スーツの男たちは、ベンチで『罪と罰』を熟読するふりをしているじいさんに向かってぺこぺこと頭を下げた。その過剰とも言えるどこか喜劇的な挨拶が終わると、一方の男が、手に提げていた紙袋をじいさんに差し出した。

 おそらく手土産だろう。

 が、じいさんは渋い顔のまま──もちろんここからじゃ聞こえないが──何事かを口にした。その結果か知らんが、紙袋はベンチの端にちょこんと置かれた。

 もう一人のスーツ男がビジネスバッグからコピー用紙の束のような物を取り出した。ぺらぺらとめくると、何かにかされるようにせわしなく口を動かしはじめた。

 急ぎの仕事だろうか。となると、じいさんは決裁権者でスーツの男たちは部下ってことなんかね。見た感じ、じいさんは定年退職する年齢をとうに過ぎている。なら、定年のない職種か、取締役などの役員といったところか。自分の目で見ることができるわけでもないのに腕時計に金を掛けている、そして掛けられることを考慮すると後者のが確率としては高そうだ。

「あのご老人は重要なポストに就いているのかもね」

 薬研の声も同意している。

 少しすると二人組のスーツ姿は、来た時と同じように早足ぎみの歩調で中庭を後にした。仕事熱心なところを見た後だと、威圧的に思えた彼らの歩く姿も、時間に追われる勤め人の悲哀をまとっているようにしか見えなくなっていた。

 ワンチャン自分もそうなるかもしれないと思うとマジでぞっとするし、多くの人間がああなっているのが、あと数年で俺も取り込まれる予定の日本社会なのかと思うとマジでぞっとしない。

 ──やはりヒモこそ至高ということか。うむ、〈ヒモしか勝たん〉も座右の銘に加えておこう。

 その数分後、今度は五十絡みの男と二十五は行っていないであろう女の二人組がじいさんの前に立った。男はダークグレーの、女はブラックのスカートスーツだ。

 女のほうは気合いの入ったメイクとヘアセットをしているようだった。上手く演出された洗練された大人の女感は、普段教室で目にするメスっぽいだけの品のない化粧とは一線を画している。あるいは、そつのない立ち振舞いがそう思わせているのかもしれない。

 その二人組は先ほどの二人と同じようにじいさんに挨拶をし、見舞いの品らしき紙袋を渡し、数分ほど会話をし、で、帰っていった。純粋な見舞いか、挨拶それ自体が目的だったのか、何らかの報告が目的だったのか。

 独りぼっちに戻り寂しさを覚えたのか、じいさんは物憂げに視線を下げた──少し顔をうつむかせた。溜め息が聞こえてきそうな雰囲気だった。

「思い出した!」

 やにわに、膝を打つ気配と共に薬研が声を上げた。何事かと怪訝の視線をやると彼は、「ほら、さっきの女の子だよ」とうれしそうな表情。

「女の子って、じいさんのとこに来てた?」

 薬研は、そうそう、と首肯した。「何か見覚えあるなあと思ってたんだけど、年のせいか、なかなか出てこなくてね。それが今やっとわかったんだ」

「年のせいっすか」あんたまだ二十代だろ。

 が、俺のツッコミは無視し、薬研は自分の話したいことだけを口にする。「あの子、アイドルだよ。グループ名と芸名はわからないけど、テレビか何かで見た記憶がある」

「それってほとんど何も思い出してないじゃないすか」

「いやいやそんなことは……」と、そこで自信がなくなったのか薬研は、「あるかな?」と尋ねてきた。

 うん、とうなずいた。「でも、俺よりはマシっすよ。アイドルかもしれないなんて発想、まったくなかったっすから」

 アイドルなんか知らねえしな。クローンみてえに同じ顔してピーピー騒ぐだけの雑音発生装置、記憶するだけリソースの無駄でしかない。ただし、トップ歌手並みに歌唱力のあるやつだけは覚えておいてやってもいい。と本気で思っている俺の脳に刻まれていないんだから、あのスーツ女は耳障りな雑音発生装置のほうなんだろうな。

「それにしても──」

 薬研はしみじみと言う。「あのご老人は何者なんだろうね。『罪と罰』の謎もわからないし」

 そうだなあ、とベンチにもたれるようにして空を見上げた。青い、そして陽光が目に刺さる。太陽から逃れるように顔を戻し、さりげなく謎のじじいをチラ見。

 じじいは『罪と罰』の表紙を指でさすっていた。『罪と罰』は閉じられた状態で彼の膝の上に載せられている。サングラスをしているせいで表情はわかりにくいが、やっぱり悲しんでいるように俺には見える。病院には似つかわしい表情ではある──サボりがちな死神さえ呼び寄せそうないい顔だよ、本当に。

 読書のふりに飽きたのか、じいさんは『罪と罰』を開く素振りは見せない。一人、物思いにふけっているようだった。

 その、闇より暗い孤独の底に沈んでいくような痩せた影を見ていると、心の弱いところに不愉快な痛みを覚える──なんてことはありえない。そんな柄じゃねえからな。

 ただ、薄っぺらい連中の安っぽい哀れみを誘うであろううざったい老人の姿は、一つの推理──のようなひらめき、というべきかな──を俺にもたらした。

 ふん、と鼻から嘲笑が洩れた。当たっているとしたら、あのじじい、かーなりくだらねえ人間だ、うぜえからさっさと死ねよ、と思わなくもない程度には。

 よっこらせ、と立ち上がった。伸びをすると背骨がぽきぽきと快音を鳴らした。

「どうしたんだい?」

 と尋ねる薬研に、

「答え合わせに行こうかなって」

 とじいさんを見やり、その意味を伝えた。

「自信のある推理が思いついたんだね?」

「論理的ではないっすよ。ほとんど直感なんで推理ってのは言葉としては不適っすね」

 だが、いつまでもこんな死臭のきつい所にいるつもりもない。ここらですっきりしてシャバに帰りたい。

「そうかい?」薬研は笑みを含んだ目をしていた。「僕には自信ありげな顔に見えるよ?」

「気のせいっすね」

 と肩をすくめると、薬研も立ち上がった。彼も一緒に行くらしい。



「『唾と蜜』はおもしろいっすか?」

 ベンチに座るじいさんを見下ろすようにして俺は言った。『つみとばつ』の逆さまだから『つばとみつ』だ。

 背後では薬研が忍び笑いをしている。

 じいさんは一瞬、呆気あっけに取られたようにぽかんとした顔になったが、すぐに理解したようで、口角を上げ、

「おもしろくはない。どちらかというと苦い」

 と愉快そうに答えた。「さっきの子だね」

「そっす。ちょっと確かめたいことがあって話しかけさせてもらいました」

 ほう、とじいさんの声はどこかとぼけた響き。「何かな?」

「『罪と罰』を読むふりをしていたっすよね? その理由を教えてもらいたいんすよ」

 じいさんは言う。「君はどう思うんだね」

 質問に質問で返すな、と言いたいのをぐっとこらえ、「俺は思うんすよ、ほとんどの人間は誰かに肯定してもらわないと寂しさに押し潰される。けど、誰にも否定してもらえないと虚しさに呑み込まれる」

「かもしれんな」と小さく相づちを打ったじいさんの真っ黒なサングラスを見据え、

「じいさん、あんたの場合は後者だったんじゃないっすか」

「……その心を聞かせてくれんか」

「その成金趣味の腕時計とさっき来てたスーツの人らの態度から、じいさんを、人を使う立場の、それも入院中にまで押しかけられるほどの代えの利かない人才じんさいだと推測した」

 成金趣味、と薬研がおもしろそうにつぶやいていた。

 唇を舐め、「で、最も気になったのは」と続ける。「部下らしきスーツの連中が、逆さまにした『罪と罰』を読むふりという意味不明なことをしているじいさんに対して、その異常行動を指摘しているようには見えなかったことだ──ま、気持ちはわかるっすよ? 事実上の生殺与奪権を持つ上役に、『随分と奇っ怪なことをなさっていますね。とうとうおボケになりましたか?』なんて普通は言いづらいからな」

 薬研が笑いを噴き出した。次いで、唾をすする音。ばっちいな。

 一方、じいさんは静かに耳を傾けている。

 その古びたシルエットに向かって、「ただ──」と、この考えをひらめくきっかけになったピースに言及する。「それはあんたの望むところじゃなかった。彼らが去った後に見せた、あんたのうら悲しげな様子から俺はそう考えた。じゃあ、あのじいさんのしてほしいことは何だろうな、と思案して一つの可能性に思い至った。面倒なんで端的に言うと、〈周りにイエスマンしかいないことに耐えがたい虚しさを覚えたあんたは、あえて変なことをやって自分の間違いを指摘してもらおうとしていた〉──違いますか?」

 沈黙の風が通り過ぎ、

「──ふ」じいさんは微笑を洩らした。「いずれ察せられるとは思っていたが、まさか一番最初が口の悪い社外の若者だとはな。人生はわからんものだ」

「ってことは正解なんすね」

「ああ、百点だよ──君は学生かな?」

「高二っす」

 じいさんは羽織っているブラウンのブルゾンの内に手を入れた。

「ナマ言いやがって! 成金趣味で悪かったな! 灸を据えてやらあ!」

 とか何とか言って拳銃チャカを出してきたらめちゃくちゃ笑えるな、と期待したが、実際にじいさんが引っぱり出したのは、薄くて小さい長方形の革財布のような物。そこから白いカードを取り出し、こちらへ差し出した。受け取る。名刺のようだった──入院中も持ってんのかよ、常在戦場がすぎる。

 俺がどん引きしていることには当然気づかずにじいさんは口を開く。

「株式会社NDエヌディー代表取締役社長CEOの九重ここのえ英一えいいちと言う。学校を卒業したらわたしの会社に来るといい。口の悪ささえ何とかしてくれれば、若くしてたんまり稼がせてやるぞ」

 俺に会社員をやれと? 

 先ほどの、スーツを着た悲しき背中が脳裏によみがえった──うへえ、絶対やりたくねえ。

「あー、申し訳ないっすけど」俺は固い意志と共に宣言する。「俺、ソーニャみてえな子のヒモになってロシア文学で言うところの余計者ライフを送る予定なんで、今回はご縁がなかったということで」

「……」

 数拍後、じいさん──九重は快活に笑った。はっはっはっ、こりゃ手強てごわいな、と。

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