第8話 夜桜カレンは春に散る

 五月も終盤にさしかかったその日、僕は夜桜カレンに連れられ、何度目か分からぬ『カレンちゃんの好きな人ウォッチング』に駆り出されていた。いつもの二人と食堂で昼食を食べ終えた後、一人用を足すために別れたその帰り道、彼女に捕まったのである。


 いつも通り彼女に腕を引かれ、最早観測定位置である渡り廊下のある二階に向かう。僕ら三年生の教室は最上階の三階にあるため、来た道を戻ることになる。階段を降り、教職員室の前を堂々と通り、そうして最後の曲がり角にさしかかった、その時だった。


「夜桜カレンはねーよ!」


 嘲笑にも似た声が、曲がり角の向こうから聞こえて、僕らは足を止めた。

 周囲を憚らぬその声は、渡り廊下の吹き抜けにじっくりと反響してから消える。

 ――東条アキラ。

 ちらりと除くと渡り廊下の真ん中に、つい先日、こっそりと彼女に紹介してもらった顔があった。


 両手に花というやつだろうか。窓辺に背を預ける彼の両脇には、女子が二人ぴったりと身を寄せている。


 ぐいと力任せに腕を引かれ、僕らは曲がり角の影に咄嗟に身を潜める。隣を見れば彼女は固いコンクリートの壁にぴったりを背を付けて、僅かに俯いている。さらりと流れ落ちる長い黒髪が顔の半分を覆い隠していて、表情は分からなかった。


 僕らの存在には気付かなかったらしく、彼らは話を続ける。


「よかったあ! だよねー、あの子はないよねー」

「ないない。自分のことちゃん付けで呼ぶ時点でイタすぎだし、〈四季〉だからって調子に乗ってんじゃん」

「まじうざいよねぇ。つーか〈四季〉って何。四天王にでもなったつもりなの? 四天王かっこ草って感じだけど。ただの頭おかしな連中なだけじゃん」

「言ってやんなよ。可哀想だろー」

「あははは、アキラったら優しー!」

「つかかっこ草とか死語だろかっこ草」


 笑い声が辺りに響く。それを聞きつけてか、渡り廊下を通る者はいない。

 手の平にじっとりと嫌な汗が浮かんできた。


「つーか、なんで俺があの女のこと好きだと思ったわけ?」

「だってアキラったらモテるのに誰とも付き合わないから。ほら去年の文化祭だっけ? アキラがあの子助けた時あったじゃん」

「そうそう、結構噂になってたよねー。アキラが夜桜カレンを好きなんじゃないかって。だってあの子、アキラのこと好きらしいじゃん」


 女子二人の言い分に、彼は鼻を鳴らす。


「はっ、まさか。あるわけねーじゃん、俺があの女を好きとか。あんな男を選り好みしてるような生意気女」


 夜桜カレンが微かに肩を揺らす。その振動が、掴まれたままの制服の袖から伝わった。けれど、それだけだ。


「ただ助けに入った方が俺の株が上がるだろ? カッコイイ正義のヒーローってな」

「うーわ。すっごい打算じゃん。アキラ、サイテーだしサイコー」

「サイコー!」


 僕はこの場から逃げ出したくなっていた。だというのに足が地面に縫い付けられたかのように動かない。それは彼女も同じなのか、じっと息を殺したまま微動だにしない。

 脳が何故だか、警鐘を鳴らしていた。


「俺は誰とも付き合わない主義なんだよ。俺はみんなのものー! なんてな!」

「きゃーっ」

「キャーッ」


 東条アキラが二人の女子の肩を抱いて引き寄せれば、歓喜の声が上がる。

 彼はそのまま、舌なめずりするような声音で言った。


「第一さぁ、知ってるか? あの女、実はとっかえひっかえ男を食い散らかしてるらしいぜ」

「うわ、それホント?」

「なんでも、一回『いいこと』する変わりにフッたってことにしてるとか」

「まじで? それ自分がまだ清いですーって見せたいってこと? 最低じゃん」

「らしいらしい。男子の間じゃ有名だぜ? フられた奴がそう言ってた」

「ないわー」

「あり得なーい」


 事実がどうかは、僕には分からない。けれど『好きでもないのに付き合うのは失礼』だと言った少女が、暴力を奮われそうになっても告白を断った女の子が、そんなことをするわけがない。


 明らかな嘘だ。

 そう思うのに、僕はただ彼らの会話を聞くことしか出来なくて――


「俺、いくら可愛くても夜桜カレンみたいなビッチは無理だわ。矢印向けられるだけ迷惑だっての」


 その言葉が、決定打だった。

 夜桜カレンが踵を返す。ぎゃはははと下品な笑い声が環境音を掻き消す中、静かに、静かに駆けていく。


 ――どうしよう。そんな陳腐な問いが脳裏をよぎった。

 考えている間にも時間は過ぎ、彼女の背は遠ざかっていく。


 ――この時の選択が正しかったのか、僕は未だに分からない。


 夜桜カレンに連れて来られた僕は結局、その場に居続けるわけにもいかず、彼女の後を追った。



   *



「――桜の花を、見たことがありますか?」


 それは春を象徴する、彼女の花。

 彼女が足を止めたのは、見慣れた体育館裏だった。


 相変わらずひとけはない。彼女は僕らの『空』を見上げて、震える声で、ようやく追いついた僕に背を向けたまま、そう尋ねた。静まり返った空間に、彼女のか細い声が響いた。その余韻が消えた頃、午後の授業の予鈴が聞こえた。


 僕は沈黙を返した。


 見たことはあった。けれどそれは、図鑑に載った写真での話だ。かつて美しいと持て囃され、全国各地に植樹されたとされる樹は、姿を消してしまった。山野に存在したとされるその木々が今はどうなっているのか、僕らは知らない。


 国が管理運営している植物保護園に、いくつか生きているのは知っている。けれど僕はそこに行ったことがない。そもそもその樹は、花を咲かせられるのだろうか。

 ――四季の失われた、この世界で。


「桜って花は、散り際が一番綺麗だと聞いたのです」


 けれど僕らは知っている。

 一斉に咲き誇り、瞬く間に散っていく、春の花の名を。


 ねぇ、と夜桜カレンが振り向く。

 その両目には、溢れんばかりの雫が湖のように溜っていた。

 それが今、ようやく溢れて零れ落ちる。


「キミの目には今、カレンちゃんは綺麗に映っていますか?」



 そうしてその日、夜桜カレンは散った。



   *



 翌日から、彼女は学校へ来なくなった。

 当初はそのことを噂する人もいたが、一週間と経たず彼女の存在は過去となり、話題にも上がらなくなった。人は思っている以上に、自分以外に興味がない。端的に述べてしまえば、そういうことだった。


 六月に入ったその日の帰り際。四月から一切変わらぬ過ごしやすい気温の中、いつもと変わらぬ一日を過ごした僕は、昇降口の軒下で足を止めた。それはあの雨の日、彼女が立ち止まっていた場所だった。


 頭上を見上げる。けれどそこに空はない。

 あるのは天上ではなく、巨大な鉄骨とアクリル板に覆われた、広大な天井だった。頭上、数百メートル。ゆるく弧を描くその巨大なスクリーンに、見飽きた青空が投影されている。


 ――シェルター。固有番号『IBK-1』。

 それが僕たちを守る、僕たちの世界の名前だった。


 かつてこの国には四季があった。

 春、夏、秋、冬。

 けれどいつからか、夏と冬が長くなった。春と秋は次第に短くなっていき、僕らの祖父母の世代には消えてしまった。夏と冬が交互に巡るようになり、酷い暑さ寒さが人々を襲うようになった。


 そうして、二十一世紀の末。世界は地球温暖化の影響で、日毎に激しい寒暖差と異常気象に見舞われるようになった人類は、自然との共生を放棄せざる得なくなった。

 苛烈な気象から逃れるため作り出したのが、巨大なドーム状の建造物『シェルター』。人々は中核都市を中心に直径数㎞にも及ぶシェルターを建設し、その中で穏やかな生活を歩み始めた。


 人工の空、人工の風、人工の光、人工の雨。それらによって、シェルターの中には一年中温暖で安定した気候がもたらされた。


 そして、季節は完全に潰えた。


 急激な地球の環境変化により、多くの動植物が絶滅した。生き残ったそれらがどんな風に〈外〉を過ごしているのか、僕らは知らない。シェルター内には幾ばくかの植物が残ったが、それらが、花を咲かせることもなければ実を結ぶこともなくなった。


 全ては知識だ。教科書の中の歴史だった。

 この国にはもう『四季』は存在しない。失われた季節が、僕らの世界から桜を始め、あらゆる花を奪っていった。

 残ったのは、代わり映えのしない毎日だけだ。


 僕らは知らない。僕たちはシェルターの中で産まれ、シェルターの中で死んでいく。ここは僕らの卵であり、繭であり、棺桶だ。


 それが、僕らの世界。

 平和で安全な、箱庭だった。


 偽りの空から視線を下ろし、僕は帰路につく。いつも通りの帰り道、いつも通りの毎日。頭上には無音の宅配ドローンが飛んでいた。

 もうゴミ捨ての途中で気まずい告白シーンに出くわすこともなければ、謎の好きな人ウォッチングに付き合わされることもない。


〈四季〉の春――夜桜カレン。


 泣きながら笑った彼女の顔は、僕が十七年の人生で見たどんな花よりも、とても美しかった。

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