第一話 dizzy④
「それじゃ、このあたりで」
公園での独白の後、サツキ先輩は僕を自宅まで送り届けてくれた。
「わざわざありがとうございます」
「うん。めそめそする前に私に連絡しなさいよ。喝入れてあげるから」
「遠慮しときます」
「ちょっと」
「冗談ですよ。ありがとうございます」
「……、だいぶ元気になったようで安心したわ」
「おかげさまで」
「それじゃあ、またね」
「はい、また」
そう言って僕は先輩の背中を見送る。あの人がいるなら、まだバイトを続けていても良かったかもな、などと思いながら丁字路を曲がって先輩の姿が見えなくなったのを確認してから、僕は家へ入ろうとした。その時だった。
「きゃああああ!!」
甲高い悲鳴があたりにこだまする。声がしたのは、先輩が去っていった方角からだった。
僕は嫌な予感を感じながら、声のした方へと掛けだした。
そこで僕が目にしたのは、怯えた様子で地面に尻餅をつく先輩と、先輩ににじり寄る強面の若い男だった。
「そんな大きな声を出さなくてもいいじゃんか。ちょっと遊ばないかって声かけただけだぜ?」
男は僕の存在にも気がついたようで、
「あれ、もしかして知り合い?」
と僕に尋ねる。遅れて気がついた先輩は身体を震わせながらこちらを見た。
「なんだよ、めんどくせぇなぁ」
男は頭をポリポリと掻く。
「もういいや。二人まとめてやっちまおう。憂さ晴らししたい気分だったんだ」
そう言うと男は異形の姿へと変わっていった。身体中の筋肉が皮膚を突き破って露出し、肥大化していく。やがてそれは、全長10メートルはあろうかという巨大な蛇の姿になった。
僕の脳裏には昼過ぎの記憶がフラッシュバックする。
「哲学者……?」
人間でありながら、人ならざる力を持つもの。今目の前で大蛇に変貌した彼がそれであろう。警察官たちが口にしていた『蛇』も、おそらく彼のことだ。
僕は一目散に背を向けて走り出す。しかし、先輩は地面に膝をついたままだ。見るに、腰が抜けて動けないらしい。
僕の頭の中を様々な思考が駆け巡る。
先輩を背負って逃げることはできるかいや無理だこのまま逃げれば自分は助かるかもしれないでも先輩を置いてはいけないでも自分も助かりたいいや先輩を見捨てるのか見捨てるんじゃない最善の選択をしたいだけだ人を見殺すことが最善かちがうそうじゃないいつからこうなった今日はやっぱり嫌なことばかりだどうしていればよかったんだ。
いや、そうじゃないだろ。
僕は踏み出した足を止め、再び大蛇に向き直る。
どうしていれば良かったか、じゃなくて、今何をするべきか、だ。
「ちょっ……、なんで逃げないのよ!」
先輩は必死な様子で声を荒げる。僕は首だけ振り返りこう言った。
「ここで先輩を見捨てたら、きっと僕は、一生僕自身を許せなくなると思うんです。今、この瞬間が、僕が何者かである最後のチャンスなんです……!」
きっと、その時の僕は発言とは裏腹に、今世紀最大に情けない顔をしていたと思う。足だってガクガクと震えていたし、涙で視界もにじんでいた。もっと言えば、何かしら有効な打開策が思いついていたわけでもない。
それでも、そうしなきゃいけないと直感したのだ。
大蛇が全身をうねらせて、こちらへ突進してくる。
僕は大蛇に破壊され、根元から折れた道路標識を手に取り、迎え撃つ。
「うあああぁぁぁぁ!!!!」
自分を奮い立たせるように、叫び声を上げながら大蛇に向かって標識を振り回した。
だが、その意気むなしく、振り回された大蛇の尾に僕の身体はいとも簡単になぎ払われた。肋骨が砕ける音がする。コンクリートの壁に打ち付けられ、呼吸することさえままならない。
頭がぼうっとし、徐々にかすんでいく視界に、自分はここで死ぬのだ、と直感した。
「死ぬね、このままだと」
僕の目の前にはなぜか、数時間前に道ばたでぶつかった青年の姿があった。
走馬灯のようなものだろうか。両親や友人の姿ではなく、さっき偶然ぶつかっただけの人物が思い出されるなんて味気ないな、と思っていると、彼はこう続ける。
「いいのかい? このまま倒れていても」
僕は心の中で呟く。生きていたかったけど、このまま死んでも良いかもしれない。
「なぜだね」
何者でもなく生きているのは、死ぬよりも辛いことだから。
「そうか。……、しかしね」
?
「人生というものは、得てして自分の思い通りには転がらないものだよ」
なにを言っている?
「欲しかったものは、一度諦めてからの方が手に入りやすい、ということさ」
だからなにを……。
「常に問い続けるんだ」
彼の姿は霧のようにゆっくりと消えていく。
「もうこの世界に、神様などいないのだから」
無意識のうちに、僕は立ち上がっていた。先ほどまで朦朧としていた意識は、驚くほどに澄みきっているが、どこか、自分の身体ではないような感覚を憶える。幻覚だろうか。黒いオーラのようなものが身体中を纏っているように見える。
あの大蛇を倒さなければならない、この手で。その思いが全身を駆け巡っている。先ほどまでとは違うのは、それが今の自分にはできるという根拠のない自信があることだった。
立ち上がった僕に気がついた大蛇は再びこちらに向かってくる。先ほどよりも速いスピードで。
僕が左手を掲げると、僕の身体を覆っていた黒いオーラは大きな一本の槍のような形を形成する。
僕がしたことはただ一つだけ。掲げた左手を振り下ろしたこと。それに従うように黒い槍は大蛇に向かって飛んでいく。あまりのスピードに空気を切り裂く音と、衝撃波が発生する。黒い槍と正面衝突した大蛇は全身を貫かれ、鈍い音を立てながら四散した。千切れ千切れになった大蛇の肉塊がぼとぼとと音を立てながら降り注ぐ。
「やっ……た、のか?」
言うが早いか、僕の全身は激痛に襲われる。あまりの痛みに膝をつくと、食道を血が上ってきて、大量の血を吐いた。
なにかを考える間もなく、僕は身体が、意識が自分の力で動かせなくなっていることを感じる。それは死に向かう脱力感というよりは、何者かに身体を則られるような感覚に近かった。
そういえば、先輩は無事だろうか。彼女さえ無事ならそれでいい。そう思い、朦朧とする意識の中、先輩がいるはずの後ろを振り向くと、そこには見慣れない二人組がいた。
そのうちの一人、フードをかぶった少年が言う。
「対象を発見。これより討伐に移行します」
もう一方の、長身痩躯の女性が言う。
「これより『裁き』を与える」
そこで、僕の意識は途切れた。
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