それが始まったのは、転校から一週間が経った時だった。

 それというのは、いじめのことだ。初めは気のせいかと思ったけれど、違った。確実にわたしがターゲットになっていた。

 具体的には、わたしが通るとこちらを見ながらくすくす笑う、わたしから話しかけなければまるでわたしが見えていないかのように振る舞う、授業でグループを作る必要があるときにのけ者にする、などで、クラスの女子全員が、そしてほとんどの男子がそうしていた。

 何が原因なのか正確なところはわからなかった。けれど、誰が犯人かは、誰が号令を掛けたかは察していた。

 ビーちゃんしかいない。

 彼女の発案か、そうでなくても許可は必要なはずだった。だから、どの場合でも事実上の主犯は彼女だ。これは間違いなかった。

「今日も教えて」

 誰も積極的には話そうとしないと言ったけれど、例外がある。ビーちゃんだ。彼女は、勉強を教えて、という言い回しで、宿題を写させろ、と命令してくる。

 断ることはできない。そんなことをすれば、ろくなことにならないのは目に見えている。素直にノートを差し出すほかない。

「う、うん」

 わたしは目を合わせることができない。ビーちゃんの、獲物をいたぶるような残酷な瞳が恐ろしくて仕方なかった。

 うつむきがちなまま机からノートを取り出し、ビーちゃんに渡す。

「放課後には返すね」

 弾む声がそう言った。

 思わず、「え、待って、今日の、授業は、どう、すれば──」

「ありがと、じゃ、またね」

 ビーちゃんは当然のようにわたしの言葉を無視し、いつものグループの下へと帰っていった。ちらと目だけで彼女たちを見ると、冷笑を浮かべていた。

「……」舌の上で、ひどいよ、とつぶやいた。

 わたしが何をしたっていうの。ビーちゃんたちにも、ほかのクラスメイトにも何もしていない。転校数日で何かをできるはずもない。

 それならやっぱりわたしがみんなと違うから? 異物を排除しようとする本能みたいなものなの?

 とはいえ、推測はあくまで推測。というより、根拠の乏しさを考えると憶測と言ったほうが正しい。つまり、いくら考えても真実は何もわからなかった。



 この教室にはわたしのための酸素はない。いると息が苦しくなる。いずれ酸欠で気を失うかもしれない。

 そんな馬鹿げたことを考えるようになってだいたい一週間、初夏の気配がこそこそと忍び寄る五月の下旬、出丸先生が、

「今日は席替えだぞー」

 と言い出した。

 わあ、と奏でる管楽器、ぱちぱちと鳴る肌色の打楽器。教室は色めいている、わたしはちっとも楽しくないのに。

 夏目君を横目で見ると、彼は、すっかり見慣れてしまったいつもの退屈そうな顔でスマートフォンを操作していた。チェスのアプリで遊んでいるようだった。

 砂漠のようにかさついていた心に一滴のしずくが落ちてきたかのようだった。一貫して変わらない夏目君の態度に、そしてわたしと離れられることを喜んでいるようには見えないことに安心感を覚えたのかもしれない。

 出丸先生お手製のくじ容れ──『クジ用』とマジックで書かれているティッシュ箱──により席替えは滞りなく完了し、わたしの席は窓際の前から二列目になった。夏目君はというと、教室の真ん中辺りだった。

 そして、ビーちゃん。彼女はわたしの一つ前の席だった。

 席替えなんてしなくてもよかったのに、と嘆いていると、ビーちゃんが身体からだをひねり、こちらを振り返った。一見、無邪気に見えるうれしそうな笑みを浮かべていた。「これからはすぐにお話しできるね!」

「う、うん……」一滴分の潤いはすでに蒸発し、わたしの声はしょんぼりとトーンを落としていた。

「どうしたの? 具合悪いの?」ビーちゃんの声は、その表情は心配の色に染まっていた。自分への塗り絵がとても上手い──、

「う、ううん、大、丈夫、ありが、と」

「そう? 無理しないでね」

 ──けれど、瞳に宿る光は愉悦に満ちていた。小学生のお小遣いで買える程度の絵の具では限界があるのかもしれない。



 このくらいのレベルならノートなんてなくてもいい。教科書もいらない。ラジオのように聞き流すだけで十分。

 そうやって強がってみても、あるべき物のない机は物寂しくて悲しげだ。

 授業をする出丸先生も察しているはずなのに見て見ぬふり。これがこの人の本性なんだろう。別に普通だとは思うけれど。

 鬱々としながら授業をこなし、味のしない給食を胃に詰め込み、独りぼっちの昼休みを過ごし、そして掃除の時間になった。

「じゃあ後はよろしく──サボらないようにね」

 そう言って出丸先生は、そそくさと教室から出ていってしまった。本来は監督しなくちゃいけないんじゃないの、先生こそサボってるよ、と文句の一つも言いたいところだったけれど、口にする意味はない。ので、代わりに溜め息に出てきてもらった。

 わたしの班──席の近い者を集めた──の担当は四年一組の教室だ。出丸先生のいない今、ビーちゃんがそのすべてを仕切るのは、班の子たちにとって当たり前のことだった。誰も疑問を挟まない。何だか善くない宗教みたいで不気味──善くない宗教、という表現自体が一方的な価値観に基づいていて善くないことはわかっているけれど、そういう理屈とは別に感情がそう主張していた。この空気が怖い、と。

 もしかしたらそれは、これから訪れるであろう嫌な出来事を予期していたからかもしれない。

 つまりビーちゃんが、

「掃除はあなた一人でやってね」

 と華やいだ笑顔を見せるということ。

「……わかった」

 しぶしぶ顎を引いた。諦めるしかない。そうするのが一番ダメージが少ない。はず。と自分に言い聞かせていた。

 がらんどうになった教室をほうきで掃いていく。ほこりやら消しカスやらが集まっていく。

「……ついてないな」

 とつぶやいたのは、床に汚れがないのを確認したからじゃない。運がないと思ったからだ。

 こんな時期に転校しなければならなかったのもそうだし、わたしが上手く話せないのも、ビーちゃんみたいな強くておっかない子がいるのも、なぜか彼女に目をつけられたのも、全部不運だった。

 水でずっしりと重たいモップ用のバケツをやっとの思いで孤独の教室まで運び込んだら、急にむなしさが込み上げてきた。何してるんだろ、わたし。

 もうサボっちゃおうかな。

 と思わなくもないけれど、その勇気もなかった。

 作業を再開する。

 そして気がつけばわたしは、お母さんの好きな歌──ダニエル・パウターの『Bad Dayバッド・デイ』を口ずさんでいた。

 少し前まではこの歌のよさがわからなかった。優しいだけの中身のない言葉が続く、都合のいいことばかりを口にする大人の嫌なところがよく表れた歌だと思っていた。

 そんなわたしのひねくれた心の中なんて見え見えだったのだろう、お母さんは苦笑らしい苦笑を浮かべて、「こういう歌が必要なときもあるのよ」

 と言っていた。「見え透いた嘘にすがりたいときもあれば、ありきたりな慰めがありがたいときもある。終わりの見えている恋に逃げたいときだって──あっ」と、そこでお母さんは言葉を切り、「今のなし! すぐ忘れて! いい? 忘れた? 忘れたわね?!」と焦ったようにまくし立てた。

 その時は、「うん、わかった」と答えたけれどしっかり覚えているし、たぶんこれからも忘れない。

 お母さんの恋愛観のことは措いといて、この歌が必要なときがあるというのは、今まさに実感していた。

 悲しげで優しいメロディーは心を覆う膜を容易たやすく擦り抜け、そのうちに入り込む。歌詞の一つ一つが、じくじくと痛む傷口にみる。

 感じる温かさはダニエルの優しさなのかな、それとも彼が世界の誰かから受け取ってきたものなのかな。

 旋律を、歌を通して名前も顔も知らない誰かの痛みに共鳴するかのように、わたし自身のつらい気持ちが歌声ににじみはじめた。

 心が、抱えきれなくなった悲しみを押し出そうとしているみたいだった。

 生ぬるい感傷が目尻に溜まっていき、零れ落ちそうになった──その時、

「歌詞間違ってるじゃん」

 と聞き慣れない声が教室に飛び込んできた。

 汚れていない肘の近くでさっと涙を拭って顔を向けると、開けられたままだった引き戸に手をやった体勢の夏目君がこちらを見ていた。掃除はどうしたのか、彼は一人だった。

「『And I don’t need “any” carrying on』じゃなくて『And I don’t need “no” carrying on』。てか、〈any〉だと音節数が違うから歌いにくくねえか?」

 やけに流暢りゅうちょうな英語を夏目君は口にした。日本語と英語の切り替えが上手すぎて逆に違和感がある。お味噌汁みそしるにシリアルが浮いているのを見てしまったかのようなインパクトだった。

 味を想像してしまい──味噌のまろやかで優しいしょっぱさとシリアルの人工的な軽やかさのある甘みが、激しく喧嘩けんかするに決まっている──自然と眉間がゆがんだ。

 慌てて顔の上半分を直し、下半分を動かす。

「そ、そうだっ、たっけ」

 口が乾いていた。喉が渇いているわけじゃない。

「ああ」夏目君は無表情でうなずき、ポケットからスマートフォンを出した。こなれた様子で操作し、「ほら」と言ってこちらに画面を向けた──距離があってよく見えないのでそろりと近づく。

 と、ふわりと香った。転校してから毎日のように隣にあったにおいだった。

「ほんとだ」画面にはたしかに夏目君の言うとおりの歌詞が表示されていた。「よく、聴くの? 洋楽」自然と言葉が出てきた。

「聴く」夏目君は答えた。「けど、ダニエルのはあんま」

「あんまり、聴かないのに、よくわかるね」

「『Bad Day』は有名だし」いつもの気怠げな表情で夏目君は言う。「流石にな」

 有名な曲だとは知らなかった。わたしにとっては、お母さんの運転する車に乗っているとたまに流れてくる曲でしかなかったから。

「あっ」と思い出したことがあった。「『黒死館殺人事件』、読んでた、よね」

 夏目君の顔に興味の色が浮かんだ。「お前、あの、馬鹿みてえにめんどくせえ小説読んだことあんのか?」

 ううん、と首を振った。「読もうと、したけど、無理だった」

 理解できなかった。本当に意味がわからなかった。こんなに難しい小説があるんだ、とただただ唖然あぜんとするばかりだった。

「夏目君は──」と口にしてから、初めて面と向かって名前を呼んだことに気づき、照れくささが熱を持つ。「な、夏目君は」と言い直し、「あの小説が、理解できるの?」

「完全には無理だな」

「じゃあ、どうして、読んでたの」

「おもしろいから」

「わからないのに?」

「わからないからおもしろいんだろ」

 だったら少しは楽しそうな顔をすればいいのに。

 そう思ったのが顔に出てしまったのか、

「何だよ?」

 夏目君は怪訝そうにわたしの瞳を見た。

 夏目君の瞳にはわたしはどんなふうに映っているんだろう。

「今は、おもしろい?」わたしは尋ねた。ちょっとだけ期待しながら。

「ん、そうだな……」と夏目君は考えるように言い、それから嫌みっぽく唇の右端を吊り上げた。「こんなとこで下手くそな歌を堂々と歌う痛いやつを観察できて楽しいよ」

「……そう」

 期待は見事に砕け散ったけれど、悪くない気分だった。さっきまで泣きべそをかいていたのに単純なものだ、と我ながらあきれる。

 けど、今日の日が、この『Bad Day』が、かけがえのないものになりそうな予感が確かにしていた。

 あるいはそれは、神様への祈りのようなものなのかもしれない。意地悪な神様への、初めてする本心からの──。

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