
「へえ」青年はおもしろそうに目元を緩めた。「君、かなりひねくれてるでしょ」
「まさか」と俺は下唇を突き出して肩をすくめた。「素直さを何よりも大切にしてますよ、ええ」
「しかも嘘つきだ」青年は口元にも笑みを浮かべた。
「ここで俺が、『そのとおり! たしかに俺は嘘つきです!』って答えたら自己言及のパラドックスがちらついてもやもやしないっすか?」
青年はくっくっと喉の奥で笑った。「よく嘘をつくと言っているだけで嘘をつかないことも当然あるとも言っている──という解釈は
「そうっすね。それなら無矛盾っすけど、神の存否についての中立的不可知論じみた肩透かし感があって嫌っすね」
「でも、人間は数学的な存在じゃない──いや、仮に数学的な存在だったとしても不完全性定理の壁は越えられない。君のその言葉の意味を二項対立的に単純化して扱うのは、その壁の向こうに行かなければ難しいんじゃないかな」
「白黒はっきりさせないのは嫌いじゃないっすけど、あまりにも自明の真理があると逆らいたくなるんすよ」
この発言をした直後に、しまった、と思った。この流れは──、
「ほら」青年はしてやったりという顔だ。「やっぱりひねくれてる」
三十前くらいに見えるのに悪戯が成功した少年のようだった。
「……」
〈『カラマーゾフの妹』推しの人〉も嫌いなやつリストに入れようと春の空に固く誓った。
その青年は
言われてみれば、どことなくそのボーカルに雰囲気が似ているかもしれない。憧れから寄せているのか、似ているからこそ
しかし、無理なものは無理という現実を受け入れている人が、理想のその先にある幻想的とさえ言える得がたい夢を追い求めようとする[Alexandros]の世界観を好むというのは、それこそ矛盾を
といった薬研との会話やそれに関する思考は、今の俺の意識にとってはメインではない。二番──や、三番目ぐらいだ。二番目は、そういやルナのごはん準備してねえな、腹すかせてるかもなあ、ドンマイ! である。
肝心要の第一順位思考は、俺たちの一つ隣のベンチ、一つ隣といってもたっぷりふた教室分は離れているんだが、そこに座った先ほどの
なぜかというと、じじいが『罪と罰』を読むふりをしはじめたからだ。文庫本からだらしなく垂れ下がる
随分と不可解な状況だった。ついついホワイダニットを考えてしまう。
「さっきからどうしたんだい? 何か気になることでもあるのかい?」
薬研が尋ねてきた。
ええ、と小さくうなずいてから、「あれっすよ」と顎先でじじいを示した。
薬研の視線がそちらに行き、すぐに察した顔になった。「視覚障害者らしきご老人が、おそらくは普通の本を上下逆にして読んでいるように振る舞っている──これはたしかに気になるね」
そうなんすよ、と応じ、「何でかなーと思って」
「それで僕のことは二の次三の次だったわけだ」薬研は
「あのじじい、ボケてんすかね」
と尋ねておいてあれだが、その可能性は低いだろうな、と考えていた。
「それはないんじゃないかな」薬研も俺と同じ思考ルートをたどったらしかった。「彼も僕と同じで入院着を着ている。つまり、入院中なわけだ。認知症の視覚障害者を一人で出歩かせるというのは、病院からすれば怖いと思うよ。何かあったら事だからね」
「やっぱそう思うっすよね」
スタッフの付き添いがないということが、彼の脳がいまだ完全にはぶっ壊れちゃいねえってのを物語っているのだ。
俺はぶつくさと愚痴るように言う。「でも、健常者と同等の読書能力があるってのも白杖を見ると納得しにくいし、かといって白杖の使用それ自体が演出だと考えるのもそれはそれで意味不明だし──つーか、読書するふりをする理由にはなってねえし」
ただ、ボケじじい説と盲目詐欺じじい説を除外すると、考えられる可能性は皆無に近似する。
薬研はじじいに向けていた目を細めた。「流石にここからじゃ表紙の文字までは見えないね」
「本のタイトルなら、『罪と罰』っすよ。さっき拾ってやった時に見たんで間違いないっす」
「ふうむ」と薬研はまた腕組み。考えるときの癖なのかもしれない。「ときに、夏目君は『罪と罰』を読んだことはあるかい?」
「小三のころに一度だけ」
「ませてるねえ」薬研は笑って言った。一周回って感心しているようにも聞こえる。「比較的読みやすいとはいえ相当な早熟だ」
「かもしれないっすね。でも、もう高二なんで周りもぼちぼち追いついてくるんじゃないっすか」
小学生のころの通知表にはよく、『同世代の一般的な子より精神年齢が一回り二回り上』と書かれていた。そして、三・四年生の時にはそれとセットで、『もう少し真面目に授業を受けてくれると先生はうれしいです。それからこれが一番大切なことなのですが、気まぐれに先生のミスを指摘していじめてくるのはできればやめてください。やるとしても後でこっそり職員室で、という感じでお願いします。もう、先生の重箱の隅は穴が空いていますよ……。』といったコメントもしょっちゅう目にした。懐かしいなあ元気かなあ、事なかれ主義でサンドバッグに最適な出丸先生は。
ははは、と朗らかに笑って薬研は、「君はちょっと──いやかなり特異な方向に突き抜けているように見えるから、追いついてきてくれる人はなかなかいないんじゃない?」
「さあ?」俺は小さく首をすくめた。「どうっすかね」
ふ、と柔らかく微笑を霧散させ、薬研は話を再開した。
「『罪と罰』はいろいろな読み方ができるけど、本質的には
「インテリをこじらせてやらかしちまった男が、セックスの上手い女に丸め込まれる話って解釈のほうが俺は好きっすね」
薬研は目元に優しいしわを作った。「写実的に要約するとたしかにそうなるね」
薬研の言いたいこと──推理はすでに察している。ので、先んじて、
「要は、あのじいさんは自分の罪と向き合おうとしているって言いたいんすよね?」
「そう」薬研は真面目な顔でうなずいた。「彼にとって『罪と罰』を開くという行為は懺悔室に入るようなものなんだと思う。あれはきっと実際に読むためじゃなくて自らを省みるための儀礼的な行為なんだよ」
たしかにそういう解釈も可能だけどよ、ちょっと強引すぎやしませんかねえ。
「薬研さん、ロマンチシストって言われません?」
薬研は鼻の先端を人差し指でちょいちょいと掻いた。その陰では恥ずかしそうに頬を緩めていた。「まあ言われることもなくはないね」などと供述している。
と、そんな具合にキリスト教大好きギャンブラーの小説をネタに、神の不在に絶望した人間の成れの果てたるニヒリストが皮肉のほほえみを浮かべそうな、たいした価値のない、学生運動とかいうやかましくてスマートさの
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