職員室を後にした俺は、影沢犯人説の裏取りのために聞き込み捜査をしていた。

 結局のところ、犯行推定時刻の目撃情報を収集する必要があるのは変わらない。上履きをすり減らす捜査なんてのは、クソダリぃ仕事の代表格だ。俺のやる気は底を割っている。

 幾人目かの生徒がかぶりを振ったところで、体育館へと足先を向けた。

 現在時刻は十六時四十一分。運動部や運動系サークルの連中が活動している頃合いだ。彼ら彼女らなら昨日のこの時間も校内にいたはずだから、証言が得られるかもしれない。

 体育館の入り口は開け放されていた。中からは、キュッキュッと床を踏む音や〈ダムッ〉だか〈ズドンッ〉だかわからないが、威圧感のある音が聞こえてくる。

 ──やだやだ。

 体育会系特有のうぜえ熱気なんて虫唾むしずが走る。

 が、仕事は仕事だ。着手金代わりにあじの塩焼き定食(ご飯大盛り。六百八十円)と抹茶ティラミス(五百円)も奢ってもらったしな。

 入り口をくぐると、空気が変わったような気がした。体育館という特殊な空間がもたらす錯覚か、運動部の熱量が見せた海市蜃楼かいししんろうのようなものか、いずれにしろ据わりの悪さを感じる。

 きっと海に迷い込んだ淡水魚もこんな気持ちなんだろうな、と思う。

 コートで飛んだり跳ねたりしている春風が目に入った。

 よくもまああんなにちょこまかと動けるものだ、と感心しつつ、すたすたと歩を進め、春風たちとは反対側の一番端のコート──気持ち小さめのサッカーボールで遊んでいるフットサル同好会の所へ行く。彼らの場合、監督がいるわけでも顧問が見ているわけでもないので聞き込み捜査がしやすいのだ。

 女バスなんて柄の悪い監督が唾を飛ばしていて、俺のような腑抜け面の人間が近づこうものなら唾液の集中砲火を浴びせてくることは確定的に明らかだ。怠すぎるし汚すぎる。他人の唾に触れるのはセックスの時だけで十分である。

 壁際で駄弁だべっているフットサル同好会の三人に近づき、

「ちょっといいか」

 と声を掛けた。

「お、ナッツじゃん」

 と返してきたのは、一年の時の同級生、あかね千歳ちとせだ。茶髪のベビーフェイスで、女子どもいわく、笑うとできる笑窪えくぼが母性本能をくすぐるらしい。

 茜は俺のことをナッツと呼ぶ。夏目の〈夏〉から来ているのではなく、宿泊研修のバスの中でOfficial髭男dismヒゲダンの『ミックスナッツ』を歌ったことが原因のようだった。

「なしたの? こんなとこに来るなんて珍しいじゃん」茜が尋ねてきた。

「邪魔しちまってわりぃな」と前置きして俺は、事情を説明した。

 すると、茜の隣で話を聞いていたベリーショートの男子が、「あー、そういやぁ、放課後の教室に椿ちゃんがいたような気がする」と言った。

「詳しく聞かせてもらえるか」

 俺がベリショ男子にそう言うと彼は、

「詳しくっても、C組の前を通る時に、突っ立ってプリント? みたいのを読んでる椿ちゃんを一瞬見ただけだけど」

「それは間違いなく影沢先生だったか?」俺は確認するように聞いた。

「だと思うよ」ベリショ男子は答えた。「見間違えたりはしないって、流石に」

「そうだよな」と応じ、「ありがと、助かったよ」と礼を述べた。

 体育館を出て、再び職員室へ向かう。影沢先生を詰めに行くのだ。



「犯人はあなたですね、影沢先生」

 無言でぬるっと職員室に入室した俺は、ホワイトチョコレートとホットコーヒーで一息ついていた影沢先生の猫背に向かって言った。

「へ?」振り向いて俺を認めた影沢先生は、驚いたように、「あれ、夏目君、帰ったのではなかったのですか?」

「帰ってないっすね、誠に遺憾ながら」と答えつつ物欲しそうな熱視線をホワイトチョコレートに注ぐ。

「あ、駄目ですよ」影沢先生は、すすすとホワイトチョコレートの箱を遠くへ押しやった。「そんな顔してもあげませんからね」

 小さく肩をすくめ、それから俺は近くのデスクチェアを手繰り寄せ、どっかと腰を下ろした。制服のネクタイを緩め、ふぅ、と息を吐いた。「だっるぅ」

「……あの、夏目君」困惑した声が言った。

「何すか」

「何しに来たんですか? それに、わたしが犯人というのはいったいどういうことですか?」

「来た目的は九割が休憩で一割が探偵ごっこっすね」

「探偵ごっこ?」影沢先生はコーヒーをすすった。

「今朝、潮から、ラブレターの差出人を見つけ出してくれって頼まれたんすよ」

 ラブレター、のところで影沢先生のまぶたがまじろいだ。

 俺は続けて言う。「で、だらだら調べてたら、昨日の放課後、潮の机にラブレターを忍ばせる影沢先生を見たって証言が出てきたんす」若干のうそはご愛嬌あいきょうということで。「つーわけで、潮に恋しちゃった影沢先生がラブレターの差出人ってことでおっけーっすか?」

 しかし、

「おっけーじゃないです」影沢先生は気まずそうに答えた。

 嘘──には見えない。影沢先生が犯人だったら、もっとわかりやすく動揺をあらわにしそうなものだ。それがないということは真犯人は別にいる、ということだろうか。

「ごめんなさい、わたしの軽率な行動が夏目君をミスリードしてしまったようです」眉をハの字に曲げて影沢先生は、言葉を続ける。「たしかにラブレターを潮君の机に入れたのはわたしです。けれど──」

「ってことは誰かに頼まれたんすか?」生徒にパシらされるとは、マジウケるおいたわしや

 影沢先生はふるふると静かに首を横に振った。しおたれたポニーテールが揺れる。「そうではありません」

 嫌な予感がしていた。嫌な推理を思いついてしまった、と言い換えてもいい。

 例えば推理小説において不可解な状況を作り出す要因はいくつかに大別できるが、今回のこれはおそらく──。

「昨日、わたしが放課後の教室を訪れると、潮君の机の横に裸の便箋が落ちていました。周りに封筒などはありませんでした。何だろう、と思って拾ってみると潮君へのラブレターでした。本物を見たのは初めてで感動してしまって、上手くいってくれるといいなと思ったんです。それで、その、老婆心が鎌首をもたげてしまいまして……」そこで影沢先生は少しだけ言いよどみ、「便箋そのままというのは印象がよくないと思って、その、ちょうどよく持っていたお花の洋封筒に便箋を入れて潮君の机にそっと潜ませたんです」

 俺は目頭を押さえた。案の定だよ! 

 ミステリー的に言うと〈共謀なき共犯者〉といったところか。意思疎通なくして一つの法益(生命、財産など)侵害に関して協力するパターンのことだ。

 以下に雑い具体例を挙げる。

 クソビッチJCに嵌められて中出しをキメて懲役を食らったおっさん元塾講師は、出所後、その恨みを晴らそうと雪の降り積もる人通りの少ない夜道・・・・・・・・・・・・・・・・でクソビッチJDとなった彼女に忍び寄って後頭部を金槌かなづちで強打。倒れ伏して微動だにしない彼女を見て満足げにうなずいたおっさんは、計画の成就を祈りつつ足早にその場から立ち去った。

 それほど間を空けずしてクソビッチJDだったものは雪に覆われて見えなくなった。

 除雪車がやって来た。運転席からも当然、彼女は見えない。雪を砕く螺旋らせん状の回転刃がうなりを上げて彼女に迫り、そして肉を裂き、骨を粉砕し、すっかり呑み込んでしまった。美しかった肢体は見るも無惨な──ミキサーに掛けた果物のような状態となり、撲殺の形跡は完全に消え去った。

 その結果、持病もないのに彼女はなぜそんな時間に道に倒れていたのかという疑問は残りつつも、故意による殺人ではなく過失運転致死として処理された──おっさんの完全犯罪、成立である。

 このように真相に雪化粧を施したり、事態をややこしくしたり、俺にいらぬ手間を取らせたりと迷惑極まりないのが〈共謀なき共犯者〉の最大の特徴だ。

 なお、便宜的に〈共謀なき共犯者〉と述べたが、クソビッチJDミキサーフルーツ事件の場合、法学上はおっさんの間接正犯かんせつせいはん(何も知らない他人を道具として使う犯罪)として議論すべき余地は多分にある。この間接正犯は共犯とは考えないのが通説だ。

 閑話休題。

 まずは影沢先生に文句を言わねばならぬという強い使命感に従い、

「何でそうやって余計なことするんすか」

 と不満たっぷりに言ってやった──返して! わたしの二十代放課後を返してよ! という気持ちが胸中に充満していた。ずっと一緒だよって言ってくれてたのは何だったの?! 信じてたのにぃっ!!

 影沢先生は更に肩を落とし、「すみません……悪気はなかったんです……まさかこんなことになるなんて……」

 過失致死で証言台に立つ被告人もかくやという哀感である。

「はあ」これ見よがしに溜め息をついてから俺は、気を取り直すように尋ねた。「参考までに教えてほしいんすけど、ラブレターの字から誰が書いたかわかりませんか?」

 伝統的筆跡鑑定が確実性に欠けるといっても、生徒の字を毎日のように見ている担任教師の所見ならば耳に入れておいても損はないだろう。

「ええと、そうですね……」影沢先生は考えるように黒目を左上にやり、それから、「見覚えがあるような気はしましたけど、ごめんなさい、誰の字かはわかりません」

「ま、いっすよ」さらりと受け流すように言い、「潮の机周辺に封筒はなかったんすよね?」と確認。

「ええ、そうですよ」影沢はノータイムで首肯し、でもそれがどうしたんですか? と小首をかしげた。

「や、どうして封筒に入れられていなかったのかな、と思いまして」

 床にあったのは何かの拍子に落ちてしまったから、ということで一応の納得はできるが、封筒が使われていない点はそうはいかない。

「必要性を感じなかったからではないですか」影沢先生は特に疑問を感じていないようだった。「差出人の子は、折り畳んで机に入れておけば事足りると考えたのでしょう。潮君が読んでくれさえすればそれで十分だったということだと思いますよ」

「でも、ラブレターとは無縁の三十年を過ごしてきた影沢先生ですら、これじゃ潮に減点されてしまうかもって思ったんすよね?」

 意中の相手に恋文を送る発情JKの心理としては、明白な減点要素をなおざりにするというのはいささか以上に不自然だろう。少しでもよく思わたいって思うんじゃねえの、乙女(笑)的には。

 影沢先生は、ふふ、と自嘲的で卑屈な笑みを零した。「そもそも加点されたことのないわたしごときが、人様のやり方にケチをつけるのはおこがましいですよね。すみませんね、身の程をわきまえずに調子に乗ってしまって。あまつさえ、そのずれたお節介のせいで夏目君の貴重な時間を奪ってしまい──」

「そのチョコレートを分けてくれたら水に流しますよ」

「これは駄目」影沢先生は言下に答えた。「それとこれとは話が別です」

「そっすか」

「……コーヒーぐらいなら出してあげてもいいですよ」影沢先生は、もそっと言った。不満と戸惑いの響きの中にも一欠片の甘味かんみがあった。

「あざす。砂糖二つミルク二つでオナシャス」

「意外と子供舌なんですね」

「高校生なんで」

 影沢先生が給湯室へ向かうと、ポケットからスマートフォンを取り出し、撮影しておいたラブレターの画像を表示させた。今一度、目を通す。

「ふうむ」顎先をこする。すりすり。

 文章におかしなところは、少なくとも俺には見つけられない。気を遣って書いたのか、SNSで散見されるような、文法と伝統を置き去りにした前衛的な日本語ではない──口語調ながら形式的な正しさも切り捨てていない。と思う。

「……ん」もしかして──ある推理が脳漿のうしょうに浮かんだ。

 その時、影沢先生が湯気の立つカップを乗せた盆を持って戻ってきて、俺の横の主不在のデスクにカップを置いた。「どうぞ」

「どもども」

 カップに口をつけた。インスタントコーヒー特有の薄っぺらい風味を砂糖とミルクが上手い具合に誤魔化していて、けっしてうまくはないが殊更にまずくもない。

 ミルキーブラウンの水面みなもを見下ろしつつ考えを整理する。

 俺の推理が正しいなら、あのラブレターと同じ文章がどこかにあるかもしれない。確率は半々──いや、もっと低いか?

 ……ただ、確認してみる価値はあるはずだ。というより、現状ではこれしかない。はず。

 カップを置いた。そして、俺は答えを確かめるべく、椅子に座り頬杖ほおづえを突いてぼんやりとこちらを眺めている影沢先生に尋ねる。

「影沢先生」

「はい」

「文芸部の部誌を見せてもらっていいすか」

「……はい?」頬から手を離した影沢先生は、「夏目君、小説なんて読むんですか?」と驚いたように聞いてきた。

「たまに読みますけど、素人の駄文なんてまず読まないっすね」

「それならどうして部誌なんですか?」影沢先生は他意のない様子でそう口にした。「うちの文芸部の小説は、あなたの言う『素人の駄文』ですよ」

「影沢先生も言いますね」

「あ、いえ、そういう意味では──」

 周章するアラサーというのもなかなか乙なものだな。

 安物で育った舌を甘いコーヒーで湿らす。見た目を着飾るばかりで中身を磨こうとしない人間のように何の深みもない味が広がった。

 さあ、そろそろ出てきてくれよ? 恋する真犯人さんよぅ。

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