第7話 恋するカレン③
――夜桜カレンは、恋をしていた。
その人は同じ三年生でB組の、東条アキラといった。
別日の昼下がり。校内を一人で歩いていた僕は、突然廊下の影から腕を引っ張られ、たたらを踏みながら引きずり込まれる。そこには案の定、夜桜カレンがいた。
「こっちなのです。折角なので、キミにカレンちゃんの好きな人を紹介するのです」
そう言うと彼女は僕の腕を抱えるように掴み、ぐいぐいと引っ張り始めた。僕はその手を振りほどけず、なすがまま彼女について行った。
毛足の短い絨毯が敷き詰められた廊下は、足音がしない。その上を彼女は、半ばスキップするように足取り軽く、楽しげに僕をどこかへ連れて行く。
歩きにくさに何度かバランスを崩しつつ辿り着いたのは、東棟と西棟を繋ぐ渡り廊下の二階だった。吹き抜けになった広大な空間には、ガラス張りになった天井から明るい光が降り注いでいる。下には昇降口と談話室代わりの空きスペースがあり、しゃれた丸椅子とテーブルがいくつか置かれていた。
こっちこっちと夜桜カレンが手招きする。促されるがまま渡り廊下の窓からひょこっと顔を出せば、半分が校舎の影に覆われた中庭が見えた。芝生で覆われた中庭にはいくつかのベンチが置かれていて、食堂で昼食を終えた生徒が各々の時間を過ごしている。
僕はそんな平和な光景を眺めながら、聞いた。
「紹介って、覗き見して?」
「失礼な! 覗き見ではないのです! ……多分」
自分がこそこそと隠れて盗み見ているという自覚はあるようだ。
こほんと咳払い一つして、彼女は視線を中庭に戻す。
「ほら、あそこです。あのベンチの真ん中に座っているのが、カレンちゃんが好きな『東条アキラ』くんです」
彼女が指さした中庭の隅には、大きな木が植えられていた。その木陰のベンチに、数人の男女が座っている。輪の中心になっているのは、一人の男子のようだった。
「三年生?」
「そうです」
「B組? C組」
「B組です。……キミ、本当に他人に興味がないのですね。彼、バスケ部のエースですよ」
そんなこともないけどと思いつつ、返すのも面倒で僕は眼下に目を向け続けた。
東条アキラは、遠目に見ても分かるほど容姿端麗な少年だった。すらりとした目鼻立ちに、制服の上からでも分かる引き締まった痩身。立てば背丈は結構なものになるだろう。明るい髪色からして外国人の血が濃いのかもしれない。
夜桜カレンには誰か想い人がいる。だから誰とも付き合わない。
一部ではそんな噂があることも知っていたが事実だったとは。それに『誰か』が彼だというのも、僕は初めて知った。
話は随分と盛り上がっているらしく、内容までは聞こえないが僕らのところまで談笑の声が飛んでくる。歯を見せた、意外に豪快な笑い方だった。しかし下品さはなく、むしろ爽やかささえ感じられる。
東条アキラは同性の僕から見ても、イケメンと呼んで差し支えのない男子だった。
「アキラくんはですね~、カレンちゃんのヒーローなのですよ」
紅潮した頬に両手を当て、夜桜カレンが身をくねらせる。
きっかけは、去年の文化祭だったという。
毎秋、文化の日に合わせて開催されている高等学校の文化祭は、地域と交流を持ち社会性を育む機会として一般公開日が行われている。もちろんその日は安全のために警備員が配置されるし、入場に際して手荷物検査も行われる。それでも人格の検査までは出来ないわけで、彼女は悪質な客――いわゆるナンパ男に絡まれてしまったという。
周囲の人が警備員を呼びに行ったが、即座に駆けつけられるわけでもなし。困り果てる彼女前に現れたのが、東条アキラだった。彼は夜桜カレンとナンパ男の間に割って入ると、逆上した男の手を捻り上げ、そのまま取り押さえたという。
「それからアキラくんは、カレンちゃんの王子さまなのですよ」
ヒーローに続いて、王子さまと来た。
白馬に乗った王子さまが、お姫様を迎えに来る。そういった童話が古今東西、昔から語り継がれているのは知っているが、さすがに偏ったジェンダー論だと思うし、憧れるにしてもイメージが古臭すぎやしないだろか。
うっとりと語る夜桜カレンに、僕は思わず白けた目を向けてしまう。
「だったら覗き見なんてしないで、堂々と輪に入っていけばいいのに」
「できるわけないじゃないですかっ。だってクラスも違うし、周りにはいつもいっぱい人がいますし……あ、あと、何を話していいか分からないじゃないですかっ。もう!」
握った拳をぶんぶんと振って、必死に言い訳する。喋りたいけれど、喋れない。もっと近くで見たいけれど、近づけない。相反する二つの感情に振り回されているさまは、なんだかとても恋愛っぽかった。
「彼だったら、君の恋人に相応しいと?」
「相応しい相応しくないの問題じゃないのです。好きだから、彼とそうなりたいと思うのです」
そういうものかなと、やっぱり僕は思う。
恋愛の延長にあるのは、結婚だ。幸せな家庭を築くのに何が一番必要かと聞かれたら、僕は財力だと答えるだろう。
お金は力だ。力は選択肢だ。
国民負担率は優に六十%を越えたこのご時世。ベーシックインカムが導入され、高校教育の無償化を始め、社会保障は非常に充実し、国民の選択肢は少なくなったが、日本は人並みの暮らしは保障される国となった。けれどそれは最低限の暮らしには困らないというだけの話で、当たり前だが可処分所得が多い方が贅沢な暮らしは出来る。
隣を見れば、夜桜カレンは変わらず、中庭を見下ろしている。
幸せそうな横顔だった。頬杖を突いてふわりと目を細め、口元には柔らかな微笑。周囲にはまるで、色とりどりの花が咲き乱れ、蝶が飛び、小鳥が囀っているかのような幻想すら見えてしまう。
絵になるとは、まさに目の前の光景のことをいうのだろう。
――愛情。
彼女のその眼差しは、どうしようもなくその二文字に満ちていた。
夜桜カレンは、恋をしていた。
恋に恋して、一人を愛した。多くは望まない、恋だった。
けれどその恋は、唐突に終わりを迎えた。
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