第4話 始まりの春③

 数日後だった。


「はい。どうぞなのです」


 食堂で昼食を済ませ、教室でダラダラとした時間を過ごしていた僕の元に、笑顔の夜桜カレンが尋ねてきた。彼女は両手で持ったお菓子の箱を、にこにこと僕に差し出していた。


 静かなどよめきが室内に走った。普段とは違う異常事態の発生を察して、いくつかのグループになって散っていた教室中の生徒の視線が僕と彼女に集中する。その視線の多さに少し驚きつつ、僕は眼前に突きつけられたお菓子の箱を見た。それは学内の購買部で売っている、細長いビスケット棒にチョコレートがコーティングされた、国民的お菓子だった。発売開始は確か百年以上も昔だ。


「この間のお礼です」


 僕がお菓子を受け取らずにいると、笑顔のまま彼女は補足した。その補足が先日、彼女が告白主から殴られそうになったことに対するものだと気付くのに、僕は数秒を要した。


「あぁ、そのこと。別にいいのに。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうなのです」


 変に意固地になって受け取らないのも失礼だと思ったし、何より衆目の前で事を大きくしたくなかった僕は素直に受け取る。夜桜カレンは丁寧にぺこりとお辞儀をすると、自席へと戻っていった。全席フリーアドレスなので厳密には自席は存在しないのだが、毎日通っていれば定位置というものは自ずとできあがる。


 彼女の属するグループのその『島』は教室の真ん中に存在して、彼女の席の隣に一人、その後ろに二人の少女が座っていた。


「カレン、アイツと仲良かったっけ?」

「気になりますか~? トオルちゃん。えぇ~どうしよっかなぁ~、教えて欲しいです?」

「いや、別に」

「えーっ、酷いです。もっとこう、ぐいぐいと聞いて下さいよぉ~」


 パックジュースを片手に、金髪の少女――百合野トオルが夜桜カレンと漫才にも似たやりとりを繰り広げる。彼女は暑がりなのかブレザーを着ておらず、上はシャツ一枚でネクタイもリボンもしていなかった。夜桜カレンに腕を掴まれ、彼女は振り子人形のようにガクガクと揺さぶられていた。


「……あんまり関わらない方がいいと思うけど」


 ぽつりと零したのは萩原アカネだ。ボブカットの茶髪に、赤いフレームの眼鏡。調べ物でもしているのか、滑らかな手つきで虚空に指を滑らせている。


 見事な赤髪を後ろでゆるく一本の三つ編みにした少女は、何も応えなかった。紙のノートを広げ、黙々と勉強をしている。彼女は椿カナデ。このクラスの委員長を務めていた。


 いつもの調子の、いつもの四人組の光景だった。同じく教室中の視線もいつの間にか僕から外れていて、教室はほのかな喧騒が漂ういつも通りの昼休みを取り戻している。


 僕は、手の中に残った未開封のお菓子の箱を見た。箱には『極細』と書かれていた。


「お前、夜桜カレンと仲良かったの?」


 僕の席の後ろ。制服を着崩した男子生徒が、先程、百合野トオルが夜桜カレンにしたのと同じ質問を投げかける。その隣に座るやや小太りの男子も、興味津々といった目を向けてくる。


「そんなこともないと思う。ただのクラスメイトだと思うけど」


 特に理由もないが昨年からよく一緒に行動している二人にそう返して、僕はお菓子の封を開けた。中には細い棒状のお菓子がぎっしりと詰まった小袋が二つ入っていて、その片方を開けると僕は無言で二人にそれを差し出した。


「さんきゅ」

「ども~」


 それぞれがそれぞれの礼と共に、袋からお菓子を好きな本数だけ取り始める。僕も極細のそれを一本取って、口に運んだ。

 チョコレート菓子なんて久しぶりに食べたな、と思った。ポリポリとした細やかな食感と共に、チョコレートの甘い味が口の中を支配した。



   *



 夜桜カレンは、とにかく目立つ子だった。


 お世辞にも、勉強も運動も人より秀でているとは言えなかったが、何事にも一生懸命に取り組む彼女は周囲を明るくした。ホームルームで意見が求められれば率先して挙手し、具合が悪い生徒がいれば目聡く気付いて真っ先に声を掛けた。


 彼女には華があった。


 無邪気で天真爛漫。彼女が笑えば、周囲も笑う。誰とでも仲良く出来る、どこか夢見がちな女の子。


 端的に言えば、彼女はキラキラしていた。

 けれどそれがイコール、クラスのムードメーカーで人気者かというと、少し違った。


 男子生徒にとって彼女は高嶺の花である一方で、女子生徒からは密かに嫌悪と嘲笑の対象だった。彼女が廊下を歩けば男子生徒たちは振り向き、女子生徒たちは白けた目を向けた。

 良くない噂は、一つや二つではなかった。


 付き合っていた彼氏が、夜桜カレンに惚れてしまった。あるいは、夜桜カレンがわざと彼氏を籠絡した。手当たり次第に男子生徒を誘惑して、告白させては玉砕させる。その様を見て楽しんでいるのだ、と。


 そんな話はこの二年、噂話に疎い僕の耳にも幾度となく入ってきた。

 空気が読めないイタい子。他人の男を寝取る小悪魔。

 華々しく衆目を集める裏で、そんな悪意の言葉に彩られた少女。

 それが、夜桜カレンだった。



   *



 ――珍しく雨が降っていたその日の帰り際、僕は昇降口で彼女を見つけた。


 午後の授業が終わって、少しした頃だった。部活のある生徒は足早に各々の部室や活動場所へ向かうが、いわゆる帰宅部の僕はいつものように漫然と帰り支度をし、いつもの着崩しと小太りの二人と適当に挨拶を交わして、帰路についた。その矢先だった。


 左手に持っていた傘の留め具を外して、気付く。

 昇降口の軒下。彼女はそこに一人佇んで、ぼうっと頭上を見上げていた。

 鉛色の重い天井からは、大粒の水滴が絶え間なく滴り落ちている。待てども待てどもその雨滴が止む様子もなければ、弱まる気配もない。しかし彼女の手に傘はない。


 通り過ぎる生徒たちはそんな彼女に視線を向けるが、誰も声を掛けることなく、次々と傘を開いて雨の中へと消えていく。中には嘲笑にも似た笑みを浮かべる者や、ひそひそと陰口にも近い言葉を発していく者もいる。けれどそのどれもが、彼女には届いていたけれど届いていなかった。


 彼女はただただ、天を見上げ続けていた。

 それは途方に暮れているというよりは、まるで雨空に魅入っているかのようだった。


「傘、持ってこなかったの?」


 気付けば僕は彼女に――夜桜カレンに声を掛けていた。

 夜桜カレンは頭上を見上げたまま「はい」と応えた。


「今日は曇りのち雨の日の予報なのに?」

「予報が外れるかもしれないじゃないですか」


 口元に微笑を浮かべたままこちらを見ずに、そう言い切った夜桜カレンに僕は思わず顔を顰めそうになった。

 僕のそんな気配を察して、夜桜カレンが振り向く。その顔には、いつも通りの笑みがあった。


「万が一ってことがあるかもしれないじゃないですか」


 その言葉は起こり得る確率が限りなく低い悪いことに対して使うものではないかと思って、けれど僕は開きかけた口を噤む。確かに、その使い方は間違っていないかもしれなかった。


「知ってます? 昔は、天気は決まったものじゃなかったらしいのです」


 再び頭上を見上げて、彼女は語る。頭上の鉛色は、先程と何一つ変わらぬ顔色で僕らを見下ろしている。


「それを人間が予測し始めて、少しずつ天気のパターンが分かって、そのうちどんどん正確に当てられるようになったらしいのです」


 当然知っている。それらは小中学校の理科で習う項目だ。


 人々は遥か昔から、空の移ろいと共に生きてきた。晴れに畑を耕し、雨に書物を読んだ。日本にはそんな言葉があったほど、天気というものは人々の暮らしと密接に繋がっていた。故に人々は天候を予測し、報じた。その予測技術は時代を重ねるごとに精度を増し、長年の歳月から得たデータとコンピューターによって、随分と正確な予測を出せるまでに進化した。


「それをカレンちゃんは、すごいことだと思うのです」


 だから天気が、予測から予定――設定するものになった今でも、僕らは天気予報を予報と呼ぶ。


 字を見れば『予め報じる』なのだから、意味としては間違ってはいない。同じように、彼女が言った『万が一』も間違っていない。彼女の『万が一』が起こる時は、システムに異常が生じた時なのだから。


「でも、つまらないと思うのです」


 雨空にそう言い放って、夜桜カレンは跳ねるように雨の下へ一歩を踏み出した。そうして両手を広げてくるりと周り、振り撒く笑顔。天から滴り落ちた雫が彼女の指の、髪の、スカートの動きに跳ねて、光の粒子となって宙に瞬く。


「最初から全てが決まってて、分かってるなんて、つまらないって、そう思いませんか?」


 その問いかけに、僕は応えなかった。ただ偽りの雨空の下でくるくると舞い踊る少女を、眺めていた。

 けれど彼女の言いたいことは、なんとなく――なんとなくだけれど、分かるような。そんな気がした。


 傘を片手にしたまま立ち尽くす僕を見て、彼女が笑う。ニシシと歯を見せて、いたずらっぽく。僕はそれを、可憐な花には似つかわしくないけれど、彼女には似合っていると思う。

 夜桜カレンは、そんな女の子だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る