第五話 艶やかなる ②
「あら、九鬼くん、こんな時間に珍しいわね」
「どうも。ちょっと野暮用でね」
「あ、九鬼さんだ! 最近うちの店来てくれないじゃないですか~」
「忙しいものでね。余暇ができたらまたお邪魔するよ」
すれ違う人のほとんどが九鬼さんを見かけては声を掛けるので、隣を歩く僕は気まずい思いを強いられている。
「えっと、あの、ここって……」
九鬼さんに手を引かれやってきたのはムサシ県最大の歓楽街、『ヴァイオレットシティ』だった。この街では、日が暮れてくると営業中の店は紫色のライトで入り口を照らす風習があり、街の名前もそれに由来している。
「ヤマト君はこの街に来るのは初めて?」
「えぇ」
夜のヴァイオレットシティの治安の悪さは大学生の頃から知っていたので意識的に近寄らないようにしていた。しかし日中の様子を見てみるに、違法な客引きはちらほらと目立ちはするものの、もめ事が起きている雰囲気はない。
「昼は案外、大人しい街なんだよ。面倒ごとが多いのは夜だけで」
「みたいですね。というか、ここになにをしに?」
僕は当初の目的を思い出す。僕は九鬼さんに能力を見せてもらうという名目で彼についてきたのだった。
「俺の能力を知りたいんだろう? であれば、実戦を見るのが一番だ」
悪い予感は的中したようだ。
「いやいや、ここ第二支部の管轄ですよ。まずいですって」
管轄外の地域で能力を行使したり、デルニエの検挙にあたることはやむにやまれぬ場合、例えばたまたま訪れた外出先でデルニエが現れ、当該の支部のユーバーが到着するのを待っていたら被害が拡大しそうな場合などには許可されている。
「大丈夫さ。なにも第二支部の手柄を横取りしようなんて思ってない」
しかし、今回のようにわざわざ問題を起こす哲学者を探しにこちらから出向くというのは、ひんしゅくを買いかねない行為だった。
「ですが……」
「あ、そうそう。言い忘れてたけど」
僕の言うことには取り合わず、九鬼さんは人差し指をぴんと立てる。
「俺の能力が発動してる間は、目を閉じて、耳を塞いで、息を止めておいてくれるかい?」
「どうしてですか?」
「俺の能力は対象者を選べないんだ。効果範囲内にいる人間には無差別に干渉してしまう」
話を聞く限りでは、五感のどれかしらを刺激する能力なのだろうかと推測できる。
「なるほど。でもそれだと、僕も九鬼さんの能力について何もわからなくないですか?」
九鬼さんは数秒フリーズした後で、腕組みをする。
「そうかぁ。じゃあ、頑張るしかないかぁ」
「頑張るって、なにを?」
「いや、頑張れば対象者を一人に絞ることもできるから」
「さ、最初からそうしてくださいよ……」
「集中するの、疲れるんだよねぇ」
九鬼さんはヘラヘラと笑っている。冗談で言っていたようには見えなかった。なんとなく、彼の回りだけ時間がゆっくりと流れているような感覚を覚える。
「九鬼さん、助けてください!」
そう言って息を切らしながら駆け寄ってきたのは先ほど九鬼さんと言葉を交わしていた若い女性だった。コンセプトカフェにでも勤めているのだろうか。露出の多いコスプレをしていて、目のやりどころに困る。
「どうしたんだい?」
「お客さんの一人が、ちょっと……」
九鬼さんは僕を見てにこりと笑う。どうやら仕事の時間のようだ。
「どうなってんだよぉぉ!!」
「お客様、落ち着いてください! 落ち着いて……!」
僕たちが駆けつけたときにはコンセプトカフェの中は騒然としていた。部屋の隅に追いやられた従業員たちが、大声を上げている客らしき男性に怯えた視線を送っている。
「俺はなぁ、めぐちゃんが作ったゼリーを楽しみにここに通ってるんだ! それなのに今日のゼリーはなんだ?! ぜんぜん別物じゃあねぇかよ!」
「で、ですから当店では以前から既製品をお出ししておりますので……」
「口答えしてんじゃねぇ!」
そう言って男性客はカウンターに並べられた食器や雑貨を腕でなぎ払った。床に落ちた食器が不快な音をたてて割れ、辺りに散乱する。
「まぁまぁ、お兄さん。落ち着きなさいって」
九鬼さんは一見、不用意にも思えるほど悠然と男性客の側まで近付き、なだめるように声を掛けた。
「なんだぁ……? どいつもこいつも俺の恋路の邪魔ばっかしやがって……」
そう言って男は頭を抱える。どうやら哲学者が暴れたのではなく、迷惑な客がいるだけのようで、僕は少しの安堵を覚える。
「まぁまぁ、話ならゆっくり聞くからさ」
「くそぉ……、なんなんだよ……」
そう言って、男性客は字面にうずくまる。
それを見て何かを察知したのか、九鬼さんは男性客から離れる。
九鬼さんの声かけにも全く耳を貸さない男性客の両掌から、ゲル状のものが溢れてくるのが見える。
「備えて」
「え」
「目覚める」
九鬼さんが僕に忠告するのとほぼ同時に、男性客は自信の掌からあふれ出ていたゲル状のものを勢いよく発射する。よく見ると、それは水色のゼリーのようだった。
発射されたゼリーは九鬼さんに着弾し、まるでその場で培養がなされているかのように九鬼さんの全身を覆っていく。たちまち、九鬼さんの身体は球体状のゼリーで覆われ、身動きが取れなくなった。
「九鬼さんっ!」
僕が助けに入ろうとすると、九鬼さんは涼しい顔で首を振った。手を出すなと言うことだろうか。
「……っ!」
僕は躊躇しつつも、九鬼さんの判断に従うことにした。その間にも、哲学者に目覚めたばかりの男性客は九鬼さんにじりじりと近寄る。
「俺はなぁ……、めぐちゃんが好きなんだ……。だから一杯貢ぐんだー!!」
錯乱した男性客は九鬼さんに向かって殴りかかろうとする。しかし、たかく振り上げられた拳は頂点付近で制止した。
店内の全員が困惑する中、九鬼さんがこの状況もこともなげに口を開く。
「合同に縛られた者の、なんと儚いことか。その先にあるのは消滅というジレンマのみだ。わかるかい? 大事なのは、『いき』な人間でいることだ」
九鬼さんは動きを止めた男性客に話しかけるようにしながら、ゼリーの中から脱出した。男性客は白目をむき、その場に膝から崩れ落ちる。
九鬼さんはきょとんとその様子を見ていた僕に気づき、
「あぁ、そうか。どちらにせよ、これじゃあわからないのか」
と呟く。そして、
「じゃあ、ヤマト君にも体験してもらおうかな」
九鬼さんがそう言うと、僕はいつの間にか広い草原にいた。頭上には快晴の空が広がり、足下の草花は風に揺れて僕の足をくすぐる。
「俺の能力、『いきの構造』はこんなふうに、相手に幻覚を見せるというものなんだ。発動条件は、対象者が俺の姿、声、におい、足音などの媚態をどれかひとつでも知覚していること」
「これが、幻覚……?」
頬を撫でる風も、草花の青々とした香りも、青空と草原の美しいコントラストも、そのどれもがあまりにもリアルに感じられ、能力によるものだとわかった後でも疑いたくなる。
「ちなみにさきほど彼には、思い人であるめぐちゃんから告白される幻覚を見せた後で、めぐちゃんの身体を大量のウジ虫が食い破って出てくる幻覚を見せた」
「それは……、キツいですね」
聞くだけでも嗚咽を漏らしそうになる幻覚を見せられた男性客に同情の念さえ覚える。
九鬼さんが指を鳴らすと、僕は元いたコンセプトカフェの店内に戻ってきた。幻覚を見せられている間は僕も挙動不審な行動を取っていたようで、カフェの従業員が奇怪なものでも見るかのような視線を僕に向けている。
九鬼さんは口から泡を吹いて倒れた男性客に近付き、改めて事実を伝える。
「お兄さん、あのゼリーは既製品らしいですよ。だから、また同じものが食べたかったら、製造元に要望を送ってみては?」
それを聞いた男性客は一筋の涙を流す。
「ううっ、俺は何も、昔の味に戻して欲しかったわけじゃない。ただ、いつもめぐちゃんは給仕するときに『愛を込めて作らせていただきました』って言ってくれるんだ……。でも今日はそれがなくて……。なんだか寂しくて……」
男性客はそのまま号泣し始めた。従業員たちがドン引きしているなか、九鬼さんだけが、優しく男性客の肩を叩いた。
「……人が哲学者に目覚めるきっかけは様々だ。さっきみたいに、マイナスな感情が原因で哲学者になり、その自分の苦しみのままに暴走してしまう人も少なからず存在する。俺たちは、そんな人々を機械的に罰するんじゃなくて、救ってあげなくちゃあならない」
「すみません、良いこと言ってるのはわかるんですが、頭にゼリーつきまくってる人の話は入ってこないです」
「おや、まだ残っていたか」
そう言って九鬼さんは頭についたゼリーの取り残しを指でつまんで道に放った。
先ほどのゼリー男の一件を片付けた僕たちは本部へ戻ろうとしていた。
九鬼さんはつかみ所のない人物だが、彼の能力はとても強力なもののように思える。それと同時に、第六支部が戦闘向きではない、というアダムの言葉の本当の意味がより深く理解できた気がした。
早く自分も追いつかねば、そんなことを考えていると、またも九鬼さんに声を掛ける女性が現れた。
「九鬼、先月のツケにしといた分の支払い、まだもらってないんだけど」
ダメーズジーンズにニットを着た、ワンレングスの長い髪の大人っぽい女性だった。
「あぁ、返そうとは思っているんだけど、あいにく今は手持ちがなくてね」
「まったく、いつもそうやってのらりくらりと……。そっちの子は後輩?」
夕方だがもう呑んでいるのか、アルコールの香りが漂ってくる。
「そうそう。彼も第六支部の仲間。つい最近はいったんだよ」
「な……!」
九鬼さんの不用意な発言に僕は思わず顔をゆがめる。アダムから「無闇矢鱈に哲学者であることを言いふらさないように」と言われたことを覚えていたからだ。
「あぁ、大丈夫大丈夫。私も哲学者だから」
そう言ってその女性は口角を上げた。
「そう、なんですか……?」
「えぇ、私はバタイユ。よろしくね」
「伊瀬ヤマトです。宜しくお願いします」
「彼女はヴァイオレットシティでバーを経営してるんだ。居場所がない哲学者たちの憩いの場所になるようなね」
九鬼さんがそう言うと、バタイユさんはいやいや、と手を振った。
「別に私はやりたいことをやってるだけよ」
バタイユさんは気取らずに応える。そしてこう続けた。
「それよりもヤマト、この男を先輩だからって理由だけで敬っちゃダメよ。こいつ、いろんな女の子に思わせぶりな態度を見せるくせに、告白されたら絶対に断るっていう、肥えだめから生まれたようなろくでもないやつなんだから」
「酷い言われようだなぁ」
九鬼さんはいつものように笑顔を崩さない。しかし、否定しないところを見ると、事実のようだ。
「あ、あはは……」
僕は苦笑いするほかない。
「それじゃあ、ツケにしといた分、忘れんなよ。来月になったら利子つけるからなー」
そう言ってバタイユさんは去っていった。
「彼女だけは、どうやっても落とせないんだ」
バタイユさんの後ろ姿をしげしげと眺める九鬼さんに僕は尋ねる。
「……好き、なんですか?」
「それとは少し違うかな。でも、追う身より追われる身の方が良いだろう?」
「そういうところがろくでもないって言われるんですよ」
「やだな、『いき』だって言ってくれよ」
今日一日で九鬼さんの人となりがだいぶわかったような気がする。
僕は、はいはい、と適当な相づちを打ったが、九鬼さんはいつもの笑顔を崩さなかった。
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