第30話 全ては成功のため①

 十二月も中旬に入り、クリスマスムードも随分と高まってきた頃、僕と椿カナデはすっかり勉強を教え合うようになっていた。


 彼女は今時珍しく紙のノートで勉強するアナログ派だった。ペンを握る彼女の白魚のような手には、ペンダコというのだろうか。爪の近くの皮膚が厚くなって、盛り上がっている箇所があり、それを隠すのが彼女の癖だった。


 その勉強方法について彼女はある時、僕に話してくれた。互いに集中力も緩み、休憩も兼ねていた。


「母……というか、祖母の方針なの。手で書いた方が頭に入るからって。そんなこともないと思うのだけれどね」


 実際のところどうなの、と尋ねる僕に彼女は「半々ね」と答えた。


「手で書くっていうのは、視覚だけじゃなくて触覚も使った記憶方法なのよ。出来事記憶でいうところの、ある匂いを嗅ぐとそれを嗅いだときの体験を思い出す、じゃないけれど、他の行動や刺激と一緒にインプットすることで覚えやすくしているらしいわ。……少なくとも、映像授業を眺めてるだけよりは覚えるわ。問題集を解くといっても、問題は無限ではないし」


 なるほど、と僕は納得する。


「でも時間効率も悪いし、手も疲れる。場所も選ぶし、お金もかかるわ」


 確かに、と思う。キーボード入力より遥かに速度は落ちるし、そもそもリストデバイスやタブレットといったデジタルデバイスの普及によって、昨今、書き物としての紙はめっきり見なくなった。需要もなければ、生産量も自然と減る。紙は最早嗜好品に近い。


「正直言って非効率的よ。それに古臭いし、人目にも付くわ」


 フリースペースで勉強していると、どうしても人目には晒される。物珍しい、ともあれば好奇の目を向けてくる利用客は少なくなかった。

 けれど彼女は紙とペンでの勉強をやめなかった。


「でも母と祖母がそう言うから」


 やめられないと言うのが、正しい気がした。


「おばあさん、同居してるの?」


 その珍しさから、僕は思わず尋ねてしまう。

 彼女はぴくりと肩を震わせて、ややあってから「えぇ」と肯定した。


「祖母がどうしても施設は嫌だ、家族といたいと言ってね。身体もよくないのだから、いい加減、施設に入って欲しいのだけど」


 けれど答える彼女の声は一層冷え切っていた。祖母と一緒に過ごせて嬉しいという感じではない。むしろそのワガママを迷惑に思っているかのように感じた。


 現在の日本では、高齢者は自宅ではなく、介護施設で過ごすのが一般的になっている。健康に問題が生じた場合はもちろん、ある程度の年齢に達すると、国から入居通知が来るのだ。もちろん、施設はもちろん国が運営しているし、そこで働くスタッフも国が研修をし、専門知識を身につけたプロフェッショナルたちだ。


 人口減少の著しい現代において貴重な労働力である生産人口を、介護を始めとした家庭の事情で失わせるわけにはいかない。基盤には、そういう国の方針があった。

 もちろん、そうして高齢者を一律で施設で囲うことを、まるで収容施設だ。姥捨て山だと称し反対する人もいる。しかし、背に腹は代えられない。


 ともあれそういった介護サービスの充実により、親族の負担は一昔前に比べ、身体的にも金銭的にも随分と減った。施設のグレードを選ばなければ、少額の自己負担で希望する高齢者が全て入居できるだけの設備を国は用意している。

 しかし施設入居は強制ではない。中にはやはり家族と過ごしたい――家で最期の時を迎えたいという人もいる。そういった人は介護設備をレンタルしたり、医者に往診してもらったり、介護スタッフを派遣してもらったり。――要は金がかかるのだ。


 椿カナデの家は、その選択肢が取れるだけの家だった。


「嫌味だと思った?」

「嫌味だと思う?」

「どうして?」

「金持ちアピールだって」


 フッと笑う気配。僕は顔を上げる。けれど彼女は、変わらず冷めた表情のままだった。


「構わないわ。そう言われているの知ってるから。今時アナログ、化石人間、金持ちの道楽って」


 彼女をそういうふうに揶揄する生徒がいるのは、耳に聞いたことがあった。事実、決して安くない紙製ノートを惜しげもなく消費できる時点で、彼女は裕福な部類だろう。


 けれどそれを笑うのも、笑われたことを笑うのもなんだか違う気がして、僕はしばらく考えた挙げ句、「どうかな」と曖昧な返事をした。


「勉強法なんて人それぞれだし、効率が上がるのが分かってて、それを実行できるだけの環境があるなら、誰でもそうするんじゃないかな」


 彼女はゆるりと顔を上げた。その瞳が、ようやく僕を映す。けれど僕は彼女の方を見なかった。


「実際君は、この方法で優秀な成績を維持できてるんだし。僕は……少なくとも、関係ない第三者に陰口を言われたからってやらないのは、なんか違うと思う」


 それこそ――


「『使えるものは使う』」


 言おうとした一言を先回りされ、僕は目を丸くして彼女を見た。

 彼女はまた手元に視線を落とした。


「そうね。使えるものは使って当然だわ」


 僕と視線が交差することはない。


「そうね。『人生の成功』のためだもの」


 それが彼女の口癖だった。

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