「……ない」

 れ出たつぶやきは、天井照明の人工的な光の中を泳いで消えていった。

 影沢先生から貰った文芸部の部誌を改めおわったところだった。その素人の駄文の中に目当ての──ラブレターと同一又は近似の──文章がなかったのだ。

 すでに帰宅し、今はリビングダイニングのソファーに腰掛けている。

 部誌を白い洋風座卓に放り投げた。ばさり、と不満げな音がしたが、聞き流し、ラブレターについて思考する。

 当てが外れたか……?

 けど、方向性は合ってると思うんだけどな。時系列が違ったか。

 困ったな、こうなってしまっては動かぬ証拠により被疑者の逃げ道を塞ぐことができない。現状では、「わたしじゃない。言いがかりはやめて。証拠はあるの? ないのでしょう?」とせせら笑われたら反論のしようがない。

「はあ」吐息が洩れた。

 しゃーねえ、もうめんどくせえからぶん殴って白状させるか……?

 と探偵ごっこから警察ヤクザごっこへとシフトチェンジしかけた時、

「にゃー」

 ドアの隙間から黒猫のルナがリビングダイニングに入ってきた。もうすぐ七歳になるおばさん猫だ。攻撃的な雰囲気を感じ取ったのか、彼女は一瞬、躊躇ちゅうちょする様子を見せたが、しかし俺の下まで来て脚に顔を寄せた。

「何だ、遊んでほしいの──」か、と言いかけたところでキャットフードを買い忘れたことに気づいた。「わりぃ、キャットフード買ってくんの忘れたわ」

「にゃー」

 ルナがあきれたような声を発した。抜け目ないようでいて抜けてるんだから、と言わんばかりの顔である。

 誤魔化すように頭を撫でてやると、ルナは気持ちよさそうに目を細めた。チョロい。

 そうしてルナと戯れていると、ある考えが脳裏をよぎった。そうだ、素人の駄文を読めるところならまだあるじゃないか、と。

「ちょっとすまん」とルナとの遊びを中断し、スマートフォンを手に取った。

 そして俺は、検索窓にくだんのラブレターの一節を入力し、エンターアイコンをタップ。瞬く間に結果が表示された。

「よし」

 自然とそう発していた。

 ルナが不思議そうに見ていた。が、彼女のことはいったん放置だ。

 部誌を開き、部員の小説の文体とスマホに表示されているウェブ小説のそれを照合していく。

 そして──、

「やはりこいつだったか」

 思わず口角がり上がる。文体の類似する人物を発見したのだ。

 これですべてのピースは出揃った。ここから先はウイニングラン──ゴールは目前だ。



 学園もののフィクションでは屋上が開放されていることがごく一般的だが、泡高では教師陣の良識的な判断により屋上への扉は固く閉ざされている。もしもこいつを破ろうと思ったら、鍵を盗み出すか、それ相応のアイテムを用意する必要があるだろう。

 したがって、俺と潮は屋上の扉の前の階段に腰を下ろした。ほかに人はいない。快適な空間だ。

 売店で買ったジャムパンの袋を開ける。本日の昼食はこれにピーナッツクリームパンと抹茶どら焼きだ。

「甘い系のパンだと食った気しなくね?」

 潮が人の趣味にケチをつけてきた。そう言う彼の昼飯は、焼きそばパンとコロッケパンのようだった。

「炭水化物だけの惣菜そうざいパンを食うやつにだけは言われたくないんだが」五十歩百歩だろう、どう考えても。

「炭水化物はいいんだよ、炭水化物は」潮は理屈の埒外らちがいからものを見ているらしい。「うまいからな」

 俺はコーラをあおった。ジャンキーな甘さとお転婆な二酸化炭素に食道が蹂躙じゅうりんされる快楽に酔いしれる──けぷっ。

「じゃ、推理の披露といこうか」

 俺の宣言を受け、

「いえーい」

 潮はまったくやる気を感じさせない合いの手を入れた。

「結論から言うと」俺は言う。「ラブレターを書いたのは、うちのクラスのつづり琴葉ことはだろう」

 綴は文芸部の子だ。彼女を一言で言うと〈ザ・文芸部女子〉、換言すれば〈眼鏡を掛けた垢抜あかぬけない女子〉となる。男子人気は正直ほとんどないだろう。不器量ではないし胸もあるほうだが、いかんせん華がなさすぎるのだ。しかし、

「マジ?」と目を丸くする潮からは落胆の色は窺えない。「全然気づかんかった」

 そっかあ、綴かあ、あのおっぱいが俺のものになるのかあ、げへへ、と猿顔を好色に染めている。キモい。

 ちょっと距離を取ってから、

「『どうしてそういう結論に至ったんだ?』って聞かねえのか?」と尋ねた。

「え、何で?」潮は心底不思議そうに尋ね返してきた。「夏目は綴が差出人だって確信してんだろ? なら、たぶん合ってるっしょ。答えが合ってんなら過程なんて知らなくてもいいよ。じゃあ聞くけど、夏目はスマホの仕組みを理解してんのか? してないっしょ? してなくても使い方だけ知ってれば困らないんだから当たり前だよな。それと一緒よ」

「小学生のころ、途中の式が違うってよく怒られたろ」

「いんや、そんなこたぁないね」潮はソースで汚れた口元に気取った笑みを浮かべ、「全部違うってよく怒られてたぜ」

「よくここに入れたな」

 名前を書けば合格できるというほど落ちぶれてはいないばすだが。

「俺ってば本番につえーから」

 それから潮は、ま、いいや、せっかくだから聞いてやるよ、と言った。「推理はよ」

「……」はあ、と息をつき、「じゃあざっくり説明するぞ。俺が着目したのは、ラブレターの三点リーダーの使い方だ」

「サンテンリーダー? 何だそれ」

 スマホにくだんのラブレターを表示させ、拡大し、「これ」と指し示した。俺の指の先には、『わたしは満足です……。』の句点前の連続した六つの点がある。それが三点リーダーだ。

「へえ、これってそういう名前だったんだ」とどうでもよさそうに応じて潮は、「で?」と促してきた。

「この三点リーダーというのは、絶対的なルールがあるわけじゃないが、一般的には、特に小説では二つずつ使うものなんだ。要するに、点の数が六の倍数になるようにするっつーことだ」

「ふうん」潮は合点がいかないように口をとがらせ、「でも、普通は意識しなくね? 俺、そんなの気にしたことねえよ」

「だからだよ。今お前が言ったようにそんなの無視してるやつが大半だ。〈句点〉や〈中黒〉をつなげて代用してることさえある」

「うん、コロッケパンうまいわ」

「けど、このラブレターではそうはなっていない。三点リーダーは二箇所あるが、どちらも偶数個で用法も一般的なものだ。つまり、このラブレターは正しさが求められる文章を書き慣れている人物によりしたためられた、と考えられる」

「ほーん、それで文芸部の綴なのね」

「ああ、綴なら三点リーダーのことも知ってるはずだし矛盾しない──ただ、これだけじゃ断定するには、ちと弱い」

「そうか? そうでもなくね。いいじゃん、文章がちゃんとしてるから犯人はお前だ! ってので」

「〈文章が上手いこと〉という条件だけでは、まだまだ絞り込みが甘い。文才や知識のある人間は文芸部以外にもいるだろう? 国語の教師だってその条件に合致しちまうし、ガバガバと言わざるを得ないんだ」

「何か眠くなってきた」

「寝るなら授業中にしろ」俺はいつもそうしてる。

「だなあ──ガムか何かないか?」

 ポケットをまさぐる。と、フリスクが出てきた。ほら、と白いケースを渡す。

 さんきゅっ、と潮は小さく軽く応えた。

 コーラで喉をいじめてから俺は、続きを口にする。

「で、だ、ここからが重要なんだが、ラブレターを書いたのは、たしかに綴で間違いないんだが、彼女は差出人じゃないんだ」

「?」猿顔に疑問符が浮かんだ。何、訳わかんねーこと言ってんだ、と顔に書いてある。

 通常は〈執筆者=差出人〉なのだからこの反応もうなずける。が、

「綴はあの便箋を落としただけなんだよ」

「俺宛のラブレターが俺の机の中にあったのに、便箋を落としただけっていうのか? マジで意味わからん」

「まあそうだよな。俺も最初はそんなふうには考えなかった──」けど、それが現実だ。

 そして俺は、影沢先生による余計なお世話ナイスアシストがあったことを説明した。

 それを聞いた潮の感想は、「椿ちゃん、マジ頭椿ちゃん」であった──まったくもって同感である。

「便箋は封筒にも入れられずに床に落ちていた──これはラブレターの送り方としては明らかにおかしい」だろ? と目で問うと、

「だなあ」潮は首肯した。「だから綴は差出人じゃない……と……いやいやいや!『潮君へ』ってきれいな字で書いてたじゃん。あれはどう説明するん? 俺に渡す予定だったラブレターをうっかり落としちゃったってことか?」

「その可能性も、たしかに考えた。けど、もう一つの可能性のほうも無視できなかった。その可能性というのは──」

 潮の言うパターンに対しては、願望はあっても実際に付き合いたいわけじゃなくて、ただ単に匿名の誰かが潮を懸想している事実を伝えるためだけにわざわざラブレターを出すだろうか、という疑問があった。

 俺がそういう人間だからか、ラブレターは交際を申し込むためのものだというバイアスに掛かっているのか、具体的な見返りを何も求めないというのは不自然に思えてならなかった。

 それならほかにどんなパターンがあるかね、と考えた。そうして思い至ったのが、

「〈小説内で使う文章のメモを落としてしまっただけ〉という可能性だ」

「……またまたあ」冗談きついって、と潮は頬を痙攣けいれんさせた。しかし、いつまで経っても真顔を崩さない俺を見て現実を受け入れたのだろう、「ガチのマジなん?」とマジトーンで聞いてきた。

「マジだ。あるウェブ小説の本文中にあのラブレターとほとんど同一の文章があったんだが、その小説の文体が部誌にある綴の小説のものと酷似していたんだ。状況を総合的に考慮すると、ウェブ小説用のメモを処分し忘れた綴が、そのメモを落としてしまったのだと見るべきだろう」

「うっわ、えっぐう!」ぬか喜びってことかい! 琴葉ちゃんうっかり屋すぎるってー、と潮は顔を覆ってしまった。

「……ふ」と微笑を洩らして俺は、「──ま、とはいえ、だ」と努めて軽やかな口調で言う。「俺の推理が外れてる可能性もあるわけで、嘆くのは綴本人に確認してからでも遅くはないんじゃねえか」

「……そうかな」潮の瞳に、きらりと希望の光が宿った。「まだおっぱいチャンスはある?」

「綴の前でそういうこと口にしなかったらな」



 その日の放課後、部室へ向かうところだったのか教室を出ようとしていた綴に声を掛けた。

「待てよ、綴」これは俺。

「今、暇だよね、ちょっと話したいんだけど」こっちは潮。

 す、と目をらして綴は、「ひ、暇じゃないから。わたしもう行かなきゃ」と歩き出そうとするも、

「まあまあいいじゃねえか」と俺に行く手を阻まれる──完全にウザ絡みするナンパヤンキーのノリである。「減るもんでもねえし」などと言ってあくどい笑みを作ってみる。視線で綴の全身を撫で回すことも忘れない。

 綴はおびえるように一歩下がり、「な、何するつもり……」

「何もしないよ」潮は言う。「ただ、例のお手紙について真相を話してもらいたいなって思うわけよ、俺としては」

 綴は、うっと言葉を詰まらせた。「し、知らないから。わたしは何も──」

「えっ」と驚いた顔をして俺は言う。「だって差出人に綴琴葉って書いてたけど?」

「う、嘘?! 名前は書いてなかったはず──あ」しまった、というふうに口を半開きにした綴に、先ほどよりも嫌らしい笑みを見せつける。

「来てくれるよな?」

「……はあ」綴は諦めるように溜め息をつき、「わかったけど」俺に警戒の眼差まなざしを寄越よこし、「へ、変なことはしないでよ」



「このラブレターを書いたのは綴ってことでいいんだよね」

 体育館裏に到着するなり潮は、例の便箋を掲げて言った。

 学校の敷地と外との境目には緑色のフェンスがあり、そのフェンスに沿うように──ソメイヨシノだろう──桜が植えられている。しかし悲しいことに、四月も下旬の今となっては花びらもすっかり散っている。

「……そうだけど」たっぷり間を置いてから綴は首肯した。「でも、それはラブレターじゃなくて──」と口にしたところで、

「わあってるって」と潮は訳知り顔で言った。

「えっ」と綴が驚きの目を見せた。その奥には恐れのようなものも潜んでいるように思う。

 へへ、と得意げに鼻をこすり、潮は言う。「俺の推理によると──」

「『俺の推理』?」初耳ゆえに、ついくちばしれてしまっていた。

 しかし、潮は俺のまっとうな指摘を鮮やかにスルーし、「俺の推理によると」と幾分語気強く言い直した。「この便箋は俺に宛てたラブレターじゃなくて小説のメモ書きだ──違うか?」

 違うか? じゃねえんだわ、と内心で突っ込みながらも口を開かずに潮を眺める俺は、どこまでいっても所詮は第三者である。この場の主役は目の前の二人なのだ。

 綴は戸惑うように眉をひそめて尋ねた。「……どうしてわかったの」

 潮は鼻の穴を膨らませ、状況やウェブ小説、文体から推理したことを滑らかに説明した──とんだ嘘つき猿である。

 すべてを聞いた綴は、うつむき、言った、「ごめんなさい」と。「ごめんなさい、でも、悪気はなくて、本当にたまたま落としてしまって……」

「じゃあやっぱり俺のことは──」との潮の言葉は、

「ただのお猿さ──あ、違くて、何とも思ってない、です」綴が引き継いだ。

「推理できてすごい! 素敵! 抱いて! ってなったりは──」

 推理していないのに何と面の皮の厚いことか。

 綴は沈痛な面持ちでふるふると首を左右に揺すった。

「す、少しくらいいいなあ、とか思ってくれてたりは……?」ただのお猿さんは粘りを見せるも、

「そういう気持ちは一ミリもない、です」

 綴に容赦の二文字はないようだった。「紛らわしいことをしてしまって、ごめんなさい」

「そ、そうか……」希望だとか魂だとかそういう目に見えない大切なものが潮から抜け落ちていくのがわかった。彼は瞬く間に抜け殻のようになり、そして、「時間取らせて悪かったな……」と言い置き、ふらふらといずこかへ行ってしまった。

 残された俺と綴の間を沈黙が訪れた。風が吹いた。春なのに色なき風を思わせる物寂しい風だ。青々とした桜の枝葉が揺れ動き、どこかくすぐったい音色を奏でた。あるいはそれは、くすくすという忍び笑いのようでもあった。

「じゃあわたしも行くから──」

 と言った綴を引き止めるように、

「嘘なんだろ?」

 と俺は口にした。

 びくりと震えた綴には、小動物めいたおかしみがあった。「え、な、何が?」彼女の瞳は盛大に泳いでいる。

「潮のことを何とも思ってないっていうの」

 綴の頬は、かわいそうなほど赤く染まっていた。

 たまらず失笑してしまう。

「綴ってものすんごくわかりやすいやつだったんだな」

 今の今までほとんど絡んだことがなかったから知らなかったよ。

 綴は色付いた頬に、むぅ、と不服を浮かべた。「夏目君には関係ないでしょ」

「ま、そりゃそうだ」抵抗なくうなずいた。が、けど、と続ける。「あの猿はあれで依頼人だからな、あいつの利益のために動かないといけねえんだわ」

「やっぱり推理したのは──」

「さあ」と肩をすくめた。「依頼人もああ言ってるし、俺の口からは何とも言えんわ」

 つーかよ、と俺は更に語調を崩した。だいぶん怠くなってきてどんどん素になってきているとも言う。「よくあんな小説投稿できるな」

 ボンッと爆発したかのようにいっそう綴はで上がった。「ぅぅ……」

「タイトルは何だっけ? ええと──」

「い、言わなくていいって」

 言うな、と言われたら言わねば失礼というもの。ラブレターの文章が記されていたウェブ小説の名を口にする。

「『陰キャなわたしの心は、陽キャな彼の溺愛に全部呑まれてしまいました』だったな、たしか。まずさ、タイトルなげえよ。内容も欲望全開すぎ。脂っこすぎて胃もたれしたわ。ウェブ小説ってみんなああなのか? 何つーか、即席の歓楽に極振りしたジャンクフード食ってるみたいだった。お前、部誌のほうでは、『花びらの旋律』とかいう純文学気取りのど下手ライト文芸書いてるくせにネットだとはっちゃけすぎだろ」

「ぅぅ、もう、やめて……」

 か細い声は涙で潤みはじめていた。

「ま、そんなことはどうでもいいんだ」と話を転調させる。

 じゃあ何でけなしたのよ、と問いたげな上目遣いの瞳に向かって言う。

「重要なのは、そのネット小説のヒロインが明らかにお前で、ヒーローがこれまた明らかに潮だってことだ」

 見る人が見れば、モデルがそうだとすぐに気づくだろう。それほどキャラクター設定が二人に酷似していた。ヒーローキャラの名字なんて、まんま〈潮〉だしな(ただし、需要に合わせたのか彼の容姿に関しては改変されていた)。

 続けて言う。「普通さ、何とも思ってない相手を、自分をモデルにしたヒロインのヒーローに抜擢ばってきするか? たぶんしないんじゃねえの──あれってお前の願望が大いに影響してんだろ?」

「ち、違うし」綴は食い下がるようだ。「ああいう溺愛系には一定の需要があるから書いただけだよ。キャラ設定だって、アンダードッグ効果を狙ったら自然とああなったの。モデルは、その、えと、身近な人を参考にしたほうがリアリティーがあるかなって」

「リアリティーはまったくと言っていいほどねえけどな。理想と現実逃避の欲張りセットなんだもん、リアリティーなんてはる彼方かなたに置き去りにしてんじゃん」

「い、いいでしょ、趣味で書いてるんだから」

「まあな」実際それなりに人気みたいだしな、とささやくように続け、それからごく自然な口調で、「じゃ、とりあえずお前は潮が好きってことでいいんだよな?」

「え、うん、そうだけど──あ」綴は、またしても失言。

「りょーかい。じゃ、潮にはちゃんと伝えとくわ」

「待って」ガシッと腕をつかむというわけではなく、綴は俺の袖を控えめにつまんだ。「それはやめて」

「何で? 潮なら余裕で落とせると思うけど?」

「わ、わかんないでしょ。陰キャは嫌だって言うかもしれないし」

「いや、それはない。お前がその気になれば告った流れで当日即ハメもできるぞ、間違いなく」

「そ、そくはめ?!」

「そう」

「そ、それは、その、少しずつ仲を深めてから」

「じゃあそういうふうに立ち回ればいいじゃん」

「そんなに簡単にできないよ……」

 ふうん、とふんわりと受け止め、「あくまでも気持ちを伝えたくはないっての?」

 綴は、こくりとうなずいた。「恥ずかしいし怖いし……」

「じゃあしゃーねえか」

 俺が諦めるようにそう言うと、綴は安堵あんどするように息をつき、つまんでいた袖を放した。しかし、

「ただ」と俺が再び口を開くと、綴も再び袖をつまんだ。まったく信用されてなくて笑える。

「な、何?」

「せめて何か伏線を張ってやらないと潮は気づかないぞ」

「……うん」かすかな声がうなずいた。

 綴の細い指をほどく。抵抗はない。「ま、後悔のないように」

 忙しい時にありがとな、と最後に言い、背を向けた。

 そんなことわたしだってわかってるよ──ぬるい風にさんざめく桜の奥から、そんな声が聞こえた気がした。



 明くる日の教室には潮に話しかける綴の姿があった、ということはない。

 だが、綴の瞳にともる恋の篝火かがりびを見るに、そのうち何とかなりそうな気配はある。

 かもしれない。

 たぶんな。

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