第13話 百合野トオルは夏に燃ゆ③
百合野トオルと僕が次に顔を合わせたのは、彼女の謹慎が開けた七月のことだった。
彼女は何事もなかったかのように教室のドアを開けて入ってきて、その姿にクラス中の視線が集中した。けれど彼女はその衆目に一切動じることなく、手近にいたクラスメイトに「おはよう」と朝の挨拶をしながら自席へと着席する。声を掛けられた方が、彼女のあまりに平然とした態度にドギマギしていたほどだった。
そんな彼女が僕に声を掛けてきたのは、放課後、授業が終わってすぐのことだった。
「時間、ある?」
僕はこくりと頷いて、席を立った。近くにいたいつもの男子二人に別れの挨拶すると、二人は気まずそうに互いに顔を見合わせながらも、各々言葉を返してくれる。
「あ、あぁ、じゃあな」
「また明日」
帰る生徒の流れに沿って、逸れて、向かった先は体育館裏だった。
久しぶりに来たな、と思っている僕の視線の先で、百合野トオルは側面出入り口の階段に腰掛ける。そこは夜桜カレンがよく座っていた場所だった。
「アンタも座りなよ」
促されて、彼女よりも下の段に座る。どこか鉄臭さを帯びたぬるい風が、頬を撫でた。
「この間は悪かった」
小さな謝罪が、滲む汗の上に落ちてくる。何のことが分からず、僕は首を傾げて少し後ろを振り返った。
「薄情者って言ったこと」
付け足した彼女の言葉に、あぁ、と思い出したように呟く。
「そういえば言われたね」
途端、彼女は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「アンタ、鈍感って言われないか?」
「どうだろ」
首を捻る。僕はぽつりと帰した。
「多分、人から見てそう見えるなら、本当にそうなんだろうから」
「鈍感なこと? それとも薄情者ってことが?」
「うーん、どっちもじゃないかな」
悩みながらもそう肯定すれば、彼女は盛大な溜息を吐く。
「アンタなぁ……いや、いいや。言ってもしゃあないし」
何が仕方ないのか分からないが、ともかく彼女は何かを諦めたらしい。足を肘掛け代わりに手を組み合わせると、沈痛な面持ちで口を開く。
「……あんたに言われて思ったんだ。カレンのためだなんて言って、結局アタシは自分のために怒ってたんだって。結局はアタシが、カレンが好き勝手に言われてるのが許せなかっただけなんだ」
その独白にも似た告白に、僕はなんて返したらいいか分からなかった。返すのが正解かも分からなかった。ただしばらくして、僕は言った。
「いいんじゃないかな。自分のためでも、人のためでも。誰かのために怒れるって、すごいことだと思う」
そう言って僕は、あぁ薄情だなと、何故だか思った。
思ったのに僕の唇と喉は、止まってくれなかった。
「でも、夜桜さんは多分、東条くんと君が争うことを望んでないと思う。けど、君が怒ってくれたことを怒るような性格でもない……と思う」
そんな薄っぺらい言葉が、するすると口を突いて出る。
「……アンタにカレンの何が分かるっていうんだよ」
その通りだった。
僕は夜桜カレンの何でもなく、何も分かっていない。
どうして彼女が学校へ来なくなったのか、人から伝え聞いた話で推察することはできても、理解はできていない。
でも、と百合野トオルは否定を口にする。
「でもそうだな……確かにカレンは、そういうやつかもしれない」
夜桜カレンだったら、自分が原因で人と人が争うことは望まない。そう想像することができるぐらいの時間は、僕は彼女と共有していたと思う。
「……アタシさ。カレンに多分、自分の夢を肩代わりさせてたんだ」
と、百合野トオルは言った。それがどういう意味だか、僕にはピンとこなかった。
彼女は相変わらず、僕のそんな心情を察してくれた。
「アタシが陸上部だったのは知ってるか?」
その問いにこくりと頷く。
有名な話だ。陸上部の百合野トオル――中学生時代から数々の大会を総なめにしてきた、俊足のエース。その見目の良さと飾らない性格から女子人気が高く、部活動には常に何人もの見学者がいたというし、彼女が走れば黄色い悲鳴が上がったという。
そんな、陸上部の『王子さま』。
けれどそれも、過去の話だ。
「夢っていうほどじゃなかったかもしれないけどさ……陸上がアタシの全てだったんだ。両親もずっと支えてくれて、周りも応援してくれて、その期待に応えたくて、どこまで行けるのかやってみたくて……」
彼女は怪我を負った。詳しいことを、僕は知らない。けれど去年、高校二年生の夏。彼女は怪我を負って、陸上競技を引退した。
それは当時在学中だった生徒のほとんどが知っている。
「なのに急にそれが取り上げられて、どうしていいか分からなくて、親も友達も、周りはみんな腫れ物に触るようでさ……そんな時に声を掛けてくれたのが、カレンなんだ」
百合野トオルは、夜桜カレンと出会った。そこは、失意の底だった。
「――眩しかったよ。恋をして、結婚して、幸せな家庭を築きたいっていうカレンは。……応援、してたんだ。馬鹿な夢だって、そんなん叶うわけない理想だって思うけどさ、不思議と。笑い飛ばせなくてさ」
彼女のいうことは、なんとなく分かる気がした。
夜桜カレンは眩しい。まるでスポットライトに照らされた夜桜のように、夜闇の中で煌々と輝く。僕はそれを映像の中でしか知らないけれど、きっと目の前に存在したら、彼女を見るのと同じような感情を抱くのだろうと思う。
どこかネジが外れたような、天真爛漫さ。周囲を呆れされるような笑顔。
それを嘲笑う人もいるだろう。だが、笑みを浮かべる人もいるだろう。
――僕は、どっちだったのだろう。
「アンタに頼みがあるんだ。……これは完全に、アタシのエゴだけど……一緒に考えて欲しいんだ。カレンがどうしたら学校に来れるか」
真摯な声が、僕の上に降る。
「カレンのいない学校は、やっぱり寂しいよ」
落とされたその呟きは、まるで冬のような寒々しさを帯びていた。
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