私立泡沫高等学校、通称・泡高あわこうは、東京都の南西部にある街田まちだ市の中心部に建つ、比較的に大規模な高校だ。

 普通科と特別進学コースがあり、前者は偏差値五十ほどで後者は六十五ほど──学校のお勉強をガチる気など毛頭ない俺は当然、普通科だ。このくらいの雑魚いモブレベルが一番いろんなやつがいて楽しいというのもある。

 泡高はスポーツにもそれなりに力を入れていて、帰宅部一筋の俺には全然関係ないんだが、時折、都内ベスト4がどうのと騒いでいたりする。春風率いる泡高女バスも強いほうらしい。

 しかし、特待生と一般生徒間に実力やモチベーションの差から不和が生じることもあって大変だとも聞く。

 俺としてはめプエンジョイ勢の味方をしてやりたいところだ。スポーツで汗を流すのは博打ばくちの時の冷や汗だけで十分である。スポーツはあくまで画面の向こうのコンテンツ。自分ががんばるものではない。

 話は変わるが、泡高にも〈奇跡の美少女〉と評される才色兼備のクールビューティーがいる。

 ただ、この手の評価というのは、高校という狭いコミュニティーの中では、という前提条件あってのもので、つまり何が言いたいかというと、日本全体で見たら〈そこそこ優秀でそれなりにかわいいだけの、いくらでも替えの利く凡人〉にすぎないことが大半である、ということだ。

 この持論には微塵みじんの揺らぎもないが、しかし現実は残酷である。我が校が誇る才貌両全さいぼうりょうぜんちゃんは、少なくとも全国トップクラスの容姿を備えているのだ。

「なあ、あれって、七条ななじょう先輩だよな?」

 そう言う潮の視線の先には、特進コース三年の七条雪芽ゆめがいる。こいつがうちの完璧美少女、略して(?)壁女だ。

「だな、何かオーラ出てるもん」

 俺たちは学食に来ていた。昼休みということで、餓鬼になりかけの飢えたクソガキどもが、わんさか湧いている。和洋中、何でも提供していることもあり、この空間に充満するにおいは非常に混沌こんとんとしていて、体調不良時に訪れると吐き気を催しそうだ。

 その中にあって、七条先輩は器用にも箸の先端だけを使ってうどんをレンゲに乗せ、無駄に品のある所作で口に運んでいる。

 食事中だからか、その長い黒髪は後ろで結われている。その肌は、赤黒くうごめくグロテスクな臓器が見えてしまうのではないかというほど白く透き通っており、ホラー映画への出演を期待させる。きっとスプラッター映えするだろう。派手に飛び散ってくれることを切に願う。

 向かい側に座る女子も相対的には端麗な部類だから、おそらく七条先輩の連れだろう。類は友を呼ぶという言葉はある程度は信用できる。一部の社会不適合者や本物の天才を除き、人間は共感に支配される哀れで滑稽な動物だからだ。

「ちょっと話しかけてみようぜ」

 唐突に潮がそんなことを言い出した。

 何の目的で? と聞くべきか、何を理由に? と聞くべきか、刹那だけだが逡巡しゅんじゅんしてしまった。それが良くなかった。

 俺が言葉を発するより先に潮は、ずんずんと一切の迷いなき足取りで七条先輩たちの下へと向かっていってしまった。

 今度は、俺も行くべきか否かを考えかけたが、やめた。何かもう頭を使いたくない。何で空腹時に灰色の脳細胞を酷使しなきゃなんねえんだ。

 俺は脳死で潮の尻を追った。



「七条先輩ですよね?」

 潮は、人好きのする笑みという詐欺師適性の高い表情を浮かべて、味変か、七味を振りかけていた七条先輩に声を掛けた。

 潮とその横の俺を見て七条先輩は、きりりとした柳眉りゅうびを不審そうに曲げて、「そうだが……」と答えた。ややアルト調の、角のない丸みを帯びた声だ。

 食べかけのうどんが構ってほしそうに湯気を立てている。

「君たち、二年生だよねぇ?」人の気を逆撫ですることに秀でた、鼻に掛かったような甘ったるいアニメ声を俺たちにぶつけてきたのは、七条先輩の友人らしき女子生徒だ。俺らが二年というのは学年組章を見て判断したんだろう。「何の用ー? 雪芽狙いのナンパぁ?」

 ふと〈オタサーの姫〉という死にかけの言葉が浮かんだが、彼女らと違い、この友人Aはしみ真実、悪くない容姿をしている。失礼なことを思ってしまって申し訳ない、と反省の念を込めて、「いえ、俺の狙いはあなたっすよ」と返してみた。「壁女には興味ないんで」

「えぇ? わたしぃ?」と水飴みずあめのように粘っこい口調で言いつつ友人Aは、割合、満更でもなさそうに自らの朱唇を指差した。

 七条先輩の引き立て役ばかりの毎日にストレスを溜め込んでいるんだろうな。何て哀れな女だろうか、友人に勝ったことでこんなに喜ぶなんて。

 一方の七条先輩は、「は? え? 壁女?」と混乱しているようだった。「胸がないと言いたいのか……?」などと頓珍漢なことをつぶやいている。たぶんDくらいはあるのに。

「いきなりごめんなさい。実は──」と潮は話の流れをぶった切るように切り出した。「俺たち、とある事件の捜査をしてまして」

 ははあなるほどそういくのか、と感心しながらも俺は、

「潮、お前……」

 とあきれてもいた。この童貞猿、ラブレターを出しに使うつもりだ。すなわち、女を使って女を落とす。

 カスいなあ、と非難の言葉が頭をよぎったが、自分から振った元カレに、別れから間を置かずして新しい男を紹介させる図太い女も珍しくないので、むしろこれは常識的なことなのかもしれない。

「え、事件?」「何があったんだ?」

 疑問を浮かべる友人Aと七条先輩に潮は、「ええ、そうなんです」と深刻そうにうなずいてから、「詳細はお教えできませんが、今、目撃情報を集めているところなんです」と、それから昨日の放課後か今朝の早い時間に二年C組の辺りできょろきょろと周りを気にしたりしている怪しい人物を見なかったか尋ねた。

「ううん、見てないかなぁ」だって二階には行ってないしぃ、と友人A。

「悪いが、わたしも同じだ。二年の教室には特別な用がない限り近寄らない」と七条先輩。

「そうですよね。じゃあ、そういった情報は聞こえてきていないですか?」潮は純粋そうな瞳で、うかがうようにのたまう。「人気者の七条先輩なら、いろいろ知ってそうだなと思ったんですけど……」

「だってさ」と友人Aが七条先輩に顔を向けた。「何か聞いてるぅ?」

 七条先輩は小さくかぶりを振った。「特にこれといった話は聞いていない」

「そうですか」と残念そうでもなく言って潮は、「わかりました。お食事中にありがとうございました」とあっさりと退散する構え。

「ううん、いいよー」友人Aは、何が楽しいのか、にこにこと笑みを張り付けて言った。「犯人捜しがんばってねー」

 はい、ありがとうございました。そう言って潮は彼女たちに背を向けようとし、しかし中断し、「あ、俺、二年C組の潮峻って言うんですけど、何かわかったら教えてくれると助かります」

 どうやら面識を持つことが今回の目的だったようだ。段階を踏むということだろうか。

「おっけー」友人Aは軽い調子で言った。

「ああ、わかった」七条先輩も顎を引いた。「何の事件かは知らないが、無事に解決するといいな」

 ははは、ありがとうございます、と潮は好青年然として答えた──さっきから誰だよ、お前。

 七条先輩たちと別れ、食券機に向かう。隣を歩く猿顔の猿、つまりはただのモンキーに言う。「未来の彼女が見たら泣くんじゃねえか?」

「未来は未来、今は今っしょ」潮はいけしゃあしゃあと言う。「無罪っすわ」

 いい性格してやがるぜ。



 放課後の掃除を終えると、俺は職員室へ向かった。スマートフォンを返してもらうためだ。

失礼しますしーしゃす

 礼儀正しく言って職員室へ足を踏み入れた。がやがやしている、というほどではないが、どこぞの教会のように静謐せいひつなわけでもない。具体的にはタイピングの音や電話の声などがする。

 まっすぐに二年生の担任教師のデスクが固まっている所──影沢先生の下へ歩を進め、

「ども、スマホの受け取りに来ました」

 と声を掛けた。

 影沢先生は小テストの採点をしていた。もうだいぶ慣れたが、ふとした瞬間冷静になると違和感がすごい。

〈春風彩来〉の文字が見えた。十点満点中一点とある。見た目どおりの成績ですこぶる説得力がある。勉強のできるギャルなんてのは、オタクに優しいギャルばりにレアい種族だ。気軽に存在していいものではない。

「ああ、はい、そうでしたね」影沢先生は〈お仕置き没収BOX〉と丸文字で書かれた厚紙の箱からスマートフォンを取り出し、「はい、どうぞ」と差し出した。

「あざす」俺は真心を込めて深謝し、「じゃ、さいなら」と別れを惜しむ恋人のように未練たらしい挨拶を口にして立ち去ろうとする。が、「ん……?」と足を止めた。

「どうしました?」影沢先生が不思議そうに聞いてきた。

「いや、つかぬことを伺いますが」俺は影沢先生の机の上にある〈白地に黄色の花が一輪だけ描かれている洋封筒〉を指差し、「その封筒、影沢先生の趣味すか」

 潮が貰ったラブレターが入れられていた、あの洋封筒と同じものが置かれていたのだ。

「そうですよ」影沢先生は首肯した。「やっぱり、わたしみたいな喪女がお花のついた封筒は変ですよね……」

 取るに足らないネガティブワードはスルーし、

「仕事で使うんすか?」

「ええ、そうですよ。お手紙をしたためる機会って意外とあるんです」

「へえー……」

 おいおいまさかラブレターの送り主は影沢椿(三十)でした、なんて青少年保護育成条例をぶち破るオチなのか? 30×17の恋なんて510五等分のケーキみてえにいびつなストーリーにしかならねえんじゃねえか。上手くいくのはなかなか難しそうに思える。

 とはいえ、たしかに、とに入る部分もある。差出人の記載がなかったことや実際に付き合うことまでは求めていないとの文面から、教師と生徒の恋愛というタブーへの恐れが窺えるからだ。なので、そういう意味では整合性はあると言えるが……。

「何ですか、そんなに見つめて」

 動揺と警戒がまざったような顔で影沢先生は言った。「先生の顔に何か付いてるんですか」

「……」ちょっと探ってみるか、と探求心に従って決断した俺は、「ところで、影沢先生は独身すよね?」と質問した。

「そうですけど」影沢先生は怪訝けげんそうに答えた。「どうせわたしなんてモテないですよ……」

「話は変わりますが、最近、改正刑法が施行されて、強制性交等罪などをまとめた不同意性交等罪の運用が開始されましたよね? 例外付きで性的同意年齢も引き上げられましたけど、やっぱり影沢先生も教育者として賛成なんすか?」

 刑法典における〈性的同意年齢〉とは、その年齢未満の者と致した者を、和姦わかんだろうがラブラブセックスだろうが有無を言わさずに罰する分水嶺ぶんすいれいとなる年齢のことだ。具体的には、例えば、男を破滅させるのが趣味のクソビッチJCから告られて付き合っていたおっさん童貞塾講師が、そのJCからの度重なる誘惑に耐えきれずにヤっちまった場合、そのおっさんは問答無用で豚箱行きとなる(クソビッチJCがクソビッチすぎると知れわたっていた場合は起訴猶予はあるかもしれないが)。

 ま、潮は十七歳だから、自由恋愛って話なら刑法典レベルではなく条例レベルの問題になるんだけど。

 で、ショタコン疑惑のあるアラサー喪女、影沢椿の答えはというと、

「えっ、せ、性的同意年齢ですか?」目をぱちくりさせて驚きを表現している。

「ええ、そうっす」

「ええと、たしか原則十六歳以上でしたよね? いいんじゃないですか」

「ふうん、じゃ、影沢先生は、クソビッチJCにめられた、いたいけなおっさんが人生を棒に振ってもいいって言うんすね?」

「はあ、何だかよくわかりませんが、その場合嵌めたのは女の子のほうじゃなくて男の人のほうなんじゃないですか」

「なるほど、たしかに」

 こりゃ一本取られたぜ。

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