第二話 目覚め①

 まぶしい、と感じて目を開けると、そこは真っ白な病室のようだった。閉め切られた窓から差し込む日差しがベッドで横になっている自分の顔を照らしている。

上半身を起こし、首を振る。自分が横になっているベッド以外には目につくものはなく、殺風景だと感じた。花瓶すら置かれていない窓辺には、カーテンが揺れることもなく垂れ下がっている。


 僕は無意識に胸の辺りをさする。大蛇のような姿に変身した哲学者に吹き飛ばされたときの記憶は鮮明に思い出せるが、僕の身体には外傷どころか、多少の痛みすらもなかった。

「夢……、だったのか?」

 そんなはずはない、と思いながらも僕は口に出していた。

「目が覚めたみたいね」


 突然、人の声が聞こえたことに驚き、肩を引き上げる。音もなく部屋に入ってきたのか、それとも元々そこにいたことに僕が気がつかなかっただけなのかはわからないが、入り口の扉の横に置かれたパイプ椅子に一人の女性が座っていた。意識を失う直前、僕の目の前に現れた二人組のうちの一人だ。

 濃い緑色のスーツを着た彼女は立ち上がってこちらに近付いてくる。パンツスタイルであるためか、すらっとした長い足に目がいく。


「アンタが昏睡状態でいるうちに、持ち物などから軽く調べさせてもらったわ」

 そう言ってその女性はつらつらと僕の個人情報を述べ始めた。

「伊瀬ヤマト、十九歳。トウゴウ県出身、家族構成は両親と弟の四人。一年前の四月、大学進学のためムサシ県に上京してきたが、現在は大学を自主退学し無職、ということで間違いないかしら?」

「えぇ、まぁ……。って、あなたは一体誰なんですか」

 僕は状況が理解できず、動揺と彼女をいぶかしむ気持ちがない交ぜになる。


「……、そう。やっぱり何も覚えてないのね」

 そう言って彼女は僕の身体にかけられていた薄い掛け布団をガバッと剥いだ。

「傷もないみたいね。じゃあ、行きましょ」

 彼女は振り返ってドアの方へ歩き出す。僕が呆然としているのに気がつくと、ついてくるように首で合図をした。

 彼女の正体も、なぜ自分がここにいるのかもわからないままだったが、彼女についていくほかに今の僕にできることはないように思えた。




 僕が連れてこられたのは、五畳くらいの広さの部屋だった。大きめの机を挟んで両側に椅子があるのみで窓も時計もなく、先ほどの病室よりも圧迫感を覚える。

 向かい側の椅子に座った彼女はなにやら束になった書類をペラペラとめくっていた。


 顔立ちからは僕と同じくらいの年齢か、少し若いくらいに見えるが、その強気な態度に臆している自分がいる。右側のこめかみの辺り、片方だけ編み込まれた髪は伝統工芸品のように均一で、几帳面な性格なのだろうか、と思わされる。

「さて、じゃあ、アンタが覚えていること話してもらいましょうか」

 僕をまっすぐに見つめて彼女は言う。


「ちょ、ちょっと待ってください。僕、意識を失ってからの記憶が全くなくて、そもそも、あなたは誰なんですか?」

 僕は再度、彼女に素性を尋ねる。

「『エウダイモニア』って知ってる?」

『エウダイモニア』、彼女が口にしたそれは、社会にあだなす哲学者を取り締まる秘密結社の名称だった。数十年前のとある事件以降、突如としてその存在が周知されることになり、近年では警察などの行政機関とも連携を取ることで治安維持に貢献している。しかし、元々秘密結社であるという出自からか、メンバーの情報や具体的な活動内容については一般人には公表されていない。唯一、知り得ることは、組織の構成員が全員哲学者であるということと、悪しき哲学者を取り締まる善良な哲学者集団ということくらいだ。


「えぇ、まぁ、多少は」

「アタシはそこに所属してるハンナ・アーレントよ」

 ようやく彼女の名前が聞けたことに僕は少しほっとした気持ちになる。つまり、彼女も何かしらの能力を持った哲学者ということだろう。

「で、アンタを捕獲したのもアタシってわけ」

「ほ、捕獲……?」

「そ」

 彼女はあっけらかんと同意する。


「待ってください、僕は暴れていた哲学者を何とかしようと思って……」

「見苦しい言い訳はしない方が身の為よ。現行犯で捕まえたんだから」

「か、勘違いです。なにかの」

「これだけ盛大に暴れたくせに、よくそんな口がきけるわね」

 そう言ってハンナが取り出したのは数枚の写真だった。

 半壊した街の中に、騎士を彷彿とさせるような黒い鎧を身に纏い、肌が浅黒く変色し、満月のような瞳をした鋭い眼光の人間が脱力したように立っている。その人物の足下にはタールのような粘性のある黒々とした液体が溜まっている。写真に写ったその人物の顔をよく見ると、それは紛れもなく僕自身だった。


「これが、僕……?」

 別の写真には僕らしきその怪物が咆哮を上げる姿や、ほとばしる黒い稲妻のような攻撃で周囲の木々やフェンスを破壊している様子、それから大人しくなった僕がハンナによって地面に押さえつけられている様子が写し出されていた。

「これでもまだ、自分が危険な哲学者じゃないって言い張れる?」

 僕はあんぐりと開いた口を手で押さえる。ハンナは続ける。


「確かに、現場からはアンタのものじゃない別の哲学者の痕跡も発見されたわ。そいつも今、私たちの仲間が捜索を開始してる。でもね、仮にアンタの言っていることのほとんどが嘘じゃなかったとしても、これだけ暴れりゃ、立派な哲学者対策法違反よ」

「ぼ、僕が哲学者……?」

 たしかに、あのときの僕の超常的な能力も哲学者のそれだと言われれば納得できる。

「でも、僕、今まで自分にこんな力があるなんて……。あのときだって必死で……」

「なんか勘違いしてるみたいね。人は哲学者として『うまれる』んじゃない。哲学者に『なる』のよ」

 僕を見つめるハンナの表情は、軽蔑のようにも、哀れみのようにも、無感情のようにもとれた。


「そんな、でも、たしかにこの写真に写ってるのは……」

 うわごとのように呟く僕に、ハンナは追い打ちを掛けるように口を開く。

「それに、アンタさっき意識を失ってからの記憶が全くないって言ってたわよね。それなのにどうして自分がなにもやってない、無実だって言い張れるわけ?」

 彼女のその言葉を聞いた直後、僕は頭が割れるような頭痛に襲われる。それとほぼ同時に、失っていたはずの記憶が思い出される。制御の効かなくなった身体で暴れ回った記憶、ハンナを含む二人の哲学者と交戦した記憶、それらが鮮明に。


「僕が、やりました……」

「思い出したみたいね」

「いや、でも……」

 僕は敵意がなかったことだけでも伝えようとするが、弁明を始める前にハンナは振り上げた片手を勢いよく机にたたきつけた。

「この期に及んで女々しいわね。そういうの、一番イラつくんだけど」

 僕は萎縮して黙りこくってしまう。無言の時間が流れる中、軽いノック音が響いた。


ドアを開けて入ってきたのは、痩せこけた冴えない中年男性だった。伸ばしっぱなしの口ひげに薄汚れたカーゴパンツに皺だらけのブルゾンという風体のその男性は、入ってくるなり、

「お、やってるねぇ」

となじみの居酒屋にでもやってきたかのようだ。先ほどまでの真剣で重苦しい雰囲気が弛緩する。そして、僕に軽く微笑んでからハンナを見て、

「ええと、ヤマト君だっけ。その子、無罪放免で釈放することになったから」

と言った。


「「は?」」

 僕とハンナは同時に声を上げる。

「どうしてよ。いきなり言われても納得できないんだけど」

 ハンナは続けて不服そうな声を上げる。話しぶりから察するに、この男性もエウダイモニアのメンバーの一人なのだろう。

「ダメだよ、ハンナちゃん。目上の人には敬語を使おうっていつも言ってるじゃない」

「……どういうことですか、支部長」

 ハンナは渋々といった様子で言い直す。


 風体からはおおよそそう見えなかったが、支部長と呼ばれるからにはそれなりに高い役職に就いているらしい。その男性は、飄々と応える。

「上の判断だからボクにもわかんないのよ、ごめんね。んじゃ、そういうことだから、いったん、彼はボクが預かるよ」

 そう言ってその男性は僕を手招きする。

 僕は困惑しながらも、ハンナを一瞥し軽く頭を下げてから部屋を出た。


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