夏・第二章 『唾と蜜』って言うと官能小説みてえだな

 日曜日の午前八時半過ぎの日差しは、月曜日や木曜日のそれとは比較にならないほどきらめいている。月曜日なんかは開始十一秒でKO負けだ。こいつの輝きに対抗できるのは、土曜日の午前零時のデジタル時計が放つ惰性的な淡い人工光ぐらいだろう。

 俺はおもむろにリビングダイニングにある掃き出し窓の所に行く。で、シャーとドレープカーテンを引いた。

 だってまぶしいし。薄暗いほうが落ち着くし。俺の日曜日にキラキラとかいらんし。今、俺一人だし。

「にゃー」

 ルナが抗議とも取れる声を上げた。言葉を話せたら、わたしもいるんだけど? 忘れないでよね、とでも言いそうだ。

 ──もちろん、そんなのはエゴに満ちた人間側の勝手な解釈だが、

「悪い悪い、お前がいたな」

 と言っておく。すると、

「みゃみゃ」

 ルナは、ねえねえ、といった趣で前肢まえあしを俺の足に押し当てた。

「? 何だ?」何かあるのか?

 みゃー、と一鳴きしてルナは、黒々としたお尻をこちらに向け、歩き出した。ついてこいってことなのか。

 不思議に思いながら彼女のケツを追いかけると、玄関に連れていかれ、そしてその意図を察した。

 玄関マットの横に見覚えのある古くなったスマートフォンと、さもハイブランドであるかのような顔をしているが実情はむしろローブランドの長財布があったのだ。うちの母親のだった。

「あらら」我知らず洩らしていた。

「にゃん」

 役目は終えたとばかりにルナは、気の向くままに寝て食べて遊ぶだけの過酷極まる家猫業務のために静かな足取りで音もなくどこかへと姿を消した。

 何という羨ましい生活だろうか。俺も将来は彼女のように誰かに甘やかされながらのんべんだらりと生きていきたいものだ。

 ──さて。

 母さんの残していったものに視線を戻す。どうしたものか。眺めながら悩む。

 今頃、母さんは病院にいるはずだ。あの人は地元、街田市の総合病院で病棟勤務の看護師をしているのだ。今日のように日勤だと七時半過ぎには家を出る。その時間、俺は寝ていたから今日はまだ顔を拝んではいないが。

 そして、父さんも仕事だ。彼は施設勤務の介護福祉士をしている。母さんに合わせたわけではないだろうが、こちらも今日は日勤だった。同じく今日はまだ姿を見ていない。

 要するに、この現代人必須アイテムを届けられるのは、帰宅部でバイトもしていない、しかも誰かと遊ぶ予定もない俺しかいないということだ。

「……」

 天気はいい。



 ということで、自転車にまたがり街田市立総合病院にやって来た。こぢんまりとしつつも屋根のある駐輪場に自転車をめた。

 通常の診察は平日のみらしく、正面玄関口に人の姿はほとんどない。脇にある自動販売機で何やら購入している水色の入院着姿の青年が一人いるだけだった。

 その後ろを通り過ぎて院内に入った。特有の消毒液のにおいが、草いきれのようにむっと鼻につく。

 具合悪くなりそ──ふと、まさかこのゲロい空気は病院側の陰謀だろうか? という疑念が浮かんだ。訪れた人を治療しつつ壊し、回復と悪化の無限ループに引きずり込む。うむ、実に合理的だ。生かさず殺さず搾り取る──やり手キャバ嬢みてえだな。すなわち、うちの母さんは現役キャバ嬢だった? やべーな、見る目変わりそうだわ。美容に金を掛けているのを、まったく意味のない愚かな悪足掻わるあがきだと心底馬鹿にしていたが、あれは職業病のようなものだったのか。

 などといったごとが作業用BGMのように脳内で流れているのをそのままに、総合受付のカウンターにいる、スマホをいじっている化粧の濃い事務の女に事情を話した。

 曰く、病棟に連絡はしてやるからてめえで直接渡せや、とのことだったので、エレベーターの所へ行き、八階のボタンを押した。ほとんど間を置かずしてかご室が到着し、さあ早く乗りな、とばかりに扉が開いた。素直に乗り込む。かご室が、ぐんと昇っていく。

 母さんがいるはずの胃・食道外科の入院病棟に着くと、まっすぐにナースステーションへ行き、開けっ放しのドアをノックした。

 白衣の首が、ずらっとこちらを見た。その中には母さんのもある。

「ちわー、お届け物でーす」俺は、ものぐさな声を投げ入れた。

 すると母さんは、彼女の隣にいる女性看護師に、「すみません、ちょっと抜けます」と言って立ち上がった。

 言われた女性看護師は、連絡があったのだろう、委細承知といった様子──からかうようなにやけ面でうなずいた。

 で、母さんはエレベーター前の開けた所まで俺を引っぱっていった。

「わざわざ悪いね」母さんの落ち着きのあるハスキーボイスが言った。

「マジでな」俺も似たようなハスキーボイスで大きくうなずいた。「財布かスマホか、せめてどっちかにしろよ」

「本当にね」母さんはひと事のように言った。「更衣室で気づいた時は絶望したわ。今日の昼はどうしようかと思ってたところだった」

「ほらよ」とブツを渡し、「じゃ、俺は行くから」

「ありがと、助かったわ」

 そして、エレベーターで一階に下りた俺は、正面玄関口ではなく、その反対側にある院内のコンビニへと足先を向けた。ちょっと疲れたから抹茶ラテでも飲みながら中庭で休憩しようと思ったのだ。

 コンビニの客入りはまばらだったが、午前十時前という時刻を考えると少ないわけではないだろう。店内をざっと見て、新作と銘打たれた、しかし昔からある宇治抹茶パフェと有名コーヒーショップのカフェラテを手に取ってレジに行き──と、そこではっとした。あちゃー。

「どうされました?」

 俺の様子がおかしいのを訝しんだのだろう、窺うようにレジの店員が聞いてきた。

「すんません、もう一回来ます」

 そう言って商品を棚に戻した俺は、きびすを返して八階の病棟へ向かった。

 ほんの数分前の焼き増しのようにナースステーションのドアをたたいた。

「母さんちょっと」

 何よ、早く帰んなさいよ、という顔をした母さんがドアの所に来た。

 ので、俺は単刀直入に言った。「金くんない? 千円ぐらい」

「はあ?」母さんは片眉を上げた。「何でよ」

 鼻頭をき、「財布とスマホ忘れた」と白状した。

「……」母さんはぽかんと口を開け、その数秒後、「かえるの子は蛙か」と悟ったようにつぶやいた。

 ケロケロ☆



 この病院の中庭は、いかにも意識の高い人間が好きそうな様相を呈している。中央には小さいながらも小洒落こじゃれた人工池があり、噴水が水しぶきを上げている。敷地を囲むように公孫樹いちょうがお行儀よく肩を並べ、歩道は石畳だ。その歩道には背もたれのある木製ベンチが設置されている。

 市立の総合病院の中庭というよりヨーロッパの公園といった風情。建設にも維持にもそれなりのコストが掛かっていそうだ。一般的に公立病院には慢性的な財政難という問題があるはずだが、この病院は例外なのだろうか──やはり阿漕あこぎなマッチポンプ医療でもうけているということか。千円といわず二千円ぐらい貰っときゃよかった。

 中庭を見渡し──うららかな春の陽気に誘われたのだろう、そこそこの数の人影が蠢いている──周りに人のいないベンチに腰を下ろした。コンビニのレジ袋を脇に置く。

 まずはカフェラテで渇いた喉を潤す。

 ジャズの流れる清潔感のある店舗で飲むのではないそのカフェラテは著しく味を落としているように感じるが、そういう味覚以外の文脈に左右される程度のものなのだから本来のポテンシャルを発揮したところで高が知れている。したがって、たいしてうまくないのは至極当然と言える。

 有名店の名前が記されているのだから味も期待できるだろうと考える人間は、発言内容ではなく発言者しか見ない暗愚、思考停止の植物のようなものである。つまり、俺の弱点は火炎放射器──あ、人間はみんなそうか。これは失敬。

 ストローから口を離し、宇治抹茶パフェを食べようと蓋に手を掛けたところで、カツカツ、カツカツと硬質な何かを叩くようなリズミカルな音を俺の聴覚器官が捉えた。音のした方向に目をやると、ああなるほど、と納得した。

 持ち手グリップが黒で先端の辺りの一部が赤だが、ほかの部分は白い杖、すなわち視覚障害者などが使用する白杖はくじょうを持った老齢の男が、道の安全を確かめるようにその白杖で石畳の点字ブロックを打ちながらこちらへ向かって歩いてきていたのだ。

 白杖は聴覚障害者なども使用するが、そのじいさんはサングラスをしているからおそらく視覚障害者だろう。彼ら彼女らは自身や周囲への配慮からサングラスを着用しがちだからだ。

 ま、どうでもええわ。俺の中では〈宇治抹茶パフェ>白杖じじい〉である。ぱかっとプラスチック容器の蓋を開けた。うまそ。

 ──カツカツ、カツカツ、カツカツ。

 じいさんは案外に敏活な足取りで、深緑色のむにゅっとした甘味に舌鼓を打つ俺の前を通過しようとし──ばさりと何かを落とした。反射的に視線が吸い寄せられ、チョコレートに群がるありのような活字の群れを認め、それが本であると理解した。

 ちっ、と小さく舌打ちを洩らして俺は、ベンチから降りてそれを拾ってやる。ブックカバーは付けられていない。意図せずともタイトルが目に入った。

 ──『罪と罰』か。またえらくメジャーなものを読んでらっしゃる。

 だいぶ前に一度読んだだけだから詳細は忘れたが、無難に読める内容だったと記憶している。個人的に印象に残っているのは、「天才は超法規的存在である!」理論でも、「善行ポイントをめて君も悪行行使権をゲットしよう!」理論でも、「俺ってば天才だし? 一人や二人殺してもマクロ的にプラスなら赦されるべきだしぃ?」などと調子に乗って人を殺しておきながら殺人の罪悪感で見事なメンヘラムーブをかますラスコーリニコフ君のクソ雑魚豆腐メンタルでもなく、メインヒロイン──と呼んでいいのかわからないが──のソーニャのことだ。家族のために娼婦しょうふちしたり殺人犯のためにシベリアについていったりと実に献身的でとてもいい。彼女なら平日の昼間っからごろごろしてても許してくれるに違いない。というか、彼女の父親が実際にそういう感じだったが、彼女は──少なくとも明示的又は意識的には──彼を責めていなかった。アガページャンキーの最高に都合のいい女である。当時小学三年生だった俺は、大人になったらソーニャのような女のヒモになりてえなあ、と思ったものである──あれから八年、まったく成長してないな、うん。ま、いいけど。

「どーぞ」

 じいさんに文庫本を差し出した。しかしすぐに、ああ見えねえからこれじゃ駄目か、と覚り、「渡すんで、手、出してください」と言い足した。

「すまないね」

 じいさんは、俺のように無駄に年を食ってきたわけではないのか、威圧感はないが威厳はある声で言った。

 こちらに伸ばされたじいさんの手、その手首には高級そうな腕時計があった。いくらするかわからんもんをむやみに触りたくはない。ので、それを避けるようにしわだらけの手を取り、文庫本をぽんっと乗せてやった。

「ありがとう」

 じいさんの口元がほほえんだ。

「どーいたしまして」

 じいさんがカツカツ移動を再開すると、あれ? とその矛盾に気づいた。

 あのじじい、目が悪いのに何で普通の文庫本なんて持ち歩いてんだ?

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